青年は一人街を歩いていた。行く先など決めもせず、とぼとぼと歩く、ただ歩く。
「はぁ」
ふと溜息を吐く、冷たい息は街の喧騒に掻き消された。なんの気無しに路地裏に目を遣る。灰暗かった、まるであの頃の私の瞳の様に、入ってみようと歩を進めるが、ピタりと止まった、帰って来れるだろうか?初めて来た知らない道を進んでも。辞めた方が良いんじゃないか?もし帰って来れなかったら迷惑をかけるかもしれない___
誰にだ?
ぐるりぐるりと回る思考を一つの疑問が遮った。私が帰って来れなくても誰も迷惑しない、探しもしないし、そもそも帰る場所なんてない、探偵社からは追放されたし、マフィアには戻りたくも無い、社員寮ももう私が使って良いものじゃない、帰る場所はもう無い。ならば良いんじゃないか?このまま進んで帰れなくても、何処か知らない所に消えても。
「そうだよね」
か細く呟いて、止まっていた足音をまた鳴らす。
カツン、カツン、と淋しげに響いた音を、鼠は追いかけていた。
どれほど歩いただろうか、流石に足が痛くなってきたので少し休もうと瞳を閉ざし路地の壁に背を預けた。背から伝わる冷たさが心地良い。閉ざされた瞼から冷たい雫が溜息と共に流れ落ちる。
__嗚呼、独りぼっちだ。
脳裏で僕が呟いた、昔の僕が。
はた、と潤んだ琥珀を露わにする、滲んだ視界の端に見えた靡く黒髪に、青年は眉を顰める。
「罪悪、いつからいたの」
___フョードル。
青年がロシア帽を被った男の名を呼ぶ。ロシア帽の男、フョードルが徐に口を開く。
「君が路地裏に入る頃から、ですかね」
細められた紫水晶が青年に向けられる。
「へぇ、ストーカーがましい事をするね、私に気でもあるの?」
「、、、ふふ」
冗談のつもりで言った言葉は意味有り気な微笑みで返された、よく分からない奴だ。
「なんだいその意味深な笑み、よしてよね。それとさ、なんで付いてきたわけ?」
青年が問う、余裕そうな笑みにすこしの敵意と、隠し切れない陰を滲ませて。
「君が、泣きそうな顔をしてたから」
怯む様子も無く告げられた一言に、青年は微かに瞳孔を開いた。
「街を歩いていたら君を見かけたのですよ、近づいてみたら今にも泣いてしまいそうな顔してたので、 追いかけて来たら貴方、いきなり泣き出すじゃないですか」
それも真顔で、と続けたフョードルの紫水晶から薄汚れた地面へと視線をずらす、路地裏に差し込む光が、青年の頬の渇いた涙を写し出している。
「、、、見てたんだ」
ふふ、と渇いた笑みを零して言った。その様子にフョードルは問う。
「、、、何かありました?」
背けた顔の反対方向から問われた。青年は微かに目を見開く。
「なんで?」
掠れた声で言う。様子そうに上がった口角が諦めた様に下がる。フョードルが答えた。
「君が悲しそうにするなんて、なかなかないので」
「へぇ、、、そう」
青年が目を瞑る。ふとフョードルが言った。
「太宰君、帰らなくて良いのですか」
はぁ、冷たい息が路地の地面に落ちる。コイツになら良いかな、言っちゃっても。ふとした瞬間に浮かんだ思想を、ほんの小さな良心が否定する。コイツに打ち明けたら、探偵社はどうなる、中々に稀な異能を持つ私が欠けたと知られれば探偵社は、彼らはどうなるの。もし私が知らない所で彼らと相性の悪い異能力者を集められて襲撃されたら?彼らが不利な状況に陥ったら?誰が、誰が彼らを守るの___
僕には関係無いよ。
回る、廻る脳髄を、いつかの僕がピタリと止めた。僕が云う、脳で云う。追放された僕には関係無い、もしそんな事になったとしても、僕はわるくない、憂を晴らしただけ、愚痴を吐いただけ。そもそも、僕はやっていないと言った、だのに勝手に恐れて、怒って、怨んで、拒絶して、捨てたのは。彼奴らだ。いまさらどうなろうと知らない、興味も無い。彼との約束も、もう叶わない。彼奴らの目で、言葉で、今までの僕の努力も血も汗も、全て水の泡となった。もう、どうだって良い。
「無いよ、帰る場所なんか」
フョードルの紫水晶が微かに揺れる。
「どうしてです?君には探偵社と言う居場所が___」
「辞めた」
ポツリ、呟かれた一言がやけに路地裏に響いた。フョードルは目を伏せて青年の横顔を見る、儚げだった、触れればさらりと崩れて散ってしまいそうな程に。
「私に変装した誰かが人を殺したと通報があったんだって、国木田君達もそれを信じて『出て行け』だってさ」
かぱりと開く口から淡々と告げられる。
「がっかりしたよ、国木田君なんて二年も相棒してたのに、『お前のせいで人が死んだのだぞ』って、私じゃ無いってのに」
カツン、カツンと少しばかり離れた距離を埋める足音が青年に近づく。フョードルが青年の隣にしゃがみ込み、そっと言った。
「___太宰君、僕らと共に生きませんか?」
紫水晶を嵌め込んだ目を青年に向け、優しく、割れ物に触る様に。其の声に、青年はずらしていた琥珀をうつす。
「何それ、プロポーズ?」
悪戯に笑い、色っぽい唇に狐を描く。
「違いますよ、それはまだ先の話、、、いえなんでも、そうじゃなくて勧誘しているんです、僕の所属している組織に、天人五衰に入らないかと」
天人五衰、五人の犯罪者、それでいて異能力者で構成されたテロ組織。噂で聞いた事がある。そんな醜悪な性の人間が集まる組織に、僕が?
「どうして?君も僕の異能が欲しいのかい」
人間失格、触れた者の異能力を無効化する力。戦闘に向いている訳では無いが、実に便利な能力だ。異能を持ち生まれた者、いわば超人を、ただのヒト、無力なヒトに戻す。ヒトに戻して、ヒトとして殺す。世に知れ渡れば様々な犯罪組織の長の口から手が出る程、異能力者を殺す事に向いた能力。
テロ組織が、欲しがらない筈が無い。
「確かに君の異能は素晴らしい物です、組織としてソレが欲しい所もありますが、僕としては、異能でなくて君が、太宰君が欲しいんです」
はたりと琥珀が揺らいだ、映ったフョードルは、微かな逆光の中、微笑んでいた。
「何、チェスの相手?それかポーカー?」
「嗚呼、それも良いですね、二人きりで紅茶を飲みながらチェスをする、童話の王子と姫様の様で素敵だ」
「やめて、私に男色の趣味は無い」
「僕もですよ、ですが太宰君、君は特別なんです」
じとりと濡れた視線が肌を濡らす、冷や汗をかいていた。
「きもちわるい」
「おや酷い、ですが、あながち間違いでは無いんですよ、君は僕とよく似ている。世界に絶望して、そんな世界の中独りぼっちで居る、きっと、この苦しみを理解し合えるのはお互いだけ、互いに特別同士なんです」
気の良い笑みを顔いっぱいに浮かべ、紅潮した声で云う。青年は、なんと言えば良いか分からなかった。そんな様子を察したのか、フョードルが続ける。
「考える時間をあげましょう、一日です、じっくり考えてくださいね。」
「こんな薄汚い路地裏で一晩考えてろって?」
「嗚呼、そういえばそうでしたね」
「では僕の家においでなさい、ソファなら空いていますよ」
「ふふ、ケチ」
路地裏にて、猫と鼠は二人分の足音を響かせ、楽しそうに鳴きあった。
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