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煮詰めた乳のように濃い霧の奥で、霧でなければ遠くを見渡せたであろう大柄の男が彷徨っている。名をおののき。幼き頃は悪童と知られ、大いに嫌われている男だが、ボリウもまた生来の跳ねっ返りな気質もあいまって、そりの合わない生家と故郷をひどく嫌っていた。
霧はまるで泥のように粘り、ボリウにまとわりつく。それは不思議の類の濃霧であり、神々に好まれた蜜であり、地上がまだ見限られていない時代には多く降り注いだが、今では旧き美名を持つ谷や変わらぬ信仰を保つ山里でしか自然に見ることはない。ただ悪しき生業で糊口をしのぐ魔術師だけがその一端を魔術に織り成して懐に仕舞い込んでいるものだ。
しかし魔法に縁のないボリウには知る由もなかった。
「一体何だってんだ」とボリウは霧を掻き分けながら愚痴る。「やっとこお袋がくたばって村を出られるってのに。この霧は何なんだ。まるで泥濘に全身突っ込んだみてえだ。誰が惜しむわけでもねえ俺の足を引っ張るのは誰だ」
ボリウにはどこを歩いているのかも分からない。既に村は出たはずで、森の中を突っ切る道を歩いていたはずだが、足裏の感触は否を唱えていた。臆病さで知られた村の開祖の時代から踏み固められてきた道ではなく、柔らかい土と濡れた草を踏みつけている。
そして下草生える森の中、その一連の全てを把握する石塚が一つ。小さな石の集まりだが、長い年月を経て融け合ってひとまとまりになり、村においては由緒正しい魔法の札を媒介している。礫岩の石塚の魔性は名を惑わせる者と言い、まさにこの濃霧を呼び起こした者だった。けちな悪党とは違い、森と村を丸ごと飲み込む濃霧を呼び寄せる豪勢な力を持っている。
ボリウはランビヨンの濃霧の中でささやかな幻覚に翻弄され、ひとしきり彷徨うと元の村に戻る手はずだ。だがその前にボリウは石塚に行き当たった。
彷徨い、苛立ち、感情の御し方を知らないボリウにとって石塚は鬱憤をぶつけるのに最適であり、蹴飛ばすのに迷いはなかった。
「痛い!」とランビヨンは言う。痛くなかったが反射的に言ってしまったのだ。
「な、なんだ! いったいぜんたい石ころ風情がなんだって痛いだなどと口をききやがる」
石ころというには巨大な塊で、そこに顔があるわけでもないのに大男のボリウが石塚を見上げるほどだ。
ボリウの目の前で石の集まりの塊は人の形に近い何かに姿を変えた。明らかに石を積み上げた姿だが、先ほどまでの三角山に比べれば人の形に近い。
「痛いと言って何が悪い。痛くはなかったけどね。痛くはなくたって痛いと言ったって良いのさ。それより君はまず僕に謝るべきだろう。そりゃあ石塚が喋るだなんて思わないだろうし、悪気がないのは分かっているが君は過ちを犯したんだ。僕を蹴るという過ちをね。さあ、謝り給え。君の良心と世の正義に従うのだ」
ランビヨンが一息に言い立て、その間ボリウは口を挟むことができなかった。突然に責め立てられたボリウの反発は大きい。
「うるせえ! どういう類の化け物かもわからねえ奴に謝る筋合いなんてねえぜ! むしろてめえが謝れ! 爪先がいてえんだよ! お前のせいだ!」
「その傍若無人っぷり。悪童ボリウだね? 君は僕のことを知らないだろうが、僕は君のことをよく知っているぞ。まあ、そう恐れることはない。何者かと問われれば僕は村の守り神のようなものだと答えよう。邪悪なる存在を退ける正義の番人でもある」
そう言った石の塊ランビヨンは何の兆しもなく唐突にふわりと浮き上がった。そうしてボリウの腰の高さほどでゆらゆらと揺れている。
何とか踏みとどまり、抜けそうだった腰を抑えてボリウはランビヨンに立ち向かう。
「恐れるだと? 別に何も怖かねえや。石ころの化け物め。そんなちんけな魔法で俺が驚くとでも思ったか!?」
「これは手品だ」
「手品かよ! 何が守り神だ! 薄汚え積み石が生意気言ってんじゃねえ。こちとら恐れ知らずで名が通ってんだ」
ボリウは犬が威嚇するように顔に皴を寄せてランビヨンを睨みつける。
「そんな通り名は聞いたことがないな。本当に恐れを知らないなら大したものだ。勇敢というのは美徳の中でも上級のものだから。しかし一体誰がそう呼んでいるんだ?」ランビヨンは泥と苔を擦り落としつつ腕を組みながら宙で回転する。「母を除けば君に親しい者などいないだろう? 憐れなことだけど、僕には見守ることしかできなくてね。説教するほど押しつけがましくもない」
「正義だと? 見守るしかできない正義? 案山子の方がまだ役に立ちそうなもんだぜ」ボリウはせせら笑う。「それじゃあ正義のもとに道案内でもしてくれ。俺は困ってるんだぜ? 助けてやらなくっちゃなあ? 俺はこの村を出て行くんだ」
「本当に困っているのならやぶさかではないが。しかしこの濃霧の中どこに行くというんだ。それに、どこに行くにせよ、今歩き回るのは危険だ。晴れるのを待った方が良い」
「そういうわけにもいかねえから俺は今ここでこうしてんだ、石っころ。俺は今すぐにでもずらからなくちゃならねえ。お前が知る必要もないことだがな。さあ、道案内ができねえなら石ころらしく黙って地面に転がってな」
そう言い残してボリウは立ち去ろうとする。ランビヨンは呼び止めつつ地面に降り、重い手足を振るって自ら追う。
「待て。気になるじゃないか。僕が何を知る必要がないだって? 僕は村のことなら何だって知っておきたいんだ。何でかって、見ないふり、知らないふりは正義にもとるからさ。村で何かあったのか?」
「うるせえな。守り神だっつうんならそれくらい知っておけよ。不思議な神通力とかでよお。ついてくるんじゃねえよ、役立たずが」
ボリウがランビヨンを押し返すが歩く石塚はびくともしない。しかしランビヨンは足を止めた。
「僕だって何でもできるわけじゃない」ランビヨンは小さくため息をついて言う。「それに、無駄だと思うが、まあ、すぐに分かるさ。そうだ。しかし念のために餞別の一つも贈ろうか」
ランビヨンはごつごつとした石の手を開いた。ボリウはつられて覗き込む。しかしそこには何もなく、ランビヨンはボリウの胸を指し示す。
ボリウが胸元を探ると銅貨が一枚入っていた。
「手品かよ! しかも子供の小遣いじゃねえか!」と言いつつもボリウは銅貨を懐に片づけ、舌打ちを残して濃霧の向こうに消えた。
名残り惜しむ様子もなくランビヨンは定位置へと戻る。
するとボリウのやってきた方向が騒がしい。何人もの若い男たちが血気盛んに怒鳴りたてている。ランビヨンは小石の山に姿を戻して聞き耳を立てる。
「くそ! ボリウのやつめ! もう逃げちまったのか?」「いや、奴がおふくろさんを殺した時にはもう霧が出ていたはずだ」「惑いの霧か? これが? 迷信だろ? 本当に村から出られなくなるのか?」「何だ、試したことないのか?」「何だよ。霧には近づくなって子供の頃から言われてたろ? お前らだって」「こいつは真面目だからな」「確かだよ。この霧は村長の爺さんだか婆さんだかが遺した魔法なんだ。たまに出てくる。そして決して誰も出られない。奴も彷徨ってるはずさ」
「一体なんだってボリウはおふくろさんを殺したんだ?」とランビヨンは口を挟む。
「勢い余ってってやつさ。いつも喧嘩してたろ?」「俺もがきの頃は散々痛めつけられたぜ。小せえ頃からでかかったからな」「今まで人殺しをしてないのが不思議なくらいだ」「見つかってないだけかもしれんぞ」「違いねえ」
濃霧の中、若者たちはランビヨンに気づくことなく再度気合を入れなおし、山狩りを再開した。
しばらくしてまた別の方向からやってきたのは、戻ってきたのはボリウだ。混乱と不機嫌に呑まれたボリウはランビヨンを見下ろして呟く。
「蹴った跡がないな。別の石か?」そう言ってボリウが再び蹴ろうとすると石塚の陰から一羽の鳩が飛び出し、人の形に変わったランビヨンの肩に止まった。
ボリウは何も言わずに蹴るのをやめる。鳩が鳩らしく鳴く。
「それでいい。蹴るんじゃない。痛くないけど不快なんだ。蹴られるっていうのは。君は迷い惑って戻ってきたんだよ、元の場所に」ボリウが喚き立てる前にランビヨンが説く。「言ったろう? この霧の外には出られないってね。そういう魔術なんだよ。正義の魔術だ」
「魔術だと? てめえ、何を知ってる? ここから出る方法を知ってるのか? 知ってるなら教えろ」と凄むボリウはしかし声を潜めている。
そして霧の向こうを警戒するようにきょろきょろと視線を彷徨わせる。どうやら霧の中で惑う内に他の若者の存在に気づいたらしい。早く逃げ果せたくて焦っているのだった。
「知ってるも何も僕が施した魔術だ。かつて僕の友人だった者に命じられてね。もちろん脅かされようが何されようが魔術を解くことはできない。僕もまた魔術的に縛られているのでね。分かったら村に戻って罪を償い、憐れな母に許しを乞うんだな」
ボリウは何かを探すように濃霧の向こうに目を向ける。
「あいつらに聞いたのか。俺がおふくろを殺しちまったって話を」
「君と同様、君の母親のことも幼い頃から知っている。優しく賢い娘だった。どうして母を殺したんだ」
「何だ? 説教はしないんじゃなかったのか? てめえに話してやる義理はねえよ。いいからここから出て行く方法を教えやがれ」
ランビヨンは首を横に振り、悲し気にうずくまって積み石になる。「いや、教える必要はないね。君はもう出て行けるはずさ」
「何? どういうことだ?」
「この魔術は村を、村人を守る魔術なんだ。村人は村の外に出られなくなり、村に災いを成す者は村には入れなくなる。母を殺した時点で君はもう災いの側なのさ。村には戻れない、戻りたくてもね。君は単に魔術とは関係なく霧の中を彷徨っていただけだったのさ。ただ真っ直ぐ行け。それでも願わくば罪を償ってほしいものだけど」
そう言われても、さらにボリウは問いただす。「じゃあ霧が出た時ってのは災いが村に近づいた時だってのか?」
「そうだ。大概は餓えた賊か獣なんだけど。内側に災いが現れたのは初めてのことだよ。そして災いが去るまで霧が消えることはない、決して」
「なるほどな。せっかくの村を守る正義の霧も既に中に入ってる奴はどうすることもできなかったってわけか。ん?」
ボリウは魔法の霧が薄らいでいることに気付く。ランビヨンもまたそれに気付き、人間が驚いた時のように仰け反る。
「馬鹿な。君はまだここにいて、罪を償ってはいないのに。どうして霧が晴れる?」
霧は不自然なくらい急速に地面に吸い込まれるように消えて行き、森と道を露わにした。
「どうしてだろうな。まあ、俺にはもう関係ねえや。じゃあな、石ころ」そう言ってボリウは村の外への道へと向き直る。「だが、言っておく。あの女のがきの頃なんて知りたくもねえが、俺の知る限り賢くも優しくもなかったぜ。だが、見ろ。俺を。がきを育てるのだってただじゃねえ。どうしようもねえ女だが、てめえのがきを見捨てねえ程度の分別はあったらしい。俺は悪党で臆病者のどうしようもねえ息子だがおふくろを殺さねえ程度の分別はあるんだぜ」
「待て。ならば誰が……」ランビヨンの問いかけに答えることなくボリウは道の向こうへ走り去った。
数日後、村を囲む森の中で食べ残しが見つかり、それは狼によるものだろうと判断された。濃霧の魔術が何をどう判定したのか、ランビヨンには分からない。
餓えた狼が腹を満たしたことで災いではなくなったのか。あるいは……。