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お久しぶりです。連載系がOKかまだコメントされてないので、読み切りを上げます。
夕陽が昇り 俺が笑う
第一章 静かな放課後
放課後の教室には、ひと気がすっかり消えていた。誰もいない空間に、微かに残ったチョークの匂いと、机を引きずった音の余韻だけが漂っている。
教室の一番奥、窓際の席に座る高橋翔太は、肘をつきながらぼんやりと空を眺めていた。西の空はゆっくりと赤く染まり、まるで燃えるような光がガラス越しに差し込んでいた。静けさの中で、秒針の音だけが時計のように時を刻む。
彼は手元のノートに、無意味な線を引いていた。罫線を越えて交差する直線。それが文字になることはない。ただの時間潰し。いや、時間の蓄積か。
毎日、同じ時間。誰とも話さず、誰とも約束せず、ただ夕陽が沈むのを見送る。その理由を翔太は誰にも話したことがない。
小学生の頃、妹の沙耶が病院のベッドから見た夕陽を見ながらこう言った。
「ねぇ、お兄ちゃん。夕陽が昇る日が来たらさ、また一緒に遊んでくれる?」
「夕陽は沈むんだよ、昇らない。」
「じゃあ、沈んでも昇るまで待ってて。」
意味のわからない会話だった。だが、それが最後の約束だった。
沙耶は翌週、息を引き取った。
それから翔太は、「夕陽が昇る日」を探すように毎日夕方の空を見上げるようになった。
奇跡なんて起きない。わかっている。それでも、あの時間だけは、彼の心にぽっかり空いた空洞を満たすのに必要だった。
だが、この日、その静けさが破られる。
「……そこ、よく座ってるよね?」
背後から聞こえた声に、翔太はゆっくりと振り返った。
そこには、見慣れない少女が立っていた。
第二章 転校生
翌朝の朝礼で、教師が紹介した転校生。それが、昨日声をかけてきた佐藤美咲だった。
「佐藤美咲です。前の学校では吹奏楽部に入ってました。よろしくお願いします!」
明るい笑顔、透明感のある声、そしてどこか人を惹きつける雰囲気。教室の空気が一気に和やかになるのが感じられた。
そのとき、翔太は何故か胸の奥が少しざわついた。
前の席に座った彼女は、振り返りながら小さく囁いた。
「昨日の続き、また今日の放課後にね。」
翔太は返事をせずに、視線を黒板へ戻した。けれど、彼女の声は耳に残り続けた。
───
放課後。翔太はいつものように教室の隅の席に座り、ノートを開いていた。今日の夕陽は薄雲に覆われて、どこかぼやけた光だった。
「やっぱり、いた。」
美咲が教室に入ってきた。制服のリボンを少しだけ緩めて、翔太の隣に腰を下ろす。
「君、いつもここにいるの、なんで?」
唐突な質問に翔太は少し眉をしかめたが、答えた。
「…理由なんてない。ただの習慣。」
「ふーん。」
美咲は頷きながら、窓の外の夕陽を見た。
「私、夕陽って、どこか懐かしい感じがするんだ。あったかくて、でも少しだけ寂しくて。」
翔太の胸がまた、ざわついた。
「君もそう思わない?
「……昔、妹と見た。夕陽。」
「妹さん?」
「もういないけどな。」
そう答えると、美咲は一瞬だけ表情を曇らせた。だがすぐに、にこっと微笑み、「そうなんだ」とだけ言った。
沈黙が教室を包む。だが、その沈黙は不快ではなかった。むしろ心地よかった。言葉がなくても、通じ合えるような不思議な空気。
チャイムが鳴る頃、美咲が立ち上がる。
「じゃあ、また明日も見に来るね。」
「なんで?」
「理由なんてない。ただの直感。」
翔太は思わず微笑みそうになった。
夕陽は沈んでいく。しかしその光景が、昨日までとは少しだけ違って見えた。
第三章 ゆっくり近づく距離
それから、美咲は毎日のように放課後の教室へやって来るようになった。
最初はただ「また来ちゃった」と笑って隣に座るだけだったが、次第に彼女はおしゃべりをするようになった。話題は取り留めもなく、昼休みに食べたパンの味や、今日の授業で先生が噛んだ言葉についてなど、まるで小さな波のようなやり取りだった。
翔太はそれに特に応えることなく、ただ静かに頷いたり、時折一言、返したりするだけだった。しかし、彼の中で何かが少しずつ変わっていくのを、本人も薄々感じていた。
この教室は、ずっと彼だけの時間だった。
それが、今はもう一人分の温もりで満たされている。
夕陽が窓ガラスに反射し、美咲の頬に柔らかな赤を映したその日、翔太はふと問いかけた。
「なんで、こんなところに毎日来るんだ?」
美咲はその問いに驚いたような顔をして、そしてふっと微笑んだ。
「うーん……理由なんて、ないかもしれない。でも、何となく、君が一人でいるのが寂しく見えたから。」
「俺が、寂しく見える?」
翔太は思わず笑ってしまった。自分がそんな風に思われていたとは。
「ちょっと失礼だったかな?」
「いや、そうかもな。寂しいのかもしれない。」
正直なその言葉に、自分でも少し驚いた。
美咲は黙って翔太の横顔を見ていた。何かを探るように。だが、何も聞かずにただ頷いた。
「それなら、少しでも寂しくないように、私がそばにいてあげるよ。」
そう言って、彼女は柔らかく笑った。
その笑顔を見て、翔太は急に胸が詰まった。どこかで見たことがある。懐かしくて、暖かくて、それでいて、どこか切ない微笑み。
——あれは、沙耶の笑顔に似ていた。
───
ある日の放課後、美咲が教室ではなく屋上に翔太を誘った。
「ねえ、今日はこっちで見ようよ。風、気持ちいいから。」
翔太は少し迷ったが、彼女の瞳に押されて階段を登った。
屋上から見える夕陽は、教室から見るよりもずっと広く、空のグラデーションがはっきりと目に飛び込んでくる。茜から朱へ、そして紫へ。
「ねえ、翔太くん。夕陽ってさ、なんでこんなに綺麗なんだと思う?」
「……終わりが近いからじゃないか?」
「終わり?」
「一日の終わり。人間って、終わりの美しさに惹かれるんだよ。たぶん。」
その言葉に、美咲は静かに頷いた。
「じゃあ、始まりの美しさって、どこにあるんだろうね。」
翔太はその言葉にしばらく黙った。
始まりの美しさ。
それは、妹が亡くなった日からずっと彼の中で失われたままだった。あの日以来、何かを「始める」勇気がなかった。新しい友達も、新しい感情も、新しい日常も。
しかし今、隣にいるこの少女が、少しずつ彼の世界を変え始めている。
ふと見ると、美咲が夕陽に向かって目を閉じていた。
まるで、何かを思い出そうとしているような、不思議な表情。
翔太は声をかけようとして、やめた。
この静かな時間を壊したくなかった。
───
その夜、翔太は久しぶりに夢を見た。
まだ幼い沙耶が、笑っている夢だった。彼女は言った。
「もう少しで、わかるよ。『夕陽が昇る』って、そういうこと。」
翔太は夢の中で、ただそれを聞いていた。
何かが、ゆっくりと繋がっていく気がした。
第四章 約束の言葉
季節は少しずつ秋へと傾き、文化祭の準備に学校全体がざわめき出していた。
翔太のクラスでは劇をやることが決まり、生徒たちは脚本と配役に頭を悩ませながらも、どこか浮かれた様子だった。
「ヒロインは……佐藤美咲がいいんじゃない?」
誰かがそう提案すると、教室が一瞬ざわつき、しかしすぐに多くの賛同が集まった。
「え? わ、私が?」
美咲は慌てて首を振ったが、クラスの空気はすでに固まっていた。翔太はその様子を、後ろの席から無表情に見ていた。
「じゃあ、相手役はどうする? 王子様的な立ち位置の役だろ?」
「高橋、やれよ。」
思わぬ名前の呼びかけに、翔太は目を見開いた。
「は?」
「無口で落ち着いてるから、ぴったりだろー?」
冗談めいたその言葉に、クラスの一部が笑ったが、どこか本気の空気もあった。
「どうする、高橋?」
翔太は、ふと隣の美咲を見た。
彼女は困ったような顔をしていたが、それでもどこか「やってほしい」と言っているような目だった。
翔太は一度だけ深く息を吸って、ぽつりと答えた。
「……わかった。」
その瞬間、美咲の顔がふわりと明るくなった。翔太はそれを見て、胸の奥が少しだけ熱くなった。
───
放課後の練習が始まり、翔太と美咲はほぼ毎日のように台本を読み合った。
翔太は演技に不慣れで、最初はセリフも棒読みだったが、美咲は根気よく付き合ってくれた。
「違う違う、王子様ってもっとこう、優しさがにじみ出てる感じじゃない?」
「俺、そんなキャラじゃない。」
「じゃあ、翔太くんっぽい王子様でいいよ。……あ、それなら完璧かも!」
いたずらっぽく笑う美咲に、翔太は思わず目をそらした。
だが、不思議と悪い気はしなかった。
劇の練習を通して、翔太は初めて「誰かと一緒に何かを作る」喜びを知った気がした。沙耶が亡くなってから、自分が何かに一生懸命になることなどなかった。
そんな日々の中、ある日、美咲が突然ぽつりと呟いた。
「……ねえ、翔太くん。」
「ん?」
「もしも、夕陽が昇る日が来たら、何ができると思う?」
夕陽の色に染まった教室での、静かな問いかけだった。
翔太は少し考えてから、答えた。
「……笑えると思う。」
「笑える?」
「心から、ちゃんと笑えると思う。……たぶん、そういう日が来たら。」
沈黙が流れた。
美咲は、じっと翔太の目を見つめていた。そして、ふと視線を逸らす。
「……そうだね。私も、そう思う。」
そう言って、美咲は小さく笑った。だがその目元には、ほんの僅かに涙が浮かんでいた。
翔太はその涙に気づいたが、何も言わなかった。
なぜ泣いたのか、訊くべきかどうかもわからなかった。ただ、彼女が大切な何かを心に抱えていることだけは、はっきりと伝わってきた。
──―
文化祭当日。
クラスの劇は予想以上に好評だった。美咲の演技は堂々としていて、翔太の言葉少ない王子様像も「ハマってる」と好評だった。
終演後、拍手に包まれる中で翔太がふと美咲を見ると、彼女は少し涙ぐんだ目で、でも幸せそうに笑っていた。
まるで、長い間待っていた瞬間を迎えたような、そんな表情。
その姿を見て、翔太は不意に胸をつかまれたような気がした。
「……お疲れ。」
「うん……ありがとう。翔太くん。」
彼女は何かを言いかけたが、結局そのまま言葉を飲み込んだ。
翔太は、それ以上訊かずにただ、彼女の肩にそっと手を置いた。
自分が誰かの「支え」になるという感覚を、翔太はそのとき初めて知った。
そして同時に、彼女が自分にとって、どれだけ大きな存在になっていたかを思い知らされた。
——翔太の中で、何かがゆっくりと始まろうとしていた。
第五章 秘密
文化祭の余韻がまだ学校中に残っていた。成功の喜びと疲れが入り混じり、どこか皆が浮き足立っていた。
しかし、翔太の心にはひとつ、妙な違和感が残っていた。
あの劇のあと、美咲が急に「また明日」と言わず、ただ笑って去っていったこと。
その笑顔が、なぜか「さよなら」にも見えたこと。
翌日、美咲は学校に来なかった。
担任に尋ねても、「体調を崩したらしく、しばらく休むそうだ」とだけ言われた。
それはどこか、曖昧で、隠しごとのような口ぶりだった。
翔太は落ち着かない気持ちのまま、また教室の窓際に座った。
夕陽が、いつものように、ゆっくりと沈んでいく。
隣の席は空っぽだった。
その静けさが、やけに寒々しく感じられた。
───
その夜、自宅に戻ると、玄関先に一通の封筒が置かれていた。
宛名は、翔太の名前。差出人は書かれていなかったが、見覚えのある筆跡に翔太の胸が騒ぐ。
中には、手紙と、一枚の写真。
写真には、幼い翔太と沙耶が写っていた。夕陽の中、病室の窓際で笑う二人。
その隣に、もう一人――少し成長した美咲のような少女が写っていた。
翔太は震える指で手紙を広げた。
翔太くんへ
ごめんね。突然いなくなって。
でも、どうしても伝えておきたくて、この手紙を書いています。
本当の名前は――沙耶。あなたの妹の、沙耶。
驚いたと思う。信じられないよね。
あの日、私は確かに事故に遭った。病院では「助からない」と言われた。でも……不思議なことが起きたの。
目が覚めたとき、記憶があいまいだった。名前も忘れていて、違う家に引き取られていた。
名前は“佐藤美咲”として、新しい人生を歩んでいたの。
でも、ある日。記憶が少しずつ戻ってきたの。
そして、翔太くんの名前。あの夕陽の約束。全部が、夢の中で何度も、何度も浮かんできた。
だから――探したの。君のことを。
「夕陽が昇る日」って、あれは“私がまた君に会える日”のことだったんだって、思った。
ごめんね。全部を打ち明ける勇気がなかった。でも、一緒に夕陽を見て、劇をして、笑い合って。
その時間だけで、私は十分幸せだった。
そろそろ、また遠くに行かないといけない。
けど、どうか、君は前に進んでください。
私は、ずっとそばにいるから。
夕陽が昇る日。それは、
悲しみが過去になり、希望が君の中に芽生える日。
どうか、笑って。
——沙耶より
翔太は手紙を読み終えると、目を閉じた。
胸の中が静かに、でも確かに波打っていた。
美咲の言葉の一つひとつが、今になってすべて繋がった。
なぜ自分にだけ距離を詰めたのか。なぜ夕陽にこだわったのか。
あの「懐かしさ」の正体は、初めからずっとそこにあった。
翔太は震える手で写真を持ち直した。そこには、確かに「今の美咲」が写っていた。
少し幼く、でもあの笑顔は間違いなく沙耶のそれだった。
「……なんで、今なんだよ。」
声が、自然に漏れた。涙が、音もなく頬を伝った。
だけど、次の瞬間。翔太は静かに空を見上げた。
窓の外には、沈みゆく夕陽が最後の光を放っていた。
その赤い光が、彼の瞳にまっすぐ差し込む。
そのとき翔太は、かすかな確信を得た。
――彼女は、もう一度、約束を果たしに来てくれたのだ。
そして今度は、自分が彼女に応える番だ。
翔太はそっと目を閉じて、心の中で呟いた。
「ありがとう、沙耶。ちゃんと……前に進むよ。」
最終章 そして、笑った
あれから翔太は、毎日、夕陽が沈む時間になると屋上へ足を運ぶようになった。
前と同じように、ひとりで。
でも、決定的に違っていた。
彼の心は、もう空っぽではなかった。
時折、風の中に美咲――いや、沙耶の声を感じる気がした。
それは思い込みかもしれない。でも、翔太はそれを信じたかった。
自分の中に、確かに「彼女がいた」時間があるということ。
あの夕陽の中で、二人で過ごした日々は、幻なんかじゃない。
それがたとえ、ほんのひとときの再会だったとしても――。
───
十一月の風は冷たくなってきたが、空気は澄んでいて、夕焼けは一層鮮やかだった。
翔太は屋上のフェンスに寄りかかりながら、西の空を眺めていた。
雲ひとつない空が、茜から群青へと、時間のグラデーションを刻んでいく。
「夕陽が昇る日って、どういう意味なんだろうね?」
かつて、沙耶が言ったあの言葉が、ふと耳の奥でよみがえる。
そして、翔太は答える。
「それはきっと……悲しみが希望に変わる日だ。」
手すりの向こう、地平線に沈もうとする太陽が、最後のひとかけらの光を放つ。
まるで、それは「昇っている」ようにも見えた。
沈む光が、どこかへ向かって登っていく――
そう信じられる瞬間だった。
翔太は、そっと目を閉じた。
心の中に、妹の笑顔が浮かぶ。劇で照らされたステージでの美咲の姿も、重なる。
「沙耶。会えてよかったよ。ありがとう。」
その言葉とともに、翔太の口元がふっとほころぶ。
笑っていた。
どこまでも自然に、心から。
誰に向けたわけでもない。ただ、空の向こうの誰かに届くように。
夕陽が昇る日、それは今日だったのかもしれない。
風が優しく吹き抜ける。
それはまるで、沙耶が最後に残した「おかえり」のようだった。
翔太はもう、過去だけを見てはいなかった。
彼の目は、新しい日々の方を、しっかりと向いていた。
───
——夕陽が昇る日に、君は笑う。
その言葉は、今や翔太の中で、未来への合図になっていた。
そして、明日もまた、彼は夕陽を見るだろう。
それが、昇っていようと、沈んでいようと関係なく。
彼の心の中では、もうずっと、あの光が消えることはなかった。
~完~