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A区画、第7棟前には、何も植えられていない花壇があって、それを横目に階段を上る。集合ポストの302号室、
「KURATA」
の、カラフルな文字は、私が色とりどりのサインペンを駆使しながら書き上げたもので、団地内の最高傑作と、ママはたいそう喜んでくれた。
重たい鉄製の扉を開けて室内へ入る。
不法侵入には当たらないだろう、だって昔とはいえ、私達家族の家なのだから。
玄関とリビングを隔てる擦りガラスの引き戸には、人影が映ってはいるが、あれはきっと私だろう。背格好でわかる。
静かに流れる音楽はスイートボックスで、当時の私が執筆の際に、好んでかけていたアルバムだ。
そう云えば、スランプになってからというもの、音楽に想像を膨らましながら、シーンを文字で綴る作業をしなくなったなあ…と思う。
それだけ、心の余裕がなくなったのだろうか?
アイデアなんて、尽きることなく溢れ出ていたというのに。
「イカ耳とらきち、キミは人間の男女についてどう思うかね?めんどくさいよねやっぱり…ねえ、人間ってめんどくさいでしょう?ネコ属はどうかしら?嫉妬や独占欲とかあるのかしら?」
私の声が聞こえる。
この頃の私は、保護したばかりのとらきちに話しかけながら、物語を描いていた。
そうすることで…と、云うより、ひとり問答をしながら、物語の矛盾や方向性を確認して、修正していたのだ。
その作業は、この上なく楽しい時間だった。
「主人公のまさみをどうしようかな?生き霊に呪われたと思い込ませて、おかしくなっちゃうのは変かなあ…あ、だけど仕組んだ悪い奴がいるよね、とらきちならどうする?どうもしない?」
今の私は、昔の私を覗いているのだ。
その声は生き生きとして、歳を重ねた私とは違って、反オクターブ高い響きで若々しく、リビングに入れないままの私は、その場にへたり込んでしまった。
「イカ耳とらきちくん、浮気させちゃおっかな、男が情けない感じでさ、だけど外面は男前なの。いるよね、そんな人…」
昔の私の声に眩暈を覚えながらも、私は少しだけ仕合わせだった。
何故なら、過去の私は魅力的で、美しくて誇らしい。
それだけで充分ではないか。
他に何を求めよう?
私はいつの間にか、やさしい眠りに堕ちていた。