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「観月会を、するわ」
火曜日の朝食の席で、麗奈が言った。
蒼真は、新聞から顔を上げなかった。
陽翔は、甘い卵焼きを箸でつまんだまま、麗奈を見た。
「十一月三日。文化の日よ。お庭に席を作って、白樺台の奥様たちをお呼びするの。多恵子叔母さまと、ミセス・グレースの葛城さんにも、もう声をかけたわ」
麗奈は、新しい付け爪の指で、カップの縁をなぞった。
「月を見ながら、お茶とお菓子。素敵でしょ」
素敵な会を開く理由は、一つしかなかった。
日曜の夜から、多恵子叔母さまの電話は鳴りやまないらしい。
御影の後妻が、前の奥さんの死んだ夜に、勝手口から出ていった。白樺台の奥様たちは、今ごろ、その話でお茶を飲んでいる。
人前で笑ってみせなければ、この人は、この坂の上で息ができない。
「凛さん、お料理とお月見団子は、全部あんたよ。お義母さまの手は借りないから」
「かしこまりました、奥様」
「好きにしろ」
蒼真は、新聞をめくった。
それから、ふと思い出したように、麗奈のほうを見た。
「お前、最近、眠れてるか」
「……え?」
「顔色が悪い。いい薬があるらしいから、今度もらってきてやるよ」
麗奈は、目をしばたいた。
それから、うれしそうに笑った。
「やだ、優しい」
私は、ポットを持つ手に、力を入れた。
*
十時、蒼真は銀行へ出かけた。
書斎の掃除は、毎週火曜の決まりだった。
窓を開け、机の上の灰皿を空ける。
吸い殻が、先週の倍に増えていた。
本棚の右端、三段目。
背表紙の並びが、一冊ずれていた。四冊目と五冊目が、逆になっている。
九月に、私が直したはずの並びだった。
扉を閉め、耳を澄ませた。
家の中は、静かだった。麗奈は和館の客間、お義母さまは仏間。
医療用の手袋の上に、白い木綿の手袋を重ね直す。
本を五冊抜き、奥の板を押した。
隠し引き出しの中に、黒いUSBと、練習紙の束。
その上に、見覚えのない封筒が一つ、のっていた。
生命保険会社の、青い封筒だった。
中の書類を、指先で引き出した。
保険契約申込書、控え。
被保険者、御影麗奈。
死亡保険金受取人、御影蒼真。
保険金額、一億円。
日付は、十月二十日。
紙を持つ指が、冷たくなった。
被保険者の署名欄に、御影麗奈、とあった。
麗奈の字ではなかった。母子手帳に並んでいた、あの丸い字とは似ても似つかない。
横の線が、全部、右上がりの字だった。
練習紙の束をめくった。
一番新しい紙に、御影麗奈、御影麗奈、と、十何行も並んでいた。
去年の今ごろ、同じ引き出しの中で、同じことが起きていた。
被保険者、御影澪。二億円。
右上がりの字で、私の名前が、何度も何度も練習されていた。
その一か月後に、私の車のブレーキは、効かなくなった。
私は、スマホを出した。
シャッターの音は、とうに切ってある。申込書を一枚、練習紙を一枚。
元の通りに戻し、本を五冊、元の順に並べた。
四冊目と五冊目は、逆のまま。
*
昼過ぎ、ムギの散歩の時間に、離れへ寄った。
榊さんは、写真を拡大して、長いあいだ黙っていた。
包帯の左手を、卓袱台の上に置いたまま。
「一億」
「私のときの、半分です」
「会社の金は、もう尽きている。保険金の二億も、春のうちに消えた」
榊さんは、画面を伏せた。
「審査が通れば、来月には効力が出る」
来月。
十一月。一周忌の月。
「麗奈は、紗季さんを殺したかもしれない人です」
自分の声が、ひどく平らに聞こえた。
「源さんの話を聞きました。缶の中の字も読みました。あの人は、裁かれるべき人です。……でも」
卓袱台の木目を、手袋の指でなぞった。
「私が黙っていて、ある日、あの人の車のブレーキが効かなくなったら。私は、それを知っていて、黙って見ていたことになります」
榊さんは、何も言わなかった。
「それは、旦那様と同じです。誰かが死ぬのを、自分の得のために待つのは」
一年前、私の名前の書類を作った人と。
私が死ぬのを、指折り数えて待っていた人と。
「私は、あの人と同じには、なりません」
榊さんは、長く息を吐いた。
「麗奈に言えば、麗奈は蒼真に詰め寄る。蒼真は、誰が書類を見たのかを考える。……書斎を掃除するのは、誰だ」
「私です」
「あなたに、行き着く」
「わかっています」
榊さんは、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「あなたは、また、自分に一番不利なやり方を選ぶ」
「選びます」
麗奈は、黙っていられない人だ。
聞いたら、その足で、書斎へ行く。
そして、書斎の声は、竪穴を伝って、厨房へ降りてくる。
「言うのは、今夜にします。旦那様が、家にいらっしゃるときに」
榊さんは、眼鏡をかけ直した。
私の顔を見て、それから、手袋の手を見た。
「一つだけ、約束してくれ」
「はい」
「あの二人の部屋に、一人で入るな。言ったら、すぐに厨房へ戻れ。リフトのそばに」
この人は、私が何を考えているのか、もうわかっている。
「それから」
榊さんは、私の手袋の甲に、包帯の手の指先を、ほんの一瞬だけ重ねた。
「自分を殺そうとした男の妻を、助けると言う人は、そう多くない。……俺は、そういう人を、一人しか知らない」
*
夕方六時、蒼真が銀行から戻った。
厨房に下りてきたとき、ネクタイがゆるんでいた。
冷蔵庫を開け、炭酸水の瓶を一本出して、そのまま口をつけた。
「凛さん」
瓶を配膳台に置く音が、少し大きかった。
「兄さんの離れには、毎日、行ってるんだな」
「ムギの散歩と、離れのお掃除に。朝と夕方に、三十分ずつでございます」
「知ってるよ。兄さんが、母さんに頼んだんだろう。金まで払って」
蒼真は、配膳台に片手をついた。
左の手首で、私が贈った腕時計が、蛍光灯の光をはね返した。
「日曜の、あれは何だ」
「……あれ、と申しますと」
「兄さんの名前を、あんな声で呼んだ」
蒼真の目が、私のスカーフの結び目に止まった。
「君は、澪の最期を見た人だ。あの晩のことは、何も覚えてないと言った。……兄さんには、何を話してる」
「何も、覚えておりません、旦那様」
凛の声で、そう答えた。
覚えている。
あなたが受話器の向こうで笑った声も、十三段目の軋みも、燃えるガラスの匂いも。
蒼真は、しばらく私の顔を見ていた。
それから、炭酸水の瓶を持ち上げて、えくぼを作った。
「そうだよな。……覚えてたら、君は、こんな家で働いてないよな」
瓶の口から、細い泡が上がって、消えた。
蒼真は、階段を上っていった。
十三段目は、鳴らなかった。
*
夜十時。
陽翔は、八時に眠った。
ぴょんたの耳を握ったまま、私の耳を二回叩いてから。
厨房を出る前に、配膳リフトの扉を、指一本ぶんだけ開けておいた。
二階の書斎で椅子が軋む音が、竪穴を伝って、かすかに降りてきた。蒼真は、まだ起きている。
和館の客間の前で、膝をついた。
盆の上に、ホットミルクを一つ。麗奈が、毎晩寝る前に言いつけるものだった。
「奥様。お持ちいたしました」
襖が開いた。
麗奈は、パジャマの上にガウンを羽織っていた。
付け爪の指で、スマホの画面を、観月会の招待客の名前でいっぱいにしていた。
「そこ置いて」
私は、盆を畳の上に置いた。
それから、手をついたまま、顔を上げなかった。
「何よ。まだ何かあるの」
麗奈は、私を見下ろしていた。
私の頭の上で、甘いローズの香水が、重く匂った。
この人を、私は許していない。
紗季さんのことも。墓の名前のことも。陽翔の手を叩いたことも。
それでも。
「奥様。旦那様は、奥様に一億円の保険をお掛けになりました」
麗奈の手の中で、スマホが止まった。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「……前の奥様と、同じように」
草原草原

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都築七美
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赤井 里会
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コメント
1件
読み終わった……胸がぎゅってなった。 凛さん、見つけちゃったんだね。あの封筒。そして「黙って見ていることは、旦那様と同じになる」って自分の手で選んだことに、すごく心が震えた。榊さんが「そういう人を一人しか知らない」って言ったとき、じんわりきた。 一晩でここまで深くなる話、なかなかないよ。次の展開が気になって仕方ない……凛さんが無事でいてほしい。