テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#シリアス
3,184
紫香楽
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「……この子は、貴様の歪んだ欲望を満たすための道具ではない」
地を這う獣の唸りのような、けれど凍てつくほどに冷徹な煌様の声が
生々しい血の匂いの立ち込める密室に響き渡った。
私の視界を塞ぐように、壁となって立ちはだかるその広く逞しい背中。
軍服越しでもはっきりと伝わってくるほど
煌様の全身からは凄まじい怒りの拍動と、溢れんばかりの殺気が噴き出している。
あの方がこれほどまでに感情を剥き出しにし
誰かのために激昂する姿を、私は今まで知らなかった。
「私の大切な女に、二度と近づくな」
突きつけられた切っ先の、一点の曇りもない鋭さに自分の右腕を失い
のたうち回っていた鷲津が、ひっ、と情けない短い悲鳴を上げた。
大量の失血による顔の蒼白さと、目の前に迫る死への本能的な恐怖に支配された彼は
もはやかつての傲慢な軍人の矜持など微塵もなく、床を這いずりながら
獣のような鳴き声を漏らして暗闇の向こうへと逃げ出していった。
静寂が戻った部屋に、私の乱れた荒い呼吸音だけが不自然に大きく、虚しく響く。
煌様は、血に濡れた刀身を一気に振り
ゆっくりと、けれど確実な動作で刀を鞘に収めた。
カチリ、という硬質な音が静寂を打つと同時に
煌様はすぐに私の元へ駆け寄り
手足の柔肌に食い込んでいた忌まわしい麻縄を、迷いのない手つきで次々と解いてくれた。
「……あ、あ……っ」
自由になった瞬間、限界まで張り詰めていた心の糸がぷつりと切れ
私はそのまま冷たい床に崩れ落ちた。
恐怖で腰が抜けてしまい、指先一つ動かす力も残っていない。
けれど、床に沈もうとした私の体は、それよりも早く、鉄のように逞しい腕によって強く引き上げられた。
煌様が、私をまるで壊れやすい硝子細工でも扱うかのように
けれど決して離さないという執念を込めて、力一杯に抱きしめてくれた。
「雪……。遅くなって悪い。…怖かっただろう。こんな、酷い目に遭わせてしまって……っ、申し訳ない」
耳元で囁かれる、微かに震えるような煌様の声。
さっきまで冷徹に敵を断じていたあの峻烈な声が
今は情けないほどに私を案じ、心から慈しむ響きに満ちている。
煌様の胸板から直接伝わってくる
激しく、けれど力強く規則正しい鼓動。
私が鳳凰館の片隅で、あの方を想いながら一針ずつ縫い直した軍服のボタンが私の頬に冷たく触れる。
その硬い感触さえもが、私にとっては今、世界で一番愛おしくてたまらなかった。
「…ぁ…きら、さま……っ、煌、さま……!」
私の瞳から、心の奥底に溜まっていたものが一気に溢れ出した。
止まることなく頬を伝い、煌様の肩を濡らしていく温かな雫。
それは、鷲津の前で流した絶望の涙でも、失われた髪を想って流した過去の傷に怯える涙でもない。
もう、一人で耐えなくていい。
もう、あの冷たい地獄に引き戻されることはない。
ようやくこの腕の中に手に入れた、確かな安らぎ。
煌様の腕の中でだけ、子供のように泣きじゃくることが許される、救済の雫。
「煌さま…わたし……っ」
言葉にならない嗚咽が喉を締め付ける。
それでも煌さまは、すべてを理解したかのように背中を優しく撫でてくれた。
「……苦しいだろう。無理に喋らなくていい。いまは休め」
低く穏やかな声が頭上から降り注ぎ、わたしは目を閉じて意識を預けた。
身体の芯まで染み込んだ寒気が少しずつ溶けていくのを感じた。
◆◇◆◇
それからしばらくして
私は見慣れた天蓋付きの寝台で目を覚ました。
傍らには煌さまが腰掛けている。
「あ、煌様…?」
「起きたか」
「ここは……っ」
「鳳凰閣だ。あの後、君は気を失って運ばれて来た。医者も呼んでいる。腕を見せてくれ」
煌様いわく、私はあのあと丸一日眠ってしまっていたらしい。
袖を捲ると包帯が巻かれている。
昨夜の出来事が夢ではなかったことを思い知らされる。
「痛むか?」
「大丈夫です。これくらいなんともありません」
強がりではない。もっと深いところにあるはずの”痛み”を思い出させるものから解放されたのだから。
「……もう少し、休んだ方がいいだろう」
差し伸べられた掌が額に触れると暖かい。この温もりがあれば何も怖くないと本気で思えた。
「あの男の件は片がついた。君の心配することは何もない。……安心しろ」
煌様がそう言うなら本当なのだろう。もう二度と出会うこともない。
「……ありがとうございます」
「だが……雪、本当に申し訳なかった。あと一歩遅れていれば…君は、私が距離などおかず、ずっとそばに居てやれば…こんなことには……っ」
名前を呼ばれた瞬間に込み上げるものがある。そして気づけば自然と口を開いていた。
「もう大丈夫です。だって、煌様が守ってくれるって約束してくれたじゃないですか」
「……雪…」
煌様の低い声が、熱を帯びた息と共に私の耳朶を震わせた。
先程までの激情は嘘のように鎮まり
今はただ、この腕の中にある私という存在を確かめるような、深い安堵の響きがあった。
「煌様が……来てくれたから。だから…怖さも吹き飛んだんです…っ」
言葉尻が涙に濡れた。
まだ震える唇で精一杯の笑みを作ろうとする。
「煌様は私の命の恩人ですから…」
その言葉を待っていたかのように、煌様は私を強く抱きしめて言った。
「雪……もう離さないと誓う。二度と、君を一人にはしない。……例えこの先、何が起ころうとも、私が君の盾になる。約束だ」
その力強い誓いを信じて、私は煌様の軍服の胸元を
小さな手でぎゅっと、引きちぎらんばかりの力で握りしめた。
「……煌様…っ」
部屋の外はまだ、厳しく冷たい冬の夜かもしれない。
けれど、今の私の心には
煌様の体温という名の、決して消えることのない、日溜まりのような春が訪れていた。