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「昨夜、エスカミオ傭兵団によって、国王陛下の隊が襲撃されました」
「王は無事か!」
サイラスは努めて冷静を装いながら問うた。
「今朝未明、無事にカルデル城へ入場されたとのことです」
「なお近衛兵団に多数の死傷者が出た模様」
「カルド王はエスカミオ殿に捕縛されたとのこと」
サイラスは小さく息をつき、胸をなで下ろした。
「……戦場では、何が起こるかわからないな」
その様子を見て、ユンナが首をかしげる。
「けど無事ってことは……」
「軍師様は、未来が見えるの?」
サイラスはかすかに苦笑した。
「そんなわけありません」
「私はただ、悪夢がむこうからやってきたら
逃げ出しかねない弱い人間ですよ」
「でもゼイオンならさ、悪夢ごと切り捨てちゃいそうだよね」
ユンナが答えた
サイラスが笑った。
悪夢は、音もなく戦場に足を踏み入れていた。
カルド襲撃の報は、すでに帝国にも届いていた。
ゼイオンはそれを、まるで取るに足らぬ雑音のように聞き流す。
「……そうか」
わずかに頷いただけだった。
やがて、攻めあぐねているグラントからの急使へと視線を移す。
「二つ、指示を出す」
地図に目も落とさず、淡々と言い放つ。
「道がなければ、作ればいい」
「穴から獲物を引きずり出す方法など、いくらでもある」
その声には、何の感情も乗っていない。
周囲の将たちは、言葉の意味を理解しながら、誰も口を開かなかった。
沈黙の中、ゼイオンはふと小さく呟く。
「……サイラス」
その名を、まるで遠くの獲物を見定めるように。
「お前はまだ知らぬ」
「人の心の奥底にある――恐怖の、その先を」
伝令が去ったあとも、グラントはしばらく動かなかった。
手にした指令書を見つめたまま、わずかに指が止まる。
周囲の将兵たちは、その様子を固唾をのんで見守っていた。
やがてグラントは目を上げ、前線の方角を見やる。
泥濘の地。
足を取られ、進めずにいる兵。
遠くに見える敵の潜む丘。
そのすべてを、静かに見渡す。
次の瞬間、グラントは指令書を折りたたんだ。
副官に手渡す。
受け取った副官の目が、紙面を追うごとにわずかに見開かれる。
息を止めるような沈黙。
副官は一度だけ、グラントを見た。
何かを問うように。
グラントは答えない。
ただ、わずかにうなずいた。
それだけで十分だった。
副官は歯を食いしばり、踵を返す。
やがて陣のあちこちで、兵が動き出した。
束ねられる干し草。
運ばれる薪。
引きずられていく何か。
誰も声を上げない。
ただ、理解していた。
これから何が始まるのかを。
遠く、麓の小屋に煙が上がる。
やがてそれは炎となり、風にあおられて広がっていく。
黒い煙が、ゆっくりと丘へと這い上がった。
その下で、兵たちが列をなして進む。
足元を見ないようにしながら。
乾いた木と藁は、抵抗もなく燃え上がる。
中から飛び出してきた男が、何かを叫んだ。
言葉になる前に、剣が振り下ろされる。
男はその場に崩れ落ちた。
煙の中から、小さな影がよろめきながら飛び出す。
子供だった。
振り返る。
倒れた男を見る。
次の瞬間、駆け出した。
帝国兵は追わない。
ただ、その背を見ている。
やがて、ゆっくりと弓を取った。
弦が引き絞られる。
放たれた矢が、子供の足を射抜く。
小さな体が、地面に崩れる。
それでも、這うように前へ進もうとする。
帝国兵はまるで狩りにでも行くように馬に乗る。
土を蹴り、距離を詰める。
ヨゼフは塹壕の隙間から、
子供がこちらへ逃げてくるのを見つけた。
足を引きずっている。
その後ろ。
ゆっくりと馬を進める帝国兵の姿。
追いつこうとする様子はない。
ただ、逃げる背を見ている。
ヨゼフの喉が鳴る。
――助けなければ。
考えるより早く、体が動いた。
塹壕を飛び越える。
子供の目が、一瞬だけこちらを見た。
助かる、という色が浮かぶ。
その瞬間だった。
帝国兵の背後の茂みが揺れる。
二つの影が現れる。
伏せていた兵だ。
ヨゼフは一瞬、足を止めた。
だが、もう遅い。
後方で、叫びが上がる。
茂みから帝国軍側の援護に出た兵が、さらに数を増やしていく。
四人。
そして王国軍から八人。
塹壕の各所から、兵が引きずられるように飛び出してくる。
「子供が追われている!」
その声が、次の兵を動かす。
止まらない。
伝播する。
やがて、それは命令のように広がった。
――助けろ。
指揮官トーソーのもとへ報が届いたとき、
すでに多くの兵が塹壕の外へ出ていた。
トーソーは顔色を変える。
「行くな! これは罠だ!」
叫びは、届かない。
その頃、前線では。
飛び出した兵たちを囲むように、影が現れていた。
十、
三十、
そして――百と。
逃げ場は、どこにもない。
遠くで、それを見下ろす男がいた。
グラントは、わずかに目を細める。
「……かかったな」
手を上げる。
そして、下ろした。
「サイラス」
「人を助けるという行為は、美しい」
「だからこそ、戦場では最も利用しやすい」
「悪魔は、そこから入ってくる」
ゼイオンは誰聞くともなくつぶやいた。
丘の東に、湿原特有の浅い沼地が広がっている。
人ならば通れぬことはない。
だが隊を成して進むには足を取られる。
戦場において、それは天然の堀だった。
王国軍は、その背後にいくつもの陣を構えている。
防ぐには、十分な地形のはずだった。
「……何だ、あれは」
最初に気づいた兵の声は、小さかった。
だが、誰もが同じものを見ていた。
沼地の向こう。
帝国軍の列が、ゆっくりと進んでくる。
足を止めない。
沈まない。
まるで――地面でもあるかのように。
ざわめきが広がる。
「ありえない……」
目を凝らす。
そのとき、ようやく気づいた。
黒く、沈んだ帯。
不自然にまっすぐ伸びた、一本の道。
水面の下に、何かが敷き詰められている。
踏みしめるたびに、わずかに沈む。
それでも進む。
止まらない。
その上を、兵が列をなして渡ってくる。
誰一人、足元を見ようとしない。
見てはならぬものが、そこにあると知っているからだ。
帝国兵が前へ出る。
次の瞬間、無数の矢が降り注いだ。
しかしひるまない。
矢盾で守り、後ろから次々に兵が
大きな土嚢を沼に放り投げる
土嚢は時間とともに赤く染まり
縛った口から突き刺さった矢もはみ出てる
次々と沼へと投げ込まれ
水面がわずかに揺れ、沈む。
その上に、また一つ。
さらに、もう一つ。
盾を構えた兵が前へ出る。
矢を受け止めながら、藁を撒く。
その上に、板が並べられていく。
躯の上に、藁が敷かれ、板が重ねられる。
踏み固められる。
やがて、それは道の形を成していた。
帝国兵は足を止めない。
自らの上に築かれた道を、何事もないかのように進んでくる。
王国兵の一人が、呆然と呟いた。
「……我々が戦っているのは」
言葉が、そこで途切れる。
「悪魔か……何かか」
誰も、その先を言えなかった。
「サイラス」
「わが帝国兵は、死してなお戦う」
「……では」
「恐怖は、いまどちらに向いている?」
ゼイオンは満足そうに丘に視線を向けた
報告を聞き終えたサイラスは、しばらく言葉を発しなかった。
ただ、地図を見つめている。
「……ゼイオン」
かすかに、その名を口にする。
「わが師よ……」
視線は動かない。
「あなたは、そうまでして」
「戦場で勝つことこそがすべてだと」
「そう信じておられるのですか」
一度、静かに息を吐く。
やがて顔を上げた。
「……指示を出します」
空気が張り詰める。
「本陣の千騎を、各戦線に分散投入」
「右翼、四時方向――パイカー百騎」
「続いて右翼、二時方向――ケッセル百騎」
間を置かず、指示が続く。
「中央支援、ランド百騎」
「左翼後方、クリス百騎」
次々と配されていく兵。
聞いていたトーソーの顔色が変わった。
「……それでは、本陣が空になります」
サイラスは、わずかに首を振る。
「構いません」
短く、断じる。
「各隊は戦線を押し返し、鶴翼の陣を取ってください」
本陣に控えていた部隊長たちが、次々と踵を返す。
丘を下り、戦場へと散っていく。
トーソーが思わず声を荒げた。
「翼の薄い鶴翼は、敵に見破られますぞ!」
サイラスは答えない。
ただ、前を見ていた。
その視線の先――
沼地を越えて迫る、帝国軍の影。
戦いは霧が晴れ、
正午を過ぎてもなお続いていた。
投入された兵によって戦線は維持され、
地形にも助けられながら、かろうじて均衡を保っている。
――そう見えた。
だが、綻びは確実に広がっていた。
「皇帝陛下」
参謀が一歩前に出る。
「敵は限界でございます」
「ご覧ください。グラントが引きずり出した右翼、
突破に成功した左翼――」
「両翼からの圧力に耐えるため、敵は兵を繰り出し続けております」
「しかし、その結果……」
地図を指す指が、いくつもの点をなぞる。
「戦線の各所に乱れと空隙が生じております」
「あと一刻もすれば、それは致命的な穴となりましょう」
静かな確信だった。
帝国の勝利は、目前にある。
――そのとき。
急報が駆け込む。
「報告!」
「スカーレット軍、カルデル城を出撃!」
「本軍へ向け進軍中!」
空気が変わる。
ゼイオンの目が、鋭く見開かれた。
「迎撃せよ!」
声が、鋭く走る。
「カルヴァに命じよ。これ以上、こちらに近づけるなと!」
命令は即座に伝達され、陣が動き出す。
だが――
次の瞬間には、ゼイオンの声は落ちていた。
「……簡単には勝たせてくれぬか」
わずかに視線を落とす。
「厄介な変数が出たな」
「だがちょうどよい機会だ、ここで死んでもらおう」
再び顔を上げたとき、そこに迷いはなかった。
遊撃隊長カルヴァ。
先帝に、その馬術の美しさを見出され、抜擢された男である。
一時は外交武官として各国を巡り、
戦ではなく言葉で国を渡り歩いた経歴を持つ。
だが今は再び戦場に立つ。
軽装騎馬による機動戦――その才において、帝国随一。
そして――
誰よりも戦を嫌う男でもあった。
ゼイオンからの命令書を受け取ると、
カルヴァは頭を掻いた。
「……俺に止められるかな」
遠く、戦場の彼方。
赤い波がうねるように押し寄せている。
「あの、“赤い雪崩”を」
自信は、なかった。
だが、退く理由もない。
カルデル城。
あの戦いが脳裏をよぎる。
側撃に入ったはずの自軍は、
あの小さな影――エレンによって、完全に断たれた。
止められなかった。
守れなかった。
「あの子……どうしてるかな」
ふと、場違いな言葉が漏れる。
戦場には似つかわしくない、あまりにも柔らかな声。
「……また、来るのかな」
一瞬の沈黙。
やがて、自分で首を振る。
「――今度は、命がけだな」
胸元の内ポケットに手を入れる。
そこには、一通の手紙。
まだ渡せていない。
愛する妻へ宛てたもの。
そっと押し込む。
「行くか」
その背に、迷いはもうなかった。
カルヴァは
青野ヶ原の街道入り口に
陣を敷いた。
道は狭い。
左右はなだらかな起伏と低木。
騎馬の機動を活かすには不向き――だが、
押し寄せる流れを“受け止める”には最適だった。
「来た!」
斥候の声と同時に、
地鳴りのような蹄音が近づいてくる。
赤。
視界の端が、赤に染まる。
波ではない。
雪崩だ。
「……はは」
カルヴァは小さく笑った。
「大したもんだな」
槍を握る手に、わずかな汗。
だが震えはない。
「――かかれ!」
号令が、乾いた空気を裂く。
騎兵たちが一斉に前へ出る。
躊躇はない。
(正面から馬をぶつけて止めるしかない)
(小細工は――なしだ)
かつて、彼は“美しく勝つ”ことを知っていた。
だが今は違う。
カルヴァは馬腹を蹴った。
先頭に立つ。
その騎乗は、なおも美しかった。
――だからこそ、痛ましいほどに。
カルヴァは、スカーレット軍と対峙した
カルデル城での光景
その速さと――美しさに、見入っていた。
乱れていない。
一騎一騎が、まるで同じ呼吸で走っている。
(……なんだ、あれは)
戦場であることを、一瞬忘れそうになった。
「あれは、止められない」
思わず、口に出ていた。
「重騎兵をぶつけて――
相打ちに持ち込むしかない」
それは“勝つ策”ではない。
ただ、崩すための策だ。
次の瞬間。
激突。
戦場のあちらこちらで、
鈍い衝撃音が連続して響いた。
骨が砕ける音。
鎧がひしゃげる音。
馬が悲鳴を上げる音。
すべてが、混ざり合う。
だが――
それでも。
岩に当たった水が、流れを変えるように。
いや、違う。
岩を避けて、なお速さを増す氾流のように――
スカーレット軍は、走り抜けていく。
「な……」
言葉が、続かない。
中央が――
真っ二つに、割られた。
カルヴァの前に、風が抜ける。
さっきまで“壁”だったはずの場所に、
何もない。
ただ、抜けられた跡だけが残っている。
「くそっ……!」
スカーレット軍女王レイナは、
眼前に現れた重騎兵の壁を一瞥した。
整列。密集。
押しとどめるためだけに築かれた、鈍重な塊。
「――美しくない」
ただ、それだけを口にした。
次の瞬間。
「突撃!」
「続け!」
赤が、加速する。
ためらいはない。
ぶつかるのではない――“抜ける”。
急ごしらえだったのか、
重騎兵の壁は、その役目を果たす前に――
崩れた。
いや、違う。
飲み込まれた。
赤いうねりの中に、
金属の塊が沈んでいく。
悲鳴も、抵抗も、
すべてが後ろへ置き去りにされる。
突破。
レイナは振り返らない。
ただ、わずかに手綱を引いた。
「エレン」
名を呼ぶ。
それだけで、意図は伝わる。
「引き返せ。残った重騎兵を討て」
短く、命じる。
「はっ」
エレンは一礼し、反転する。
その動きすら、無駄がない。
レイナは前を向く。
その先にあるのは――帝国軍本陣。
「行くぞ、ジャスミン」
「はい」
再び、加速。
赤は止まらない。
その背に、もはや“戦い”の気配はなかった。
ただ――
すべてを貫く、一本の流れのように。
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