テラーノベル
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水曜の夜。午後十時を回っていた。
勇斗は、自分の部屋のソファでスマートフォンを握ったまま、画面を睨んでいた。
通話ボタンの上で、親指が止まっている。
役員の前に立つときでも、こんなに手は止まらない。
「……押すだけだろ」
自分に言って押した。
呼び出し音は、三回。
『……はい』
低い落ち着いた声。背後に静けさがあった。もう、家にいるのだ。
「勇斗です。夜分にすみません」
『いえ。……何か、ありましたか』
仕事の電話だと、思ったのだろう。声が、少し硬い。
「いえ、仕事じゃないです。お願いがあって」
『お願い』
「今度の土曜、空いてますか」
短い沈黙。
『……空いています』
「コーヒーの淹れ方、教えてもらえませんか。俺の部屋で」
沈黙が、さっきより長かった。
『器具はありますか』
「ありません。買います」
『豆は』
「それも、買います」
『ミルは。ドリッパーは。ペーパーの号数は』
「全部、仁人さんが言ってくれたとおりに、揃えます」
小さな、息の音が聞こえた。笑ったのか呆れたのか、分からなかった。
『……勇斗さん』
「はい」
『本当に教えてほしいって、思っていますか?』
勇斗は、目を閉じた。バレている。当然だった。高校生だって、もっとまともな誘い方をする。
「はい。半分は」
『半分』
「半分は本気で習いたいです。前に、言ったじゃないですか。今度は俺が差し入れします、って。その準備です」
『……言っていましたね』
「あなたが飲めるコーヒーを、自分で、淹れられるようになりたいんです。それで、残りの半分は」
息を、吸った。
「土曜に、あなたに、会いたいです」
電話の向こうが、静かになった。冷蔵庫の音が、かすかに聞こえた。
「…断られても、また誘います」
『……』
「仁人さん?」
『……何時に?』
声がさっきより、わずかに低かった。
「午後なら、いつでも」
『……四時に、伺います』
「え」
『四時です。』
通話はそこで切れた。
勇斗は、ソファにずるずると沈み込んだ。スマートフォンを、胸の上に乗せる。
天井を見る。
心臓がうるさかった。
「……了承、された」
声に出して言ったら、やっと、実感が湧いた。
二月の最後の土曜日。午後三時四十分。
勇斗は、台所の前に立って、並べた道具を見下ろしていた。
ミル、ドリッパー、ペーパー、ドリップケトル、サーバーなど一式。
昨日の夜、専門店で、店員に勧められるまま揃えた。
「……揃えすぎたか」
試しに、一度淹れてみた。見よう見まねで。おいしくなかった。流しに捨てた。
炭酸@サイダー🌠💙🎧️
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部屋は、朝から掃除した。床は拭いた。クッションは並べ直した。
本棚の、経済書の背表紙は揃えた。その隣に、一冊だけ詩集がある。
先週、書店で買った古い文庫。何が書いてあるのか、半分も分からない。
ただ、仁人が繰り返し読んでいる本と同じ作家だった。
好きだから、読んだのではない。必要だった。
あの人が、言葉に詰まるとき。何も言わずに、目を伏せるとき。その沈黙の中に、何が入っているのか。
何を読んで、何を大事に、思っている人なのか。それを知らないと、聞き逃す気がした。
仕事と同じだ。相手の前提と背後を読まずに、交渉の席には着かない。
動機が不純なのは、分かっている。
ソファに座った。クッションを膝に抱える。
時計を見る。三時四十二分。
背もたれに頭を預けた。
欲しいものは、全部手に入れてきた。
受験も、内定も、昇進も、案件も。欲しいと思ったら、調べた。先回りした。
人より、二時間早く起きた。嫌われる前に、手を打った。
笑って場を温めて、相手の警戒を先に解いた。それで、たいてい、手に入った。
恋愛だって、そうだった。引くときは、引く。押すときは、押す。間合いの取り方は、知っているつもりだった。相手が何を待っているのかを読むのは、得意だった。
けれど、仁人には通じない。
引けば、本当に引かれる。「そうですか」で、終わる。駆け引きに乗ってこない。
押せば、どうなるか。
それも、知っている。「初めてです」と言い切った夜も、「撤回した草案です」と完璧に否定した夜も。
追い詰められた仁人は、取り乱さない。完璧になる。完璧な顔で逃げる。
だから、強く迫れば、きっと逃げる。性急に求めれば、二度と鍵を開けてくれない。
最初に思いついたのは、外堀を埋めることだった。
逃げ道を、一つずつ塞ぐ。会う口実を重ねる。断りにくい頼み事を作る。
条件を先に固めて、相手が降りられない形にする。交渉を生業とする人間の癖だ。
そこまで考えて、勇斗は苦く笑った。
それは、あの二人の、少し前の形と同じだった。才能のためという、もっともらしい理由で、手の中に置こうとする。守るという名の、囲い込み。
「……違うな」
呟いた。
逃げられないように、するんじゃない。
逃げたくならないように、するんだ。
扉を塞ぐのではなく、開けておく。入ってきても、出ていっても、咎めない。
咎めないまま、ここが、居心地のいい場所であり続ける。そんな気の長いことを、自分が考える日が来るとは、思わなかった。
欲しい。強く欲しい。それは本当だ。
けれど、欲しいものを手に入れる方法は、一つしか思いつかなかった。
待つこと。
「……俺が、待つのかよ」
額を、掌で押さえた。可笑しかった。笑ってしまうほど、慣れていなかった。
でも、嫌ではなかった。
ドアホンが、鳴った。
時計は、午後四時ちょうど。
クッションを置いた。深く息を吸って、玄関に向かった。
扉を開けると、仁人が立っていた。
黒のコートに、きっちり巻いたマフラー。片手に紙袋。
そして。
眼鏡を、かけていた。
細いべっ甲色のフレーム。少し丸みのあるクラシックな形。レンズの奥の目が、いつもより大きく見えた。髪も違った。整えていない。前髪が、額に、柔らかく落ちていた。
「……こんにちは」
「こんにちは」
「……何か」
「いえ。眼鏡、ですか」
「休みの日は、かけています。コンタクトは、疲れるので」
当たり前のことのように言う。仕事で会うときは、一度もかけていなかった。
勇斗は、返事を忘れかけた。
「似合います」
「……そうですか」
平らな声。けれど、仁人は視線を横に逸らした。
「どうぞ」
靴をきちんと揃えてから、紙袋を差し出した。
「手土産です」
中を覗く。小さな、素焼きの鉢。細い、緑の針のような葉。
「ローズマリー」
「枯れにくいので。……水は土が乾いたらで、足ります」
「ありがとうございます。植物は、初めてだ」
「あなたは、植物を育てる人には見えません」
「当たってます」
もう一度、紙袋に手を入れた。
「……それと」
取り出したのは、白い小さな箱。
「カヌレです。コーヒーに合うので」
「ありがとうございます」
「それから」
また、紙袋に手が入った。
三つめは、茶色の小さな袋。コーヒー豆。焙煎所のスタンプが押してあった。
「豆です。私がよく買うところの」
「いいんですか。教わるのは、俺なのに」
「……教材です」
真面目な顔で言った。
勇斗は、三つの手土産を、両手に抱えた。
「仁人さん」
「はい」
「多くないですか」
「……たまたまです」
「たまたま、三つも」
「通りがかったので」
「ローズマリーの鉢と、焼き菓子と、焙煎所の豆。全部、別の店だけど」
「……」
仁人の耳が赤くなった。
勇斗は、箱の側面の小さなシールに気づいた。焼き上がりの日付と時刻。今朝。午前九時半。
「このカヌレ」
「……何ですか」
「この店、土曜は、朝から行列ですよね」
「……」
「並びました?」
「並んでいません」
「並びました?」
「……十分ほど、です」
勇斗は、吹き出した。
「楽しみに、してくれてたんですね」
「うるさい」
言葉とは裏腹に、耳の先が赤かった。
「朝は早く目が覚めただけです。三つも買ったのは、全部必要だったからで」
「はい。ありがとうございます」
「……笑わないでください」
「笑ってません。嬉しいんです」
勇斗は、正直に言った。
「俺も楽しみで、昨日の夜あまり眠れませんでした」
仁人は、口を開けて閉じた。それから、小さく息を吐いた。
「……おあいこです」
仁人は、マフラーをほどいた。くるくると丁寧に。コートのボタンを外す。肩から滑らせる。
勇斗は、それを受け取って、動けなくなった。
どこか、いつもの延長で、コートの下はスーツと思い込んでいた。土曜なのに。
違った。
淡い生成りのニット。ゆったりしたVネック。柔らかそうな編み地。袖が少し長くて、指先が半分隠れている。細身のグレーのパンツ。V字の襟ぐり。そこから覗く首筋。鎖骨の線。仕事の日には、きっちり閉じたシャツの下に、隠れていた白い肌。
誰だ、と思った。
一瞬、本気でそう思った。
「……勇斗さん?」
「あ。はい」
勇斗は、コートをハンガーに掛けた。手が少し不器用だった。
こんな顔をするのか。こんな服を着るのか。
いつも凛とまっすぐで、一分の隙もない仕事の顔の人が。
肩の力の抜けた、ふわりとした格好で、眼鏡をかけて、眉の線まで柔らかくなっている。
この人を、知っている気がしていた。
書類を挟んで、数字を挟んで、何度も向かい合った。夜のオフィスで。雪の縁側で。
何も、知らなかった。
この顔を知っているのは、今は自分だけだ。そう思うのは、うぬぼれだろうか。
けれど、この距離で、この無防備さを向けられているのは、確かに自分だった。
知らなかったところを、また一つ、見つけてしまった。誰にも教えたくない。
勇斗は、心の中で、白旗を上げた。完敗だった。
「……何ですか。見すぎです」
「すみません」
「仕事のときと、違いすぎますか」
「いえ」
勇斗は、首を横に振った。
「全然。びっくりしただけです。いい意味で」
「いい意味で」
仁人は、袖口を、指先で少し引いた。袖の中に指が隠れる。
勇斗は、見なかったふりをした。見たら、また、ここで立ち止まってしまう。
「どうぞ。上がってください」
台所に並べた道具を見て、仁人は立ち止まった。
「……揃えすぎです」
「やっぱり」
「ミルが、二種類あります」
「店員さんに、勧められて」
「手挽きと電動を、両方買う人は、見たことがありません」
「迷って、両方、買いました」
仁人の肩が、小さく震えた。声を殺して笑っている。眼鏡の奥で、目が細くなっていた。
勇斗は、台所の隅の温度計を指さした。
「あと、これも」
「温度計はいりません」
「いらないんですか」
「ケトルを火から下ろして、三十秒待てば、足ります」
仁人は、ニットの袖を肘までまくった。細い手首。
「まず、豆です。浅煎りより少し深めを、選びました。酸味が強いと、冷めたときに舌に残るので。……冷めても、苦くならない豆です」
「冷めても」
「はい。私が飲むので」
勇斗は、その言葉を、胸の中で転がした。
仁人は続けた。豆の量。挽き目の粗さ。手挽きのミルの回し方。勇斗が、ごりごりとハンドルを回すと、香りが立ち上った。深くて、少し甘い、匂い。
「力を、入れすぎないでください。一定の速さで」
「こう、ですか」
「もう少し、ゆっくり」
次は、湯。
「沸騰したら、火を止めて少し置きます。九十度前後。……ケトルを」
勇斗は、ケトルを手に取った。細い口。慣れない重さ。
「初めは、粉全体に湯を含ませます。蒸らしです。三十秒ぐらい」
「はい」
「そのあと、中心から、小さく円を描いて」
勇斗の手が、微かに揺れた。湯が不揃いに落ちる。
仁人が、勇斗の後ろに立った。
背中に、体温が近づいた。仁人の手が、勇斗の手の上に重なる。ケトルの持ち手を包むように。
「細く一定にしてください。焦らないで、少しずつ」
声が、耳元でした。
低くて静かで、真剣だった。
勇斗は、息を止めた。湯の流れが止まらないように。
「……近いです」
「集中してください」
「集中してます。だから、近いです」
「……」
沈黙。
仁人の手が離れた。数歩、後ろに下がる気配。
「……わざとじゃないです」
振り返ると、仁人は、耳まで真っ赤にして、台所の壁を見ていた。
勇斗は、必死に笑いを堪えた。
二つのカップに、コーヒーを注いだ。
勇斗の分は、そのまま。湯気が立っている。
仁人の分は、サーバーから別のカップに移して、少し離れた場所に置いた。
勇斗は、ぬるくなっていく、仁人のカップを見た。
待つのは、嫌いではない、とまた思った。
ソファに座った。
仁人は端に。勇斗は反対の端に。二人の間にクッションを一つ。
勇斗は、自分で淹れた一杯を飲んだ。
「……うまい」
信じられなかった。苦みの奥に、甘さがある。自分でいれたのとは別物だった。
「合格です」
「ありがとうございます、先生」
仁人は、ぬるくなった自分のカップを、両手で包んだ。一口。それから、小さく息をついた。
「……おいしいです」
「よかった」
「あなたが、淹れたので、余計に」
さらりと言って、自分で顔を逸らした。
勇斗は、聞こえなかったふりをした。聞き返したら、きっと顔が緩んでしまう。
仁人の視線が、本棚で止まった。
詩集。
勇斗が、先に口を開いた。
「読んでます」
「……どうして」
「必要だったんです」
仁人が、勇斗を見た。眼鏡の奥の、目。
「好きだから、読んでるんじゃないです。あなたが言葉に詰まるとき、何も言わずに目を伏せるとき。その中に、何が入ってるのか、知らないと、聞き逃す気がして。仕事と同じです。相手の前提を、読んでおく」
「……」
「動機が不純で、すみません。半分も、分かりません」
仁人は、しばらく黙っていた。
それから、立ち上がって本棚の前に行った。詩集を一冊、抜く。今度は、クッションのこちら側に座った。
勇斗の、すぐ横。
「分からないと言えるのは、いいことです。俺は、分かったふりをした本が、何冊もあります」
「仁人さんが?」
「学生の頃です。……柔太朗に、見抜かれました」
くすり、と笑う。
仁人は、ページをめくった。折り目の、ついたところ。指先で行をなぞる。
「ここが、一番好きなところです」
小さな声で、読んだ。
短い一節だった。低い声が、部屋の空気に溶けていく。湯気のように。
意味は、半分も掴めなかった。けれど、声の温度は分かった。
勇斗は、目を閉じた。
声に出して読んだとき、少し体が変わる気がした。その答えが、今、隣にあった。
「……どうでした」
「分かりません」
「はい」
「でも、好きです。読み方が」
仁人は、ページに視線を落としたまま、小さく笑った。
「それで、十分です」
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いやあ、第8話めちゃくちゃ良かった……!勇斗が「逃げられないようにするんじゃなくて、逃げたくならないようにする」って考えるところ、グッと来た。自分の欲しがり方をちゃんとアップデートしてるのがいいよな。あと、仁人の休日スタイル(眼鏡×生成りニット)ギャップでやられたわ。仕事の顔しか知らなかった読者にも刺さる描写だった。コーヒー淹れるシーンの後ろから手を重ねるくだり、距離の詰め方が天才的で悶えた🔥 次回、待つ側の勇斗がどう動くか超楽しみ!