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「ビジネスマン」吾妻勇信は、秘書の魚井玲奈とともに日本料理店を訪れた。

 

時刻は正午12時15分。

 

さきに店にきて待っていたのは、吾妻建設の企画部課長・堀口ミノルだった。

緊張した様子で席に座っていた彼は目の前に吾妻勇信と魚井玲奈が現れると、硬い表情のまま立ちあがり深く頭を下げた。

 

「わざわざ遠くからきていただきありがとうございます」

ビジネスマンは言った。

 

「こうしてお会いできて光栄です、吾妻常務、そして魚井秘書」

 

「こちらこそ。さあ、どうぞ座ってください」

 

「ああ……はい。失礼します」

堀口は一瞬驚いた表情を見せ、それから席に座った。

 

「うん? どうしましたか」

ビジネスマン勇信は堀口の小さな変化を見逃さなかった。

 

「いえ、何でもありません。お気遣いいただき恐縮です」

 

……覚えていなくて当然か。

私も中学生だったし、常務はまだ子どもだったから。

 

堀口ミノルは、過去に吾妻勇太・勇信兄弟と会っていた。

 

 

夏休みを利用してしそね町を訪れた兄弟は、地域の子どもたちとは明らかに別ものだった。常に黒い高級車が近くで目を光らせ、兄弟が身にまとう衣服は高価なものばかりだった。

 

当時中学生だった堀口ミノルは、そんな兄弟に興味を抱き接触を試みた。堀口はふたりの目を引くほどの秘密をもっていたからだ。

 

東京からきた財閥家の御曹司が驚くほどの何か。

堀口ミノルだけが知る秘密の場所があった。

結局吾妻勇太と勇信の兄弟は付き添いの警護員を振り払って、堀口ミノルと行動をともにした。

 

 

私のことを覚えていないのなら……常務はなぜ今日お呼びになったのだ?

谷川署長との悶着が伝わったのだろうか。

いや、その程度のことで常務が動くはずはない……。

 

伝統的な日本家屋の店内には、優しい陽の光が差していた。

兄である副会長亡き今、今後の吾妻グループを統率する常務が目の前にいる。

堀口の額には汗が浮かびはじめていた。

 

常務が私を呼んだ理由……まさか、ビスタ!

 

谷川署長に黙殺された「しそね町スポーツ振興計画」が回り回って常務の耳に入ったのかもしれない。そして興味をもった常務が具体的な話を聞こうと私を呼んだのかもしれない。

堀口の心臓が激しく鼓動した。

 

「堀口さん。あまり緊張なさらず、気軽に食事を楽しみましょう」

前菜がすべて並ぶのを待ってから、ビジネスマン勇信が言った。

 

「ありがとうございます。いただきます」

堀口は丁重に頭を下げ、ビジネスマン勇信が食べはじめるのを待った。

 

ビジネスマンは箸をつかみ、絹さやのおひたしを口に入れた。堀口もそれに習い、同じようにおひたしを一口食べた。

 

「堀口さん。体調がよろしくないのでしょうか。額に汗が……」

魚井秘書が心配そうな表情で言った。

 

「あ、いえ、いたって健康です。常務と食事をともにするので緊張しているだけです。もし不快でしたらご容赦ください」

 

「不快なはずありません。それと、緊張する必要もありません。公式的な席でもない上に、個人的にお会いしたかっただけなので気楽に食事を楽しみましょう」

 

「度々のお気遣い、ありがとうございます」

 

店内に流れる三味線の音色。

懐石料理の風味豊かで贅沢な香り。

目の前に座るのは、時価総額で国内10位に入る巨大企業のトップ。

建設機械の音や労働者たちの怒号が飛び交うビスタの建設現場とは、何もかもが違っていた。

 

ビジネスマンと魚井玲奈はおひたしに続いてきゅうりの漬け物を口にした。それから蒸したさつまいもを口に入れた。自然と身についた血糖値のコントロール術だった。

堀口ミノルも同じ順に先付けを口に入れ、ビジネスマンとほぼ同時に国産牛のひうち焼きを口に入れた。

 

緊張が体にまとわりついていて、味覚がうまく機能していなかった。ただ柔らかい肉がいつのまにか口の中で溶けて流れ落ちた感覚だけが残っていた。

 

「肉が少々固い気がしないか、魚井秘書」

 

勇信の何気ない言葉が、周囲の空気を一変させた。

そばに立っていたウェイトレスの瞳孔が開き、堀口の額にもさらなる汗が浮かんだ。

 

「豆腐よりは固いでしょうけど、お見事な焼き加減じゃないですか? 常務は二日酔いのせいで舌が鈍ってらっしゃるんですよ」

 

魚井玲奈の言葉で緊迫した空気が緩んだ。

 

「たしかに昨日は少々飲みすぎたからな。まだアルコールが残っているようだ」

 

「今日の夜は飲まないようにしてください」

 

「わかっている」

ビジネスマンは呆れたように言った。

「ところで堀口さんは、お酒を飲みますか」

 

「私は、お酒はやめました」

 

「健康のためでしょうか」

 

「……あ、それが」

 

「おふたりとも、料理が冷めますよ。まずは食事をなさってはいかがですか」

 

魚井玲奈が目で食事を促し、堀口に向けて小さくほほえんだ。

 

「ありがとうございます」

堀口は魚井玲奈の配慮に心から感謝した。

 

酒について考えたくなかった。

アルコールが最終的に作り出すものは怪物。それは人間ではない。

 

あの日の悲惨な光景が脳裏をよぎった。

 

堀口ミノルの妻と娘は、飲酒運転のトラックに轢かれ死亡した。

俺は一億人 ~増え続ける財閥息子~

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