テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
コメント
1件
読了しました。今回も静かで深い回でしたね。 一番心に残ったのは、源さんが四年ぶりに口を開くラストです。「辞めさせられるのは怖くねえ」という台詞に、長年抱えてきた重みと覚悟が感じられました。凛さんが月下美人の葉を一枚だけ救ったことも、離れの北の窓辺へと差す榊さんの「使え」という短い言葉も、この物語の細やかな優しさだと思います。 あの浴室で何があったのか——次が気になります。
朝の六時半、温室の扉が、外から大きく開け放たれた。
「堂島さん、それ。そっち持って」
麗奈の声だった。
厨房の窓から見えたのは、ガウンの上にカーディガンを羽織った麗奈と、月下美人の大鉢を抱えた堂島の背中だった。
私は、エプロンの紐を結びかけたまま、勝手口を出た。
「奥様、その鉢は――」
「ここでいいわ。下ろして」
堂島が、ガレージの前の敷石に、鉢を下ろしかけた。
その手が、ふっと離れた。
鈍い音がした。
焼き物の鉢が、二つに割れた。
黒い土が、敷石の上に、扇のように広がった。
平たい葉が、何本も折れて、土の上に倒れた。
「あら、手が滑ったのね」
麗奈は、サンダルの先で、折れた葉を一枚、脇へ寄せた。
「凛さん。これ、ゴミに出しといて。根っこごと、全部」
「……かしこまりました、奥様」
凛の声で、そう答えた。
この花は、紗季さんが植えた。
私が三年、水をやった。源さんが、この一年、守ってきた。
その全部を、この人は、サンダルの先で寄せた。
堂島が、ハッカ飴を噛みながら、土の山を見下ろしていた。
鉢の底があった場所を、じっと。
何もない。
昨夜のうちに、土の下のものは、離れへ移した。あと一晩遅ければ、この敷石の上に、紗季さんの字が散らばっていた。
*
ゴミ置き場で、大きな袋に土と株を移した。
折れた葉の中から、傷の少ない一枚を選んだ。
厨房の鋏で、根元からまっすぐに切る。布巾にくるんで、エプロンのポケットに入れた。
月下美人は、葉を一枚挿せば、根を出す。
鎌倉の母の店の軒先にも、この鉢があった。母は毎年、常連さんに葉を一枚ずつ分けて、そう教えていた。
袋の口を縛っていると、背中で麗奈の声がした。
「それから、洋館のお風呂」
振り向くと、麗奈がスマホを耳に当てたまま、勝手口の柱にもたれていた。
「……ええ、二階の奥の浴室です。浴槽ごと、はがしてほしいの。タイルも、全部。……今日の午後? いいわ、来て」
電話を切ると、麗奈は私を見た。
「午後に業者が来るから。あんた、案内して」
「浴室を、壊されるのですか」
「気持ち悪いでしょ。人が死んだお風呂なんて」
麗奈は、ピンクのキーケースを指先で回した。
真鍮の、御の刻印の鍵が、ちゃりんと鳴った。
「四年、誰も入ってないのよ。ずっと閉めっぱなし」
四年。
この人は、紗季さんが亡くなった日から、ずっと数えている。
鍵を持っているのに、一度も開けない人。
和館の檜風呂まで、毎晩、渡り廊下を歩いていく人。
麗奈は、私の顔を見て、唇の端を上げた。
「何よ。お義兄さんに、言いつける?」
「……榊さんに、お伝えすることでは、ございません」
「あら、今日は『榊さん』なの」
麗奈は、くすりと笑った。
「昨日は、あんなに大きな声で、名前で呼んでたのに」
*
午後二時、業者の白いワゴンが門の前に停まった。
作業着の男が二人、工具箱を提げて降りてきた。
麗奈が、玄関ホールで待ち構えていた。
その後ろから、もう一台、黒い車が入ってきた。
榊さんだった。
左手に、白い包帯を巻いていた。
「お引き取りいただけますか」
榊さんは、業者に名刺を差し出した。
「この家の造作に手を入れるには、私の同意が要ります。今朝、家庭裁判所に、父の遺言の検認が申し立てられた。手続きが済むまで、この家のものは、何一つ動かさないでいただきたい」
「何なのよ、急に」
麗奈の声が、高くなった。
「お風呂一つよ?」
「一つでも、です」
榊さんは、麗奈を見た。
いつもの、温度のない目だった。
「それとも、あの浴室だけは、急いで壊さなければならない理由がありますか」
麗奈の手の中で、キーケースが止まった。
業者は、顔を見合わせて、工具箱を提げ直した。
白いワゴンが坂を下りていくまで、麗奈は、一言も口をきかなかった。
*
榊さんは、帰りぎわに勝手口へ回ってきた。
「朝、割れる音がしたと、源さんから聞いた」
上がり框の外に立ったまま、私の手袋の手を見た。
「拾うとき、手を切らなかったか」
七月にも、同じことを聞かれた。
破られた手紙を拾ったとき。この人は、いつも、紙より先に私の指を見る。
「切っていません。……一枚だけ、拾いました」
エプロンのポケットから、布巾の包みを少しだけのぞかせた。
平たい葉の、切り口の緑。
榊さんは、それを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「離れの北の窓辺は、一日じゅう日が当たらない。父が、絵を乾かしていた場所だ」
包帯の手で、眼鏡を押し上げた。
「使え。……あそこなら、誰にも捨てられない」
*
夕方、ムギの散歩のついでに、離れの縁側で、葉を広げた。
切り口が、少し乾きかけていた。
「三日だ」
背中で、しわがれた声がした。
源さんが、縁側の端に腰を下ろしていた。
手拭いの鉢巻きを取り、膝の上で、何度も畳み直していた。
「切り口を、日陰で三日乾かせ。それから、湿らせた砂に、浅う挿す。水は、やりすぎるな」
「……ありがとうございます」
「朝、割れたのを見た」
源さんは、私の手の中の葉を見ていた。
「紗季さんが、陽坊の生まれた年の春に植えた株だ。わしが、温室の一番いい場所を空けてやった」
榊さんが、障子を開けて出てきた。
源さんの前に、黙って座布団を一枚置いた。
源さんは、座布団には座らなかった。
縁側の板の上で、膝を揃えた。
「この前は、出ていくところだけだと言うた」
声が、低かった。
「あれは、嘘だ」
*
「四年前の秋。台風の来る前の晩だ」
源さんは、庭の暗がりの、洋館のほうを見ていた。
「十時ごろ、温室の窓を閉めに戻った。洋館の二階の奥の、風呂場の窓に、灯りがついとった。紗季さんは、いつも九時には風呂を済ます人だったで、妙だと思うた」
ムギが、源さんの足元に、そっと顎を乗せた。
源さんは、ムギの頭に、節くれだった手を置いた。
その手が、少しだけ震えていた。
「勝手口が開いて、秘書のお嬢さんが出てきた。門の外灯の下で、立ち止まってな」
源さんは、自分の両手を、胸の前で合わせた。
「ブラウスの袖を、こう、しぼっとった」
ねじるように。
雑巾を絞るように。
「肘まで、ぐっしょり濡れとった。しぼった水が、砂利に落ちる音が、温室まで聞こえた」
私は、息を止めていた。
浴室の灯り。
肘まで濡れた袖。
濡れるのは、湯船の中に、腕を入れたときだけだ。
「次の朝、警察が来た。わしは、何も聞かれんかった」
源さんの指が、手拭いを握りしめた。
「それから、何日かして。紗季さんの葬式の、次の日だ。旦那が、物置まで来て言うた。家のことを外で喋ったら、辞めてもらう、と」
「蒼真が、自分から」
榊さんの声が、低くなった。
「わしは、まだ何も言うとらんかった。何を見たかも、旦那は知らんはずだった」
源さんは、ゆっくりと首を振った。
「なのに、なんで、わざわざ言いに来たんか。わしは、四年、それを考えとった」
風が、庭の金木犀を揺らした。
甘い匂いの中で、誰も、口を開かなかった。
「今は」
源さんが、榊さんを見た。
「この家のことを決めるのは、あんただろう。遺言に、そう書いてあると聞いた」
「遺言が、そう指定している。裁判所の手続きは、まだこれからです」
「それで、十分だ」
源さんは、鉢巻きの手拭いを、膝の上できちんと畳んだ。
「もう、辞めさせられるのは怖くねえ。わしを辞めさせられる人間は、この家には、もうおらん」
皺に埋もれた目が、私の手の中の、一枚の葉を見た。
「わしはもう七十四だ。最後くらい、紗季さんのために喋らせてくれ」