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三十九度を超える高熱の蒼さんを寝室のベッドに羽毛布団で封印した私は、ペントハウスの広々としたアイランドキッチンへと足を踏み入れた。
黒御影石のカウンターが輝くこの場所は、蒼さんが毎日私のために魔法のような手料理を生み出してきた城であり、同時に私にとっては『絶対立ち入り禁止の聖域』だった。私が洗い物一つしようとしても「手荒れと腱鞘炎のリスクがある」と追い出されていたため、このキッチンに一人で立つのは今日が初めてだ。
プロ仕様のIHクッキングヒーターに、壁一面に並んだ銅鍋や寸胴鍋、温度と湿度が徹底管理されたセラーの中に並ぶ選び抜かれた調味料のボトル。すべてが塵一つなく磨き上げられており、料理初心者の私にはまるで最新鋭の研究所か精密機械のコックピットのように見えた。
「よし……! お義母様のテストの前から、こういう時のためにこっそり基礎栄養学と看病食のレシピ本を読んで勉強してたんだから。私にだって絶対作れるはず!」
私は自分を奮い立たせ、まずは大型冷蔵庫の観音開きの扉を開けた。
その瞬間、私は思わず息を呑んで立ち尽くしてしまった。
(……なに、これ……)
冷蔵庫の中は、まるで高級食材店のように整然と区分けされ、数十個の耐熱ガラス製保存容器がミリ単位の隙間もなく並べられていた。
そして、そのすべての容器の蓋に、蒼さんの几帳面な筆跡でマスキングテープのラベルが貼られていたのだ。
『琴音用・月曜朝:抗酸化作用ベリー&アサイーベース(鉄分・葉酸強化)』
『琴音用・火曜夜:疲労回復用鶏むね肉の塩麹マリネ(クエン酸・ビタミンB群配合)』
『琴音用・胃腸低下時:一番出汁ストック(枕崎産本枯節・利尻昆布・無塩)』
『琴音用・冷え対策:有機黄金生姜のすりおろしエキス』
肉も、魚も、有機野菜も、冷蔵庫の中にあるすべての食材が「私を健康に、美しく生かすため」だけに計算し尽くされ、丁寧に下ごしらえされていた。
ふと、数ヶ月前までの自分のワンルームマンションの冷蔵庫を思い出す。賞味期限切れの調味料と、栄養補助ゼリーのパックしか入っていなかった、あの冷たくて空っぽの箱。
多忙を極める巨大グループの社長でありながら、彼がどれほど膨大な時間と、狂おしいほどの一途な愛情を注いで、私の命を内側から支えてくれていたのか。その動かぬ証拠を目の当たりにして、私の目頭が再び熱く潤んだ。
「……自分の身体が倒れる寸前まで、私のことばっかり考えて……。本当に、不器用で過保護すぎる人なんだから」
私はエプロンの袖で目元を拭うと、彼がストックしていた『一番出汁』のガラス容器と、有機栽培の長ネギ、黄金生姜、そして新鮮な平飼い卵を取り出した。
風邪で弱った胃腸を温め、発汗と消化吸収を促す『生姜とふわふわ卵の特製おじや』。これなら三十九度の熱がある蒼さんにも無理なく食べられるはずだ。
引き出しから蒼さん愛用のドイツ製シェフナイフを取り出すと、プロ仕様の包丁はずっしりとした重みがあった。
まな板の上に長ネギを置き、左手を猫の手に丸めて、慎重に刃を下ろしていく。
――ギコッ、トントン、グシャッ。
蒼さんのような流れるような包丁さばきには程遠く、ネギの輪切りは厚さが一ミリだったり五ミリだったりと見事にバラバラだ。さらに繊維が繋がってアコーディオンのようになったネギを一生懸命切り離そうとして、少しだけ手元が滑った。
「ひゃっ……! あ、危なかったぁ……」
刃物への緊張で肩に力が入り、私の呼吸が浅くなる。
――『ブブッ! ブブブッ!』
その瞬間、左手首のスマートウォッチが私の心拍数の上昇を感知し、警戒アラートを振動させた。
(わっ、ちょっと待ってスマートウォッチ! 今ここでアラートを飛ばしたら、蒼さんのスマホに通知が――)
私が慌てて手首を押さえたのと、背後から掠れた低い声が響いたのは、ほぼ同時だった。
「……危ないから、今すぐその包丁を置きなさい、琴音」
「えっ!?」
振り返ると、キッチンの入り口の壁に片手をつき、荒い息を吐きながらこちらを睨みつけている蒼さんの姿があった。
羽毛布団で封印したはずなのに、自分のスマートフォンに飛んできた私の『心拍数上昇アラート』を見た瞬間、三十九度の高熱を押してベッドから這い出してきてしまったのだ。
「あ、蒼さん!? どうして起きてきたんですか! 歩行禁止令って言ったじゃないですか!」
「俺の端末に、君の心拍数が百十五を超えたという緊急通知が来た。……慣れない包丁を握って交感神経が昂ぶっている証拠だ。指を切り落とす前に、そいつを俺に貸しなさい……っ、ケホッ」
蒼さんは苦しそうに咳き込みながらも、ふらつく足取りで歩み寄り、私の手から包丁を取り上げようとした。
「おじやなら、俺が三分で作る。君はダイニングで座っていろ……」
「だめです!!」
私は包丁をまな板の奥へ安全な向きで置くと、彼の前に立ち塞がり、背伸びをして彼の熱く燃えるような両頬を自分の両手でぴたりと包み込んだ。
「あ……」
「蒼さん、よく聞いてください。いつも蒼さんが私のために栄養満点のご飯を作ってくれるのは、ただ私にカロリーを摂取させるためだけじゃないですよね? 私に元気で、幸せでいてほしいという『愛情』からですよね?」
「……当然だ」
「なら、私も同じです! 私が料理下手で、ネギすら綺麗に切れないポンコツなのは自分が一番よくわかっています。でも、どうしても私の手で作りたいんです。大好きな蒼さんに、一秒でも早く元気になってほしいから……これは私から蒼さんへの『愛情の処方箋』なんです!」
私は潤んだ瞳で彼を真っ直ぐに見上げ、懇願するように続けた。
「だからお願いです、今日だけは私に作らせてください。私の愛情を、信じて受け取ってくれませんか……?」
私の言葉を聞いた蒼さんは、熱に浮かされた琥珀色の瞳を大きく見開いた。
数秒間の沈黙の後、彼は観念したようにふっと目元を緩め、私の手の上に自分の熱い手を重ねた。
「……敵わないな、君には。俺の合理的な計算をここまで狂わせる女は、世界中を探しても君しかいない」
「じゃあ、ベッドに戻って――」
「いや、寝室からはこのキッチンが見えない」
蒼さんはそのままリビングのアイランドキッチン真正面にあるカウチソファへと歩き、そこへ横たわった。
「俺はここで横になる。ここからなら、君が包丁で指を切らないか、火傷をしないか、リアルタイムで監督できるからな」
「……もう、本当にどこまで過保護なんですか」
私は苦笑しながらも寝室から羽毛布団と氷枕を運んで彼に掛け直し、「口出しは禁止ですからね!」と釘を刺してキッチンへと戻った。
背中に蒼さんの熱っぽくも優しい視線を感じながら、今度は包丁を使わずに済むよう、彼が下ごしらえしてくれていた黄金生姜のエキスと一番出汁を小鍋に注いで火にかける。
鰹と昆布の芳醇な香りが白い湯気となってキッチンいっぱいに立ち昇り、そこに柔らかいご飯と不揃いなネギを加えてコトコトと煮込んでいく。ボウルに割り入れた平飼い卵を菜箸で丁寧に溶きほぐし、沸き立つ黄金色の出汁の上へゆっくりと円を描くように回し入れた。蓋をして火を止め、三十秒間じっくりと蒸らせば完成だ。
「……できた……!」
蓋を開けると、ふんわりと花開いた黄金色の卵と生姜の優しい香りが広がった。
私はそれを漆塗りの器に盛り付け、お盆に乗せてカウチソファの蒼さんのもとへと運んだ。
ソファの脇に膝をつき、木の匙でおじやを一口すくうと、ふうふうと丁寧に息を吹きかけて冷ましてから、彼の唇へと差し出した。
「蒼さん、お待たせしました。はい、あーん、してください」
いつも社長室やペントハウスで、彼から数え切れないほどされてきた甘い餌付け。今日は初めて、私の側から彼へ返す番だ。
蒼さんは少し照れたように目を細めると、素直に口を開いて「……ん」とおじやを受け入れた。
ゆっくりと咀嚼し、ごくりと喉を鳴らして飲み込んだ彼の表情を、私は祈るような気持ちで見つめた。プロ顔負けの舌を持つ彼のことだ、きっと厳しいダメ出しが飛んでくるに違いない。
「……どう、ですか? やっぱり、お口に合いませんでしたか……?」
「……ネギの厚さが一ミリから五ミリまで不揃いで食感がバラバラだ。出汁を沸騰させすぎたせいで鰹の香りが少し飛んでいるし、卵の火入れもあと八秒早ければ完璧だった」
「うっ……ご、ごめんなさい……」
予想通りの辛口採点に私がしょんぼりと肩を落とした瞬間、蒼さんの熱い右手が伸びてきて、お盆を持つ私の指先を優しく包み込んだ。
「――だが。俺がこれまでの二十九年の人生で食べたどの三ツ星料理よりも、一番美味い」
「え……?」
「五臓六腑に染み渡るとは、こういうことを言うんだろうな。君が俺のために一生懸命作ってくれたこの温かさが、どんな特効薬よりも俺の細胞を生き返らせてくれる。……ありがとう、琴音。もう一口、食わせてくれるか?」
熱に潤んだ瞳で蕩けるように微笑む蒼さんの顔を見て、私の胸は言葉にならないほどの幸福感で満たされた。
私は涙ぐみながら「はいっ、いくらでも!」と頷き、彼の器が最後の一滴まで空になるまで、一口ずつ愛情を込めてスプーンを運び続けたのだった。
コメント
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あ~もう、この回めちゃくちゃ良かった……!(涙) 蒼さんの冷蔵庫の中身、全部「琴音用」ってラベル貼ってあるのヤバすぎるでしょ。自分のこと放置してまでヒロインの健康管理完璧にしてたんだなって思うと泣けるわ。しかも高熱なのに心拍数アラートで飛んできてキッチンに乗り込むとか過保護の極みやん…。でも最後の「一番美味い」で全部持ってかれた。不揃いなネギごと受け入れる感じが尊すぎる。私もこんな愛情こもったおじや食べたい人生だった🔥