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「ビジネスマン」吾妻勇信は、秘書の魚井玲奈とともに日本料理店を訪れた。
時刻は正午12時15分。
先に店へ来て待っていたのは、吾妻建設企画部課長・堀口ミノルだった。
緊張した面持ちで席に座っていた堀口は、勇信と玲奈が現れると、硬い表情のまま立ち上がり、深く頭を下げた。
「わざわざ遠くから来ていただき、ありがとうございます」
ビジネスマンは言った。
「こうしてお会いできて光栄です、吾妻常務。魚井さんも、本日はありがとうございます」
「さあ、どうぞ座ってください」
「ああ……はい。失礼します」
堀口は一瞬だけ驚いた顔を見せ、それから席に着いた。
「どうしましたか」
ビジネスマンは、その小さな変化を見逃さなかった。
「いえ、何でもありません。お気遣いいただき恐縮です」
覚えていなくて当然か。
私も中学生だったし、常務はまだ子どもだった。
堀口ミノルは、過去に吾妻勇太・勇信兄弟と会っていた。
*
夏休みを利用してしそね町を訪れた兄弟は、地域の子どもたちとは明らかに違っていた。
常に黒い高級車が近くで目を光らせ、ふたりが身にまとう衣服も高価なものばかりだった。
当時中学生だった堀口ミノルは、そんな兄弟に興味を抱き、接触を試みた。
堀口には、ふたりの目を引けるだけの秘密があったからだ。
東京から来た財閥家の御曹司でさえ驚く場所。
堀口ミノルだけが知る、秘密の場所があった。
結局、吾妻勇太と勇信の兄弟は付き添いの警護員を振り払い、堀口ミノルと行動をともにした。
*
伝統的な日本家屋の店内には、やわらかな陽の光が差していた。
兄である副会長を亡くした今、吾妻グループを率いることになる人物が、目の前に座っている。
常務は私のことは覚えていないらしい。
当然だった。
自分も中学生で、常務はまだ子どもだった。
となると、呼ばれた理由はやはりビスタだろうか。
谷川所長に握り潰された「しそね町スポーツ振興計画」が、回り回って常務の耳に入ったのかもしれない。
そう考えた瞬間、堀口の心臓が強く鳴った。
「堀口さん。あまり緊張なさらず、まずは食事を楽しみましょう」
前菜がすべて並ぶのを待ってから、ビジネスマンが言った。
「ありがとうございます。いただきます」
堀口は丁重に頭を下げ、ビジネスマンが箸を取るのを待った。
ビジネスマンは絹さやのおひたしを口に入れた。
堀口もそれにならい、同じようにおひたしを一口食べる。
「堀口さん。体調がよろしくないのでしょうか。額に汗が……」
魚井玲奈が心配そうに言った。
「あ、いえ。いたって健康です。常務と食事をご一緒するので、少し緊張しているだけです。もし不快でしたらご容赦ください」
「不快なはずありません。それに、緊張なさる必要もありません。公式の席ではありませんし、個人的にお会いしたかっただけですから。気楽に食事を楽しみましょう」
「たびたびのお気遣い、ありがとうございます」
店内には、三味線の音色が静かに流れていた。
懐石料理の上品な香りが、畳と木の香りに重なる。
目の前に座るのは、時価総額で国内10位に入る巨大企業のトップになる人物。
建設機械の音や労働者たちの怒号が飛び交うビスタの現場とは、何もかもが違っていた。
ビジネスマンと魚井玲奈は、おひたしに続いてきゅうりの漬物を口にした。
それから蒸したさつまいもを口に運ぶ。
自然と身についた、血糖値を意識した食べ方だった。
堀口も同じ順に先付けを口に入れ、ビジネスマンとほぼ同時に国産牛のひうち焼きを口にした。
緊張が体にまとわりつき、味覚はうまく働いていなかった。
ただ、やわらかな肉がいつのまにか口の中でほどけ、喉へ流れていく感覚だけはあった。
「肉が少々固い気がしないか、魚井秘書」
勇信の何気ない一言で、周囲の空気が変わった。
そばに立っていた給仕係の表情がこわばり、堀口の額にもさらに汗が浮かぶ。
「豆腐よりは固いでしょうけど、お見事な焼き加減だと思います。常務は二日酔いのせいで、舌が少し鈍っていらっしゃるんですよ」
魚井玲奈の言葉で、張りつめた空気がわずかに緩んだ。
「たしかに、昨日は少々飲みすぎた。まだアルコールが残っているようだ」
「今夜は飲まないでくださいね」
「わかっている」
ビジネスマンは呆れたように言った。
「ところで堀口さんは、お酒を飲みますか」
「私は、お酒はやめました」
「健康のためでしょうか」
「……あ、それが」
「おふたりとも、料理が冷めてしまいます。まずは食事をなさってはいかがですか」
魚井玲奈が目で食事を促し、堀口に向けて小さくほほえんだ。
「ありがとうございます」
堀口は、玲奈の配慮に心から感謝した。
酒については、考えたくなかった。
アルコールが最終的に作り出すものは怪物。
それはもう、人間ではない。
あの日の光景が、脳裏をよぎる。
堀口ミノルの妻と娘は、飲酒運転のトラックに轢かれて死亡した。
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#死亡遊戯で飯を食う
ユイ
86
はるか
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