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夜が明けるにはまだ時間がある。
空には星が出ている。
自転車に乗って石油会社の門をくぐる。
門の脇には入退受付の詰所がある。顔なじみの守衛に軽く頭を下げて通る。
ここが、ボクの勤務先だ。
広大な敷地の中に石油プラントや、各種の工場建屋が並んでいる。
新入社員研修のとき、東京ドームが何個入るとかって説明をされた。
その一角に車両部門、運送部門がある。多くの車両、トラックが並んでいる。
住んでいるのは会社の寮だ。
歩いても10分あれば着く。
今日は荷物があったので自転車で来た・・・・前のカゴに入ってる大きなバッグだ。
真っ暗な敷地の中を自転車で進む。
まだ、明りのついてない建物が多い中、運送部門の事務所からは煌々と明りが漏れている。
駐輪場に自転車を入れた。
前のカゴから大きなショルダーバッグを取り出す。肩に担ぐ。事務所に入っていく。
夜明け前とはいえ、すでに事務所は動き出している。・・・・朝の喧騒が始まっている。
事務所はカウンターで仕切られていて、その内側には机が並んでいて内勤者が勤務している。
通常の事務作業や、各種の車両、トラックの運行管理なんかを行っている。
出発する運転手は、カウンターの外で点呼を受ける。
運行スケジュール、ルートや時間の確認・・・その他諸々の指示、連絡事項を受け取る。
「水上!」
カウンターの中から名前を呼ばれた。
所長だ。手招きしている。
椅子が4席あるミーティングルーム。
所長と対面で座っていた。
テーブルには運行スケジュール・・・・それから、車両の取り扱い説明書があった。
・・・・今日から、ボクの担当する車両が変わる。
「・・・・慣れるまでは慎重にな・・・・もちろん慣れてからも慎重にな」
所長が真面目な顔で言った。
45歳ってところか。新入社員から直属の上司だ。・・・・もちろん、間には主任とか、課長といった上長もいる。しかし、大型トラックの運転手は所長から直接指示を受けることが多い。
「で、GTRの調子はどうだ?」
一転して笑顔だ。所長も無類の車好きだ。
いつも、車談議に花が咲く。
ボクは、GTRの凄さを話した・・・所長が嬉しそうに聞いている。・・・・独身だったらオレも買うんだがなぁ・・・と笑った。
「まぁ・・・高価な車だが・・・ご褒美だな・・・・オマエは頑張ったもんな・・・次世代のエースだもんな」
「いやぁ・・・所長のおかげです」
本心だ。
運転手とはいえ石油会社の運送部門となれば、社命で各種の資格を取らなければならない。
大型トラックの運転免許は当然として、フォークリフト、クレーン・・・・危険物取扱の資格なんかも必要だ。
所長には休みの日にも実技の指導などで手を借りた。
おかげで、免許、各種の資格をとるスピードは会社内でも早かった。
この所長・・・・この上司じゃなければ、こんなに早く各種の免許、資格が取れなかったと思う。
・・・・どころか、仕事が続いていたかもわからない。
入社して・・・・体調を崩した。
親身になって面倒をみてくれたのが所長だ。
所長は高知県出身だった・・・そう、同じ四国出身。
だから、ボクの苦労・・・・「東京の味に馴染めない」ってことを良くわかってくれた・・・・所長も「通った道」だと笑った。
四国の郷土料理の店に何度も連れて行ってもらった。
そうして励ましてくれた。
・・・・上司というより、歳の離れた兄貴・・・・ボクはそう思っていた。
「東京の親父」というには、ちょっと若い。
「・・・・あ、忘れてました・・・これ・・・」
ボクは、テーブルに箱を置いた・・・・ラベルに「鳴門海」の文字。750mlの瓶だ。
「お、鳴門海、大吟醸じゃないか・・・・そうか、帰ってたんだな・・・気を使わせてすまんなぁ・・・・」
「でも、好きでしょ?」
大好きだ。と、所長が笑う。
車と同じく酒が好きだ・・・・そして日本酒が好きなことはよーく知ってる。
せめてもの、日々の感謝のしるしだった。
「じゃあ・・・かわいい部下への・・・次世代エースへの、オレからのみやげはこれだ」
所長がキーをテーブルに置いた。
・・・・・新車だ。新車のキーだった。
「アメとムチだ。・・・・オレの仕事は、優秀な運転手を育てることだからな。・・・・優秀な運転手には、遠慮なくアメをやる」
所長が笑った。
「大事に管理しろ」と言われて、すぐに、ポケットからキーホルダーを取り出しキーをつける。
担当車両のキー、1本は運転手が管理することになっている。
事務所を出た。
駐車場に真新しいトラックが停まっている。
クロームシルバーに輝くバンパー・・・・新しく塗られたばかりの会社のマークの入った塗装・・・今日から自分の車両となるかと思うと嬉しさがこみ上げる。・・・責任も感じるけど。
この車両に乗りたかった。・・・・ましてや新車が与えられるなんて・・・・・
本当に嬉しかった。
点検のため周りを一周する。
大型トラックだ。よじ登るようにドアを開けて乗り込む。
バッグを助手席に置いた。
運転席に座る。見回す。
・・・・・・新車の匂いがする。
乗用車の新車の匂いとは、また違った匂いだ・・・・
・・・・懐かしい匂いだ・・・・
・・・・そっとハンドルに触れる・・・・メーターパネルに・・・ダッシュボードに・・・・・顔が綻んだ。
キーを捻る。
高出力のディーゼルエンジンが唸りを上げる。
ギアを入れる。
右・・・左・・・・安全確認をして走り出す。
守衛に見守られながら工場を後にした。
しばらくして首都高速に入る。
まだ、星が見える。
夜が明けないうちに・・・・朝の渋滞が始まる前に首都高速を抜けたい。
夜が明けてきた頃には東北自動車道に入っていた。
これから5日間の工程で東北を回って帰ってくる。
走り出して4時間。サービスエリアに入る・・・休憩だ。
大型トラックの駐車レーンに入っていく。白線内に停車する。
大型トラック特有のエアブレーキの大きな音が響く。
エンジンを切る。
トラックを降りる。トイレに入って自動販売機コーナーへ。
木陰のベンチに座って缶珈琲を開けた。
駐車場には、大型トラックが何台も駐車している。
ディーゼルエンジンの唸り声が聞こえる車両もある。・・・・中でカーテンが引かれている。・・・・運転手が仮眠をとっているんだろう。
・・・・幼い日、父と旅に出た。
長距離運転手だった父は、幼かったボクを仕事に連れて行った。
・・・・今思えば・・・・あれは、母の手助けもあったんじゃないのか・・・・そう思う・・・
「長男の嫁」として家事に追われていた母に対しての、せめてもの育児からの解放だったんじゃないのか・・・・
父、母・・・・両親が若かった頃には、家には、祖父は当然として、まだ、叔父二人、叔母が同居していた・・・叔母は、まだ高校生だった・・・・生活を支えていたのは父だ。
父は、力いっぱいに・・・それこそ、当主としての務めを果たそうと必死に・・・・力いっぱいに働いていたんだろう・・・
自分も働くようになって、よくわかる。父は、本当に力いっぱいに働いていたんだと思う。
・・・・日本の敗戦がなければ、名門の当主の座が約束されていた。・・・・皆から傅かれて、自ら「労働」をすることなく一生を終えたはずの人生だった。
当主としての責務は、勉学にいそしみ、政府の「武家」・・・・職業軍人となることだった。
・・・・それが、敗戦によって、進むべき職業軍人としての道が絶たれた。・・・・敗戦によって「軍」そのものが解体されてしまった。
人生の目標を失ってしまった。
・・・・さらに、「農地解放」によって、土地、財産すらが没収される。
家の没落。社会的地位すらがなくなってしまった。
人間として、拠って立つ全てのものが崩れ去ってしまった。
・・・・父は途方にくれたことだろう・・・・
これまで「決められたレール」のあった人生が、いきなりレールごと消滅してしまった。
人生の目標が瓦解した。「決められたレール」どころか、生きていた根底すらが瓦解した。
・・・・そんなときに「自衛隊」・・・・警察予備隊が発足する・・・・事実上の日本軍の再建だ。
父は、喜び勇んで入隊したのではないか・・・・
父の自衛官だった姿・・・水兵の写真を思い出す。誇らしげな笑顔の写真を思い出す。
・・・しかし、道半ばにして除隊を余儀なくされる。
これは想像でしかないが・・・・どうにもこうにも経済的に立ちゆかなかったのではないかと思う。
時代は強烈なインフレの時代だ。
父の稼ぎが一家の稼ぎとなっていた。父の両肩には弟、妹たちの生活がかかっていた。
生活費・・・・学費・・・・古今東西、公務員の給与は安い・・・職業軍人の・・・自衛官の給与じゃ、とてもじゃないが一家の生活は成り立たない。
・・・それに、分家への借金の返済もあった。
どうにもこうにも金銭的に成り立たなかったんじゃないかと思う。
父は自衛隊を・・・・アイデンティティーであった「職業軍人」を辞め、稼げる仕事へと転身する・・・それが、高度成長で花形だった「物流」・・・・トラック運転手・・・しかも、長距離運転手への転身だった。
父は、ボクが寝ている間に仕事に出かけ、寝ている間に帰ってきた・・・・いつ帰ってきたのかわからないほどだ・・・・・それくらい働いていた。それほど稼いでいた。・・・・父と一緒に旅をした・・・・父の仕事についていった・・・・
今ならわかる。どれほどに重労働だったのか・・・・
父は、毎日過酷な労働に身を置いていた・・・・そうして弟妹を食べさせ・・・ボクたちを食べさせた・・・・生活を守っていた。
そして、自分が苦労したからこそ、弟、妹には進学の道を開いた。
弟、妹の進学・・・その授業料。
・・・・そして、屋敷の維持費。
分家への借金返済・・・・
農地を失い、収入源を父の働きだけとしたのでは、とても賄えるものじゃない。
祖父も分家の工場で働いてはいたものの、職工の賃金では焼け石に水だっただろう。祖父ひとり分の生活費が関の山だっただろうと思う。
・・・・おそらく、父が独立したのも・・・・雇われの身では、一家の生活を賄えなかったからではないかと思う。
父は必死に・・・全員の生活を守るために、それこそ必死に商売を急拡大していったのではないか。
父は、肉体的にも無理をし・・・・精神的にも無理を重ねたに違いない。
全ては、父の責任ではないもののせいだ。
時代に翻弄されただけのことだ。
駐車場。
蝉が鳴いている。
夏の盛りを過ぎたとはいえ、まだ暑い。
リストバンドで汗を拭った。