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例えば冬の日に凍った水溜り、例えば友達が自慢げに見せてきたローラースケート。幼い頃からそんな物を見た時には何故かいのりの心の中で目に見えない炎が揺らいでいた。
だから、思い出すのもきっと必然だったのだ。
母と共にテレビを見ていた際に、それまで興味もなかったスポーツのニュースに何故か心惹かれた。そうして氷の世界を目にした瞬間、まだ言葉も辿々しい年齢の筈のいのりの口から突如として流暢にその言葉は漏れ出ていた。
「私、スケートがしたい」
まるでそれは自分の意思ではなく自分の中にいる誰かが体を乗っ取って話しているかの様な心地がした。でも間違いなくそう思ったのも口に出したのもいのり自身だ。だって、いのりはかつてメダリストだったのだから。そう、いのりは突如として自分の前世を思い出した。スケートの選手として金メダリストになった輝かしく温かく幸せな過去の思い出が。応援してくれた家族、得難い友人達、選手人生を賭けて戦い続けたライバル、支えてくれた優しき大人達、そして何よりいのりにとって人生で一番大好きで大切で信頼している人、
「司先生ともう一度スケートがしたい」
あの美しき日々をもう一度送る為ならいのりは何だってする。前世では司にかけてあげられなかった多くのメダル達を得ることも、今のいのりなら可能かもしれない。もっともっと世界にあの素晴らしいコーチの名前を広めることだって。そう興奮し期待に胸を膨らませるいのりはハッと隣の母を振り返った。しまった、母にとっては突然娘が突拍子も無いことを言い出したと思ったら、見知らぬ人の名を呼ぶのだから意味が分からないだろう。何と誤魔化すか焦るいのりを尻目に、何故か母はその眼を見開いて顔を赤らめている。
「えっとね、お母さん」
「いのり貴方……思い出したの!?」
「えっ?」
奇想天外、摩訶不思議、この世は全くもって訳のわからない事ばかりだ。いや先ずこうして何故か人生2周目を送っている事自体が謎なのだけれど。それでもどうやら不思議なことに前世の記憶があるのはいのりだけでは無かった。家族もまたいのり同様に前世の記憶があったのだ。ならこの世界の人間は皆そうなのかと言うとそれは違う。どうやらこの世界でも前世というものは未だに立証されていない不可思議なものとして扱われているので、この現象が起こっているのは結束家のみということになる、だがまぁこれも探せば他にもいるのかもしれないけれど。兎にも角にも、無事全員前世を思い出した結束家は早速家族会議となった。議題はこれからについて、とはいえまぁ前回同様の人生を歩むも良し、折角の2回目だからまた別の人生を歩むもよし、二人は好きにしなさいという父と母の言葉にいのりは間髪入れず自分はもう一度スケートがしたい!と宣言した。無論、結束家はスケートに対するいのりの情熱を本人同様に理解していたので、いのりが生まれた瞬間から何時かこの子が記憶を取り戻した時の為にと密かに準備を進めておいたのだ。遂に訪れた待ちに待った瞬間に、クラブ調べてあるぞ!スケート靴のパンフレット見る?と楽しげに準備を始めた家族にいのりは呆気に取られ、そうして再びこの家に生まれてきた幸運に泣いた。
はてさて、記憶を取り戻したのは良いがいのりには問題があった。先ず己がまだ4歳であるということ。スケートを始めるのなら若いに越したことはないのでそれは良いのだが、恐らくこの年代ではまだ司はコーチになっていない。つまりまだ司をコーチとすることが出来ない。だがいのりにとってのコーチは生涯明浦路司であることは例え生まれ変わろうとも変わらない不変事項であるので困った。更にもう一つの懸念事項、この世界は前回と全てが同じではないということ。例えば前回は母は父よりも年下だったのに、今回はそれが逆転している。更に実叶は前回は姉であったが、今回は何と兄である。中身が変わらない以上特に困った違いではないのだが、事司に関しては仮にいのりと同年代なんてことになればコーチをしてもらうことは不可能である。いやでも同年代の選手としてスケートするのも良いな。
兎に角、先ずは明浦路司を見つけることからだといのりは早速ルクス東山に突撃した。其処では前回も大変お世話になった瞳や洸平に再会し彼らもまた記憶がある事を知れたが残念ながら司には会えなかった。
いのりは盛大に落ち込んだが、直ぐに切り替えた。伊達に前世でメダリストになった訳では無いし、レジリエンスは司と身につけたいのりの特技でもある。いずれ彼に再会できることを信じていのりはスケートに打ち込んだ。その過程で理凰や光、そしてかつての友人やコーチ達とも再会し皆前世の記憶がある事を知った。どうやらこの現象が起きているのはスケート関係者が多いらしい。しかしその誰も司を見つけられていないというのだから流石にいのりは参った。だって記憶を取り戻してもう何年も経ち既にいのりは立派なスケート選手になってしまった。いや司の事は何時までだって待つつもりだけれど、でもあの太陽の様な存在がいないリンクは慣れなくて、いのりにとってはとても寒くて寂しかったのだ。
そんな折、明浦路司捜索同盟を結んでいる理凰から一件のLINEが届いた。
『取り敢えずコレを見ろ』
そんな端的なメッセージと共に送られてきた動画へのリンクを押した瞬間、いのりは家に響かんばかりの奇声を上げた。何事かといのりの部屋に駆け込んできた家族にスマホを持った震える手を向けて言葉にならない声を上げながら画面を指差す。
そこにあったのは閑散としたリンクで踊る一人の青年の姿。画質も悪く一箇所に固定されたスマホで撮られているであろうそれは動画としてはかなり見にくい。それでもあの陽の光を浴びて輝く金髪と金眼、表情一つとっても美しい踊り、いのりが恋焦がれたステップ、それは見間違う事なく明浦路司だった。最早瞬きも忘れてジッとその動画を見守る。しかしふと、いのりは違和感に気付いた。
(何か…辿々しい?)
相変わらず丁寧なスケーティングだけれど、それでも前世の司と比べると何処か未熟さが見れる。それに首を傾げ、そしてふとある可能性が頭を過ぎる。もしかして司先生には前世の記憶が無い?慌てて動画の備考欄を見てみると、そこには『練習①』という簡潔なタイトルだけがあった。前世の知り合いに見つけてもらう為ならもっと分かりやすい文章やタイトルにするだろう、と言う事は本当に司には記憶がないのだ。無論、残念に思う気持ちはある。だっていのりは司と再会して彼にコーチしてもらうことを何よりも待ち遠しく楽しみにしていたから。でも、それよりも何よりも今回の司もスケートをしていたという事実が嬉しかった。またこの人の美しいスケートを見ることが出来るのだと知って安心した……のも束の間、ハッといのりは気付く。
(いやでも司先生って前回……)
かつて恩師より聞いた壮絶な過去が頭を過りヒュッと息を呑んだ。本人は気にしていないと言っていたがいのりにとっては憎き同好会、誰にも指示出来なかった過去、お金がなくて続けられなかった選手人生。いのりは盛大に頭を抱えてその場に蹲った。この動画を見るに相変わらず司の置かれているスケート環境は良いとは言えないのかも知れない。あぁ神よ、何故いのりの大好きな先生にこんな苦難を与えるのか。今回くらい大富豪の元で盛大に派手にスケートさせてあげろよ!見る目ねぇなチクショウ!等と叫ぶ娘に両親は若干引きつつも、でもまぁ自分達も司には恩も情も大いにあるので一先ず頷いた。そしていのりは再びハッと顔を上げると素早く動画が投稿されたアカウントを確かめる。アカウント名は端的に『司』でその他のコメントは『スケート練習中』の一言、そしてコメント欄は解放していないので此方からアプローチも出来ない。正に詰んだ。せめてもの思いでいのりは即座にチャンネル登録していいねを押す。本当はこの込み上がる思いを長文にして送り付けたいけれどそれが叶わないのが何よりももどかしい。いのりは既にスポンサーが付いている選手でもある。まぁぶっちゃけて言うとそれなりに今は資金力があるのだ。それがどう言うことか分かるだろうか、
「今なら司先生をいくらだって養えるのに……!!!」
ちょっと自分達の娘が危ない方向に行きかけているのを両親は察したが空気を読んで口を閉じた。いやまぁ前世からいのりの司に対する執着は目に見えていたし、それが今世では何年もかけてグツグツと時間をかけて煮込まれてきたのでそりゃあ濃厚な味にもあっているだろうと素知らぬ顔で目を逸らした。ちょっと司先生にこのいのり会わすの怖いなとかは思っていない。多分。
以前、明浦路司に聞いたことがある。本当にもう選手になる気は無いのかと。
「ありませんよ、俺はいのりさんのコーチですから!」
「じゃあもし生まれ直したら?」
「えぇ?うーん…今の記憶があるかどうかによりますね」
「記憶?」
「えぇ、俺は貴方の演技に焦がれてスケートを始めたので。真っ新な状態でもう一度貴方の演技を見てしまえば、結局また選手を目指してしまうと思うんですよね」
その言葉に何故か心が浮き足だって、それなのに「まぁでももう一度いのりさんのコーチになりたいですけど!」と続けられた言葉にイラッとして思わず思い切り彼の肩を小突いた。何をするのかと子犬の様に喚く男を睨みつけて、それから夜鷹は何と言ったのだっけ。
ふっと目を覚まして、あぁまたこの記憶かと嘆息する。2度目の人生、何故こんな退屈で詰まらなく滑稽な気まぐれを起こしたのかと神を呪ったがそれでも相変わらず夜鷹の中に渦巻く氷の世界への衝動は変わらなかった。だから前回と同様にスケートを始め、全ての大会で金メダルを取り、20歳で引退した。想定外であったのは慎一郎やレオニード、光といった前世で関わりのあった者達も前世の記憶を持っていたことだがまぁそれは良い。例え前世の記憶があろうがなかろうが1度目も2度目もそう変わらない。そう思っていたが、何故か前回はいた太陽が何時まで経っても現れないことだけが酷く夜鷹の心を乱した。そんな時、光から送られてきた動画に映る彼を見て夜鷹は数年ぶりに声を上げて笑った。
あぁ、君は今回も相変わらず僕に焦がれているのか。
どう見ても夜鷹のスケートを意識したそのスケーティングはまだまだ稚拙で未熟だ。それなのに何処か目を引くものがあるのだから彼の才能は変わらず其処にある。何処かも分からない寂れたリンクで一人誰にも指示することなく練習するその光景は正に過去の君の姿なのだろう。今回も前回同様に彼は環境に恵まれなかったらしい。彼に記憶が無いことはその動画を見れば自然と察せたが、それでも何とか連絡が取れないものかと夜鷹は手を尽くした。しかし不思議なことに幾ら調べさせても彼の行方は掴めない。今なら自分が幾らだって支援できるし、コーチだって出来ると言うのに。目の前で燻っている才能がどうしようもなくもどかしくて苛立った。
しかし事態は好転する、練習に行き詰まったであろう彼がライブ配信を始めたのだ。もしスケートに詳しい方がいましたら助言して頂けると嬉しいです…なんて、あの頃の彼からは想像も出来ないほど自信無さげな声で始められた配信は、しかし大反響を見せた。というか多分これを視聴しているのは前世で司と関わりのあったコーチや選手達。つまり今回の世界でも第一線で活躍しているスケート関係者達だろう。
経験豊富、実力確かな彼らのアドバイスを司はまるで乾いたスポンジが水を吸うようにぐんぐんと吸収した。何せ助言すれば一度で完璧に訂正してくるのだから楽しいなんてものでは無かった。彼の未知数の才能に動画を見ている者達は歓喜し震えたし、コメントは彼に対して支援したい、是非ウチのクラブにと誘う声で溢れかえっている。しかし其処は流石明浦路司というべきか、
「えぇ?そんな褒めてもらえるなんて、冗談だろうけど嬉しいです」
なんて照れながら宣うのだから全員の心は一つになった。違うそうじゃねぇ、と。図らずも優秀なコーチ陣を手に入れた司の実力はメキメキと伸びていった。というか実際の見本も無しにコメントの助言だけでこれだけ上手くなるのだから実際に指導すればどれ程の逸材になるのだろうかと皆その可能性に震え何とか見つけ出そうと躍起になったが、相変わらずとして彼の所在は掴めなかった。何せ記憶が無いのでコメントで問いかけてもハテナで返されるだけだし、彼はネットリテラシーもしっかりしていたので直接所在を聞いても上手くはぐらかされるだけだったので。
寝起きの重い頭を抑えながら、夜鷹は最早習慣となってしまったスマホのチェックをする。隙あらば壊していた前世とは大きな違いだな、と壊す度に顔を蒼白にして怒っていた何処かの誰かを思い出しふっと笑みが溢れた。慣れた手付きで何時ものアプリを開くと其処には唯一夜鷹が登録しているチャンネルの新着動画を知らせる通知が光っている。トンっと画面を開くと、何時もの人気のないリンクに一人佇む司の姿が映る。何も言わずに始めるのは珍しいな、と思っていると多少音割れのした音楽が流れ出した。
『トゥーランドット』
夜鷹も以前ノービス時代に使用したスケートでは定番の曲だが、司は今日に至るまで一度も曲がけで滑った事はない。思わず身を乗り出し画面を射抜かんばかりに見つめる。
始めに上げられた動画とは見間違う程に上達したスケーティング、恐らく乱暴なコメントながらも毎回ライブ配信に参加していた高峰匠のお陰もあるのだろう。
安定した滑りのまま4回転トウループ、着氷。ジャンプに関しては慎一郎にライリー、魚淵、その他多くのコーチ達が怒涛のコメントを上げていた。飛ぶ際の助走から角度、空中での体の軸、着氷のタイミングとその際の手や脚の姿勢など、正直初心者に教える域を当に超えた指導だったけれど。それでも助言すればその全てに答える司にコーチ達の熱も比例してどんどん上がってしまったので何時しかシニアレベルの指導をしてしまっていたのだ。
フライングキャメルスピン、既に前回同様高身長に成長した司のそれは相変わらず見応えがある。そのまま助走を取って3回転ルッツ+3回転ループ、何故かこれに関しては光が躍起になってコメントを残していたなと首を傾げた。あの男相手ではどうも冷静になれずムキになるようで、ライブで突如として始まった光の厳しい指導とそれに恐縮する司、困惑するコメント欄というのが何ともシュールであった。
合間に挟まるのはその長身からは不思議なほどの柔軟性を生かしたスパイラルやイナバウアー、正直これらは直接的な得点にはならないので重要視する者も少なかったが瞳や洸平といったアイスダンス時代の明浦路司を知っている者達の指導にかける熱量は凄かった。実際司もこれらの技に関して乗り気で取り組み、習得も早かったので元々向いているのだろう。
そのままダブルアクセル、これは理凰の教えだな。光とは正反対の飴10鞭0の様な教え方だったけれど、司の様に言語化に長けている彼は案外父親同様コーチに向いているのかもしれない。今はダブルだがこの十分余裕のある飛び方を見るにトリプルを習得するのもそう遅くない筈だ。
そのままくるりと反転して助走を取り、4回転サルコウ。何処かであの子供が歓声を上げているのが想像しなくても分かる。何故か司は弟子同様サルコウが得意のようであっという間に4回転を習得した。その時のいのりの喜びようといったら、彼女のコメントだけで配信時間の大半が埋まるくらいなのだから全くあの師弟は似た者同士だとため息が出る。
ふと、司の表情が変わる。それまで笑顔を浮かべていたが何処か真剣な面持ちに変わりエッジを深く傾け助走を取る。その様に思わず身を乗り出し、息を呑んだ。後ろを向き、左足で踏切り右足を氷に突く。
4回転ルッツ
飛び上がりは十分、回転も足りている、しかしドンッという強い音を立てて司は氷に打ち付けられた。それでも直様起き上がるとそのまま残りのスピンを決めて音楽は終わる。暫く司の荒れた息遣いだけがリンクに響き、漸く息が落ち着いたであろう司が何処か照れぎみにカメラの方へと向かって来た。
『最後いけるかなって思ったんですけど、まだ甘かったですね。でもまた挑戦します』
あれは夜鷹が教えたジャンプだ。3回転も漸く飛べるようになったばかりなんですよ、と珍しく苦言を呈する光とまだ今の段階では早いと文句を言うコーチ陣をガン無視して司にコメントで教え続けた夜鷹の代名詞とも言える4回転ルッツ。正直出来る様になる可能性は低いと思っていた。幾ら彼が夜鷹と同じ鷹の目を持とうとも、実際の手本も無しに飛ぶ事は余りにも困難だ。しかしふと思い至る。
「あぁ、僕の手本ならあったか」
現役時代に幾らでも飛んでいた。きっと彼はその映像と夜鷹の助言だけで先程の域に到達したのだ。その事実にふるりと思わず身震いする。あぁ全くもって其処の見えない可能性というのは面白い。彼の才能に手をこまねいているコーチ陣やあの子供らが強引な手段に出ないとも限らないし、そろそろ夜鷹も本腰を入れるべきか。ここまで育て上げた獲物を今更横から掻っ攫われる等、猛禽の名をもつ己の名折れである。無意識に唇を舐めて夜鷹は笑みを浮かべた。狙いはただ一つ、あの太陽の様な才能の塊。手に入れたらどうしてくれようか、そう考えを巡らせただけで歓喜が沸き立つ。己の持つ権力の全てを持ってあの男を手に入れんと夜鷹は狙いを定めた。
哀れな太陽を手に入れるのは一体誰か。
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