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128
二月。要とつむぎが、川と山を回って木曽に戻ったとき、峠の小屋に、客がいた。
塩尻峠の若い男だった。封鎖の、二十人のうちの一人。似顔絵を持っていた男。証で味噌を買った男。
男は、机の前に、座っていた。黒い作業着を、着ていなかった。
「……封鎖は」要は聞いた。
「続いてる。十九人で」男は言った。「おれは、抜けた」
「抜けた?」
「御殿を。三日前」
要は、男の前に座った。つむぎは、戸口で、男の顔を見ていた。
「なぜ」
男は、しばらく黙ってから、言った。
「権田さんが、倒れた」
小屋の中が、静かになった。
「一月の終わりだ。東京で。倒れて、三日、目を覚まさなかった。四日目に、覚ました。でも、左手が、動かない。しゃべるのも、遅い。医者はいない。大剥離の前の医者は、東京の御殿に二人いたが、薬がない」
「……生きてる」
「生きてる。でも、権田さんじゃない。三千人の顔を、毎日見てた目が、半分、閉じてる」
要は、何も言えなかった。
一年前、川沿いの倉庫で、要は権田に聞いた。『あなたが倒れたら、誰が決めるんですか』。権田は、『そのときは、そのときだ』と言った。二ヶ月前、峠で、権田は、『三冊が残る』と言った。
そのときが、来た。
「三冊は」要は聞いた。
「ある。でも、三人は、権田さんの命令で書いてた。権田さんが命令できなくなった。三人は、何を書けばいいか、わからなくなった。一人は、自分で決め始めた。一人は、権田さんの枕元に行って、指示を待ってる。一人は、辞めた」
「御殿は」
「割れてる。東京の御殿の中で、三千人が、三つに割れてる。自分で決める男についた者。権田さんの枕元の男についた者。どっちにもつかない者。甲府と塩尻と松本は、東京から、指示が来ない。それぞれの御殿の、それぞれの隊長が、勝手に決め始めた」
「名古屋の御殿は」
「知らん。でも、東京が割れてるのは、名古屋にも、伝わる。伝わったら、来る」
男は、立ち上がった。
「おれは、塩尻の隊長が、『木曽の村を、三割、取る』と言い始めたのを聞いて、抜けた。権田さんは、『取らん』と言ってた。米はお前らのものだと。隊長は、権田さんじゃない。権田さんがいない御殿に、おれは、いる理由がない」
「それで、ここに」
「証を、十一枚、持ってる。味噌を買った残りだ。市の台帳に、おれの名前がある。顔の人が、覚えてる」男は、つむぎを見た。「御殿の台帳には、たぶん、もう、おれの名前はない。抜けたから、バツだ。残ってるのは、ここの台帳だけだ」
要は、男を見た。
権田の弱点は、権田だった。一年前から、要は、それを知っていた。権田が倒れたら、御殿は止まる。要は、それを、権田に言った。権田は、三冊を作った。でも、三冊は、権田の目の写しだった。目が閉じたら、写しは、新しい判断をしない。
要は、正しかった。正しかったことが、少しも、嬉しくなかった。
「……権田さんは、どこに」
「東京。川沿いの倉庫。あんたが、一年前に行った場所だ」
*
夜、要は、大畑と、隣村の長に、話した。
「御殿が、割れた。権田さんが、倒れた。塩尻の隊長が、木曽の米を三割取ると言ってる」
「来るか」大畑が言った。
「来る。たぶん、春に。雪が溶けたら」
「十九人で」
「十九人と、塩尻の三百人のうちの、何人か。わからない」
隣村の長が、言った。
「権田がいれば、二割で、守ってくれた。権田がいなくなって、三割、取られる。入っておけばよかった」
「入ってても、同じでした」要は言った。「権田さんが倒れたら、御殿の五つ目の村も、隊長が勝手に決める。入っても、入らなくても、権田さんがいなくなった御殿は、同じです」
「じゃあ、どうする」
要は、壁の十二条を見た。
「御殿は、権田さんの顔で持ってた。顔が閉じて、割れた。市は、四つの村の顔で持ってる。一人が倒れても、三人が残る。それが、市が御殿より、長く持つ理由だった。今、それが、本当かどうか、試される」
「試される」
「はい。御殿は、権田さんなしで、回るか。市は、僕なしで、回るか。両方、試される」
「お前なしで?」大畑が言った。「お前は、ここにいる」
「ここに、いません」要は言った。「東京に、行きます」
大畑が、要を見た。
「何をしに」
「権田さんに、会いに。倒れた権田さんに。それと、鷺沼に。瑠衣が、そこにいる。ゼロの向こうに、顔がある。それを、見に」
「御殿が、割れてる東京に、一人で」
「一人じゃないです。つむぎが来る。たぶん。それと、商店街の会長と、一ノ瀬さんが、東京にいる。一年前に、台帳を残してきた。あれが、どうなってるか」
大畑は、長い間、黙っていた。
「……市は、どうなる」
「回ります」要は言った。「三冊は、ひかりと孫と大畑さんが書ける。組合は、六人で決められる。為替は、五人で。掟は、壁にある。壁には、番号がある。ばあさまは、川で五つ目の村を見つけた。僕がいなくても、回る。一年、そのために作ってきた」
「回らなかったら」
「回らなかったら、僕の仕組みは、権田さんの御殿と、同じだったということです。一人の顔で持ってた。それなら、潰れていい」
大畑は、要を、長い間見ていた。それから、言った。
「……行け。帳面は、おれが書く」
要は、頭を下げた。
外は、雪だった。塩尻峠の上に、松明が、十九本、揺れていた。一本、減っていた。
コメント
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第55話、読み終わりました。権田が倒れたことでじわじわと崩れていく御殿の構図、重かったです。「権田の弱点は権田だった」という一文が鋭く響きました。要が一年前から見抜いていたことが、本当にその通りになってしまった。正しさが少しも嬉しくない、ってそりゃそうだよなあ……と胸が苦しくなりました。 同時に、市は要抜きでも回るように設計してきたという宣言に、伏線が回収される手応えを感じます。鷺沼・瑠衣・ゼロの向こうの顔——この先がどうなるのか、引き続き読ませていただきます。しっかりとした世界の設計が光る回でした。草原草原さんの構築するこの世界、やっぱり好きだなあ。