「あははははっ! この漫画すっごく面白い!」
放課後。
勉強を教えるという名目で呼ばれたはずなのに、部屋に入るや否や、葵はすぐに床に寝っ転がりながら漫画を読み耽って完全に伸び伸びモード現在進行系。
葵、なんて自由な子。
「……ね、ねえ葵? 本当はお前、勉強する気全くないんじゃないの?」
「そんなことあるわけないじゃん。私、今もちゃんと勉強してるもん」
「勉強? どこが? 漫画読んでるだけにしか見えないんですけど」
葵は人差し指を左右に動かして「チッチッチッ」と指を左右に動かすジェスチャーを見せた。な、何? そのリアクション。
「分かってないなあ憂くん。私は今ね、人生のお勉強中なの」
「人生のお勉強中?」
「そう、その通り! あのね、漫画ってね、意外と馬鹿にできないんだよ?」
「はあ」
「人生についてだとか、社会に出る前に人として覚えておかないといけないことだとか、色んなことを教えてくれるの。道徳ってやつなのかな? だから憂くんも一緒にお勉強しようよ? ていうかさ、これ本当に面白いんだけど! あははっ!」
いや、葵さあ。お前が今読んでるのはお下品なギャグ漫画だから、そんな道徳やらなんやらは読んでても絶対に何も学べないと思うんだけど?
仮に学べるとしたら、ギャグセンス? あと下ネタ? 下ネタを言いまくる幼馴染の女の子とか、すっごく嫌すぎるんですけど。
このままじゃ駄目だなあ。うん。ちょっと厳しい現実を突き付けるとしよう。
「あのさ、葵? 今のままだと人生云々の前に、確実に留年することになると思うんだ。もちろん、大学に行くこともできないと思う。だから、その『学んだこと』を発揮する機会もないと思うんだけど」
「……え?」
「あ、いや、そうでもないのかな? 高校中退になったらすぐに社会に出ることになるわけだもんね。うんうん、なるほど。そのための漫画でお勉強ってことでしたか。さすがは葵様。それじゃあ、人生のお勉強頑張ってね。で、中退して社会に出たらお仕事頑張ってね」
さっきまで読んでいた漫画をぱたんと閉じて、少し俯いた刹那――
「ごめんなさい憂くーん! 違うの、現実逃避してただけなの! だからお願いします! あだじを……あだじをだずげでぐだざい〜!」
ボロボロと泣き始めた葵だった。だけど、最後の方は涙声になって上手く言葉になってないんですけど。
『女の涙は美しい』とよく言われるけど、ここまで美しくない涙、初めて見たよ。鼻水まで流してるし。顔ぐしゃぐしゃだし。
全く。せっかくの美人が台無しじゃん。
「あはははっ」
「ど、どうじでわらゔの〜〜」
やっぱり小さい頃から変わっていないんだな、葵は。子供がそのまま成長しちゃったって感じで。思い出しながら見てたらついつい笑っちゃったよ。
でも、変わってない、か。
――もしかしたら、変わったのは僕なのかもしれないな。
* * *
「あ、あの、憂先生……救護班を呼んでください……」
葵はローテーブルに突っ伏したまま、完全に動かなくなってしまった。どうやら深手を負ってしまったらしい。
でも、勉強を始めてからまだ一時間も経ってないんだけど……。めっちゃ弱いね。ドラクエのスライムみたい。むしろ、スライムの方が根性あると思う。
なんて考えてたら、葵は力なく立ち上がって、そのままふらふらと部屋から出て行こうとしていた。
「葵? どこに行くの?」
「お、お風呂入ってくる……」
そう言い残し、パタンと部屋のドアを閉めて出て行ってしまった。
が、しかし。
「あ、危なかった……」
九死に一生を得た気分だった。
何故なら、勉強を教えている間、葵がちょこちょこと僕の隣まで来てピッタリと体を合わせてきたりしてたからに他ならない。そっちの方が確かに教科書を一緒に読みやすいし、教えやすいのは確かなんだけど。
「心臓、すごく速く動いてる……」
一応、葵には気付かれないように冷静を保ってみせてはいたけど、僕は限界ギリギリだった。心に計測器があったとしたら、針が振り切れる寸前。
「なんでアイツは平気なのかな……」
制服から部屋着に着替えていた葵は、太ももがあらわになる短パン姿だったんだけど、それが僕の足に密着してきたせいで、葵の体温が伝わってきていた。その上、アイツの太ももの柔らかさまで感じられた。
正直な話、僕の理性はもう少しで飛んでしまうところだった。
「これが一ヶ月間も続くだなんて、ただの苦行じゃん……」
やっぱり僕は、葵にとってただの幼馴染にすぎないんだなあ。脈もなければ男としても見てもらえないなんて、悲しすぎる。でも、それを痛感させられちゃったよ。
そんなことを考えていたら、またウジウジモードに突入しそうだったから、僕は気を紛らわすために一度立ち上がり、何度も深呼吸。
「ふう。タイミング的に助かった」
そして、少し落ち着いたところで部屋のぐるりを見渡した。これまで何度も見てきた部屋のはずなのに、初めて来たような不思議な感覚を覚えながら。
ピンク色を基調にした、女の子らしい部屋。それは今も昔も変わらない。唯一変わったことがあるとすれば、本棚に少女漫画がたくさん並べられていることくらい。
――少女漫画?
少しだけ、違和感を覚えた。確かに葵は小さい頃から漫画が大好きで、よく読んでいたのは知ってる。でも、それらのほとんどは少年誌の漫画で、バトルものやギャグものの漫画だったはず。
好みでも変わったのかな?
「じゃーん! 葵ちゃん復活ー! 憂くん、見て見て!」
お風呂から出てパジャマ姿で戻ってきた葵はくるくると回ってみせた。まるで、幻想的で夢幻的な舞いを見ているような、そんな錯覚を覚えた。
そして、たった一目見ただけで、僕の心時計が止まった。
完全に、その姿に見惚れてしまったんだ。
お風呂で温まったせいで頬は紅潮して、いつも以上に色気を醸し出していた。それに、まだ半乾きの艶やかで長い黒髪をゴムで纏めているから、うなじが見えている。それがまた、僕の感情のスピードを一気に上げた。
もはや自分自身では制御できなくなる程にまで。
それに、良い香りがする。シャンプーの香りだろうか。花のように甘くて優しい香りが部屋いっぱいに広がっていく。
まるで蜜のような、そんな香りだった。
「どうしたの憂くん? ボケーッとして」
「あ、いや、な、なんでもないよ……」
「そかそか。それなら良し!」
腰に手を当てて、笑顔で胸を張った葵であった。ふう、危ない。大丈夫、これは気付かれてないな。葵に見惚れてたことが。
でも、さっきのアレが気になって仕方がない。うん、ちょっと訊いてみよう。
「ねえ葵? ちょっと訊きたいことがあるんだけどいいかな?」
「どうぞどうぞ。なんでも訊いてくれたまえよ。勉強以外なら教えてあげる。それとも、私のパジャマ姿に見惚れちゃって興味持っちゃったりしたとか?」
見惚れちゃってたのはまさに図星なんだけど、どうしてだろう。何故かこの時の僕はやけに冷静だった。いつもだったら懸命に誤魔化そうと慌てるはずなのに。
「あのさ、葵も恋愛に興味あったりするの?」
その途端、葵は急に顔を真っ赤にした。
「な、な、何の話しかな!?」
「いや、今まで気付かなかったんだけど本棚の中にあるやつ。ほとんどが恋愛ものの漫画だったから。前に言ってたじゃん? 恋愛にあんまり興味ないって。でも、もしかしたらそこら辺が変わったのかなあって」
「そ、そんなことないよ? え、えーと……ああー! そうそう! ほ、ほら。さっき言ったでしょ? 漫画って人生のお勉強だって。えーっと、な、なんて言えばいいのかな? 女子の嗜みってやつ? そ、それにそれ、ただの興味本位だから! 恋愛に興味を持ってるわけじゃないから! あくまで人生勉強の一貫だから!」
上手く言い繕ったつもりみたいだけど、葵って相変わらず嘘をつくのが本当に下手だな。頭の中も心の中もだだ漏れじゃん。
でも、やっぱりそうなんだ。
興味本位だと言っているけど、葵もついに恋愛に興味を持ち始めたってわけか。だけど、これ以上深く訊くのはやめておこう。ブーメランになって、僕に返ってくることになりかねない。
いや、それだけじゃない。興味を持ち始めただけではないはず。僕は恋愛対象として見られてないわけだから外すとしても、つまりは葵に好きな人ができたってことだよね。葵は僕以外の誰かを好きになったんだろう。
至極当たり前のことなんだけど、やっぱり悲しいな。
「じゃ、じゃあ憂くん。そろそろ晩御飯にしよっか!」
いつも通りの笑顔の葵に戻ったところで晩御飯の話が出てきたわけだけど、ん?
「べ、勉強は? というか、僕も一緒に晩御飯を食べるの? 家に帰ってから食べてもいいと思ってたんだけど」
「なんで? 今日泊まっていくのに?」
な、なんだって!?
「い、いや、と、泊まるのはちょっと……。きょ、今日は申し訳ないけど帰るよ。着替えも持ってきてないし――って、なんで僕の着替えを手に持ってるの!」
「フッフッフッ。葵さんを舐めちゃいけませんなあ。こういうことになるのを見越して、憂くんのお母さんから預かってきていたのです! 憂くんと違って、私はしっかりしてるから当然か。あはははっ!」
無邪気に笑う葵だったけど、しかし、母さんよ。
僕にそれをちゃんと報告しておいてよ!!
『第3話 二人きりのお勉強会【2】』
終わり
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