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森の中は、静かだった。
風の音もしない。虫の声も、鳥のさえずりさえも、どこか遠くに押しやられたみたいだった。
スミレは、背中に汗をかんじながら、一歩づつ足を進めていった。
「…誰か、いるの?」
返事はなかった。けれど不思議なことに誰かがこっちを見っている気配がした。
その視線は鋭くもなく、優しいとも言えない
ただひどく遠い目で、こちらを見つめているよう
ふと、足元に落ちていた葉がひとりでに舞い上がった。
それと同時にーー森の奥から声がした。
「君は、人間か?」
スミレはギョッとして振り返った。けれど誰もいない。
けれどその声は耳ではなく、胸の奥で響いたように感じた。
「僕は、風の獣。だけどーー」
風が一瞬だけ戻り、スミレの頬を撫でた。葉が舞い、木々がざわめく。
「名前を無くしたんだ」
そのときだった。木の間から、何かが現れた。
それは、獣だった。
鹿のような角をもち、獣の身体に鳥の羽のようなものが生えている。
目は深い緑色で、夜の湖のように澄んでいた。
大きくも小さくもなく、小さくもなく、人間の子供と同じくらいの背丈。
でも、目を離すと、すぐに霧に紛れてしまいそうな、不確かな存在だった。
「名前が無いと、この森の風に飲まれてしまう。
だから、僕はこのままだと消える」
スミレは言葉に詰まった。
どうして、こんなことを自分に話すの?
どうして、この森の奥で、名前を無くしたなんてーー?
「君にしか聞こえなかったんだよ。僕の声」
獣の目がスミレのことを真っ直ぐに見た。
「お願い。名前を、探して。それが見つかれば、森も、風も、ぼくも……きっと戻れる」
スミレはその言葉が嘘では無いとわかった。
理由なんてなかった。ただ、胸の奥で何かが動いた。
「……わたし、スミレっていうの」
「スミレ……いい名前だ」
風の獣は、ふっと笑ったようだった。
そしてその瞬間、空からひとひらの花びらが舞落ちた。
それは、すみれの髪にそっと触れて、すぐに霧の中に消えた。