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荷物を抱えて廊下を歩くティアは、3年前から歩き方は変わらない。
ビーズ装飾も刺繍もないフラットシューズを履いて、ぽてぽてと歩く。
その姿は、抱えている荷物が多すぎて、傍から見たら衣装の塊が移動しているかのよう。
しかも時折よろめいたりするので、妙にひやひやさせられるが、これは娼館にとったら日常の光景。
ティアが、うっかり荷物を床にぶちまけることはないとわかっているので、すれ違うバトラーもメイドも、ティアの行く道を塞がないよう道を譲る。
あと5分でメゾン・プレザンの門が開く。
忙しさは最高潮で、上を下への大騒ぎ。使用人たちは、「お互い頑張ろう!」と声を掛け合い、持ち場に着いた。
地下の衣裳部屋は倉庫のように広いが、ドレスや靴などの小物が溢れかえっているので、実際はかなり狭く感じる。
躓かない程度の明かりが灯る中、ティアは抱えていた荷物を手近な棚に置く。次いでドレスを、一着一着、丁寧に作り付けのクローゼットにしまい込む。
「……よし。完璧」
綺麗にクローゼットに収まったドレスを見て満足そうに頷くと、今度は小物と靴を片づけるために、梯子を登り始める。
収納棚は天井まであるので、背の低いティアは、つま先立ちしても到底届かない。
靴や扇子、それから髪飾り。小物と言ってもそれなりの数があるため、一気に全部をしまうことはできないから、ティアは荷物を抱えては所定の棚に戻すことを繰り返す。
そうしているうちに、楽団の曲目がオーバーチュアから迎賓曲へと変わった。
「………ふぅ」
やっと最後の靴をしまい終えたティアは、梯子の一番上に腰かけて、大きく息を吐いた。
裏方に徹しているティアは、娼館の門が開いた瞬間だけ、一息つくことができるのだ。
本当に毎日毎日、開館時間の直前はいつも慌ただしい。
どれだけ事前に準備をしていても、気まぐれな娼婦によって結局バタバタしてしまう。
だがティアは、その忙しさが好きだった。
忙しければ、何も考えなくていい。黙々と手を動かしていれば時間が過ぎてくれる。
それに姦しい娼婦達の声を聴くのも嫌いではなかった。
娼婦の姐さま達は今頃、極上の笑みを浮かべ接客を始めているだろう。
(のんびりしている場合じゃないなぁ)
ティアは、ぼんやりしていた思考をすぐさま切り替える。
これから調理場へ行って、料理の盛り付けの手伝いをしなければ。
それに娼館は部屋を回してなんぼだから、マダムローズの伝令係として、館中を走り回らなくてはならない。
「よし、頑張るか!」
ティアは気合を入れるために軽く伸びをして、梯子から降りようとしたその時、ガチャリと扉が開いた。
「ティア、お客さんだよ」
ノックもなく地下の衣裳部屋の扉を開けたのは、バトラー見習いのロムだった。
ロムはティアより1つ年上の19歳で、西のトニアという海沿いの町で貿易商を営む商家の次男坊だ。
経営が悪化したのをきっかけに、2か月前からここで住み込みで働くようになった。
そんなロムは、先輩のバトラーから知らせを受けて慌てて走ってきたのだろう。ティアに声を掛けた後、肩で息をしている。
頬が赤いのは、ティアを前にしているからである。
ロムがティアに想いを寄せていることは、メゾン・プレザンに身を置く者なら周知の事実だが、誰も口には出さないし、ティアに伝えることもしない。
ティアはこれから先、未来永劫、ずっとずっと結婚しないと決めている。そして、誰とも恋仲になるつもりもない。
「ん?お客様……ですか?」
ロムの言葉を受けて、ティアの宝玉のような翡翠色の瞳が、不思議そうにくるりと動く。
ティアは娼館生まれの娼館育ちだけれど、客を取ることはしない。あくまで下働きに徹している。
「えっと……バザロフさまがいらしたそうだよ」
「あ!」
短く声を上げた後、ティアの口元が僅かに緩んだ。
ティアには、一人だけバザロフという名の顧客がいる。彼とは長い付き合いで、ティアが信頼を置く数少ない者でもある。
「すぐに行きます」
「うん。そうしてくれ───って、うわぁ」
ロムを見下ろしながらそう言ったティアは、ふわりと梯子から飛び降りた。
その勢いでスカートの裾が靡き、膝と足首が丸見えとなる。
めったに日に当たらないせいで、白くすらりとした生足は、年頃のロムにとったら、かなり目の毒だ。
「わぁああっ」
ロムは、声を上げながら慌てて目を逸らす。
本音は食い入るように見ていたいところだが、ティアに嫌われるくらいならと、なけなしの理性でそうしたのだ。
けれど猫のように音もなく着地したティアは、ロムのそんな気遣いというか下心などまったく気づかず、ワンピースの裾を軽くたたいて埃と皺を取る。
「じゃあ、行ってきます」
ぺこりと頭を下げたティアは、そのまま勢いよく廊下へと飛び出した。
後に残されたロムは、慌てて廊下を走るティアに声を掛ける。
「ああ、ティアっ、エプロンは外して行けっ。あと、髪に結んでいる麻紐も外しておけよっ」
妹に向けるような言葉をかけつつも、内心ロムは「いい加減、俺の気持ちに気付いてくれよ!」と悲痛な思いを抱えていた。