「あの時……殿下が呪いを受けた時、私だけがお救いすることができた。なのに、私はあの場にいることができなかった。クソが付くほどどうでもいい案件のせいで王都を離れなければならなかった……」
揺れる髪、波打つローブ。今にも飛び出しそうな本棚に収められた書籍の数々。そして唐突に語りだした内容。加えて宮廷魔術師なのに、政務をクソ呼ばわりするあるまじき発言。
ノアは、一体どれにリアクションをすればいいのかわからない。
ただ一つわかることは、グレイアスはきっと誰かに、この話を聞いてもらいたかったのだ。
その相手がなぜ自分なの?とか、もっと相手を選んだ方がいいよ?とか、え?なぜこのタイミング??など、色々思うけれど、ノアは黙ってグレイアス先生の話に耳を傾ける。
「知らせを受けてあのお方の元に戻って来たときは、もはや手遅れだった。あのお方の目は光を失っていた。そして王位継承権を奪われた。……呪いを受けるような……誰かから恨まれるようなお方じゃないのに。それに、」
呪いを受けるべき相手はアイツのはずなのに。
グレイアスは、憎々しげに顔を歪めて言い放った。
アイツと言った時、今まで見た中で一番怖い顔をしていた。
それが、誰なのか。王族のことに一切興味を持たないノアだって、容易に気付くことができる。
でもこれ以上、グレイアスに語らせてはいけない。
ここはお城だ。壁に耳あり、カーテンに目あり。いつどこで誰が聞き耳を立てているのか、わかったもんではない。
一時の感情に任せて、偉大なる彼の全てを失わせるわけにはいかない。
なぜならグレイアスは、アシェルの数少ない味方で、共犯者で、大切な友人なのだから。
「……せんせ、あの」
「あなたが、あのお方の前に現れて、本当に良かった」
「いえ、殿下の方から現れたんですけど」
「あなたが来てくれたから……雪花の紋章を持つあなたが居てくださるなら」
「ねえ、グレイアス先生。この話、もうやめよう」
「きっと……いえ、絶対にあの男ローガ───」
「先生っ、やめて!!」
絶対に口にしてはいけない言葉を紡ごうとしたグレイアスに、ノアは彼の手を強く掴んだ。
グレイアスの手は、びっくりするくらい冷たく、小刻みに震えていた。
寒いからじゃない。怯えているわけでもない。行き場のない怒りで、そうなっているのだ。
きっと今、胸に抱えているそれを感情のままに吐き出してしまえば、楽になれるのかもしれない。
自分だってロキ院長にガミガミ怒られたときは、森の中で「鬼院長!」と叫んだことなんて数知れない。ちょっとスッキリすることは、経験済みだ。
でもここでは、絶対に許されない。
「グレイアス先生!”ろーがんきょー”を使うのは、まだ早いです!!」
かなり機転を利かせた発言のつもりだったが、窮地を救いたい相手は、悲しいほどに間抜けな顔をしている。
「……ろーがんきょー?」
「そうです!老眼鏡です!」
「は?……なんで老眼鏡??……ああ、そうか……そうですね。老眼鏡ですね」
「はい。老眼鏡です」
なんのこっちゃと言いたい会話であるが、これは無意味なものではなかった。
グレイアスの煌眼は、いつも通り控え目な輝きに戻っている。
「えっと……ノア様。その……失礼いたしました。もう大丈夫です」
ダジャレがテクニカルヒットしてくれたのかはわからないが、グレイアスは自我を取り戻した。
揺らいでいた髪も、ローブも、ふわふわ浮いていたレポート用紙も、今にも本棚から落ちそうになっていた本も、何事もなかったかのように正しい場所に落ち着いている。
「手……離して、もらえますか?」
「あ」
グレイアスの手を握っていたことすら忘れていたノアは、慌てて手を離す。でも、すぐにしゅんと肩を落とした。
「爪の痕付いちゃいましたね。……痛いですか?」
「痛くはないですが、黙っていてください」
「へ?誰に?」
「……そんなの、殿下に決まってるじゃないですか」
「ああ。なるほど」
うっかり暴言を吐いてしまい不敬罪で死にかけただなんて、やっぱり稀代の魔術師としては沽券にかかわることなのだろう。
ノアは寛容な笑みを浮かべて、他言いたしませんと頷く。
しかしグレイアス先生は、なぜかここで残念な子供を見る目つきになった。
「言っておきますが、私が黙っていてと言ったのは殿下に浮気の冤罪をかけられるのが嫌だったからですよ」
「……は?」
言っている意味がてんでわからない。
「あのう……確認ですが、誰と誰が浮気を?」
「あなたと私がです」
「は?先生と私が浮気??」
「そうです」
「あはっ、あはははっははっ!!」
真顔で言ったグレイアスの言葉があまりに可笑しすぎて、ノアは盛大に噴き出した。
すぐさま「笑うな!」とグレイアスは激怒するが、それすらノアの笑いのツボを刺激する。
ゲラゲラと笑い出したノアに、グレイアスは苦虫を嚙み潰したような顔になった。
「……殿下にとったら、異性の手に触れることだって浮気判定なんですよ」
「いや、それは、先生の思い込みでしょ?殿下がそんなこと、言うわけないじゃないですか。あはっ、もうっ……ははははっ。グレイアス先生たらっ。あははっ」
笑い続けるノアを見て、グレイアスは更に渋面になり、「これほどまでに鈍感だとは……殿下もこりゃあ苦労しますね」と苦々しく吐き捨てた。