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「あのちょっといいですか、|麻実《あさみ》さん。その、来週の親睦会について参加するかどうか記入してないのは麻実さんだけなんですけど……」
「え、ああ。それなら……」
まだこの医院に勤めて間もない男性医師からそう聞かれて、私はいつも通りの返事をしようとした。会社での飲み会があるたびにこうして聞いてくれているが、私がそれに出席したのは片手で数えられるくらいだ。
もともとお酒をあまり飲まないし、賑やかな場所が得意ではない私がいれば周りに気を使わせてしまうかもしれない。それに……
「ダメよ、麻実ちゃんは旦那さんが心配性でいつも不参加なの。男なんて少しくらい放っておいておけばいいのに、麻実ちゃんは真面目なんだもの」
「そういうわけでは……」
私が勝手に|岳紘《たけひろ》さんに心配かけたくなかっただけで、彼がどう思っているかなんて本当は分からない。ただ一度だけ、飲み会の最中にメッセージが送られて来たことがあるだけ。
……それを私が今でも気にしている、それだけの事でしかなかった。
「えー、残念です。これをきっかけに麻実さんとも仲良く出来たらと思ってたんですが」
「あらら、彼がこう言ってるけれど麻実ちゃんどうする? 私は貴女が参加してくれたら嬉しいんだけど」
半分は面白がっているだけだろうが、私に良くしてくれている先輩事務員の|久我《くが》さんはそう言ってくれる。それをみた隣の男性医師もウンウンと頷く仕種をするのでつい迷ってしまう。
もし私が飲み会で遅くなっても、きっと岳紘さんは気にはしないだろう。それどころか他によい男性を見つけるのに良いと賛成するかもしれない。そう考えると胸が締め付けられるような気がした。
こんなに苦しいのがずっと続くのなら……そう思ったら、後先考えるよりも早く言葉が出た。
「やっぱり参加します、私」
驚いた表情を隠さない|久我《くが》さんと、さっそく名簿に名前の記入を始める男性医師。その様子を見て自分の決めた事が間違ってないかと不安にもなったが、逆にどこか解放された気分も味わっていた。
勝手に私が|岳紘《たけひろ》さんのためにと思って断っていたが、きっと彼はそんなこと気にも留めなかったはずだ。そう考えると、今まで私はただ自分で己の自由を無くしていただけなのかもしれない。
「本当に良いの? 来てくれたらもちろん嬉しいけれど、旦那さんは……」
「えー、いまさら無しとか嫌ですよ。なんだったら僕が旦那さんに話を」
「百パーセント面倒なことになるから、余計なことしちゃダメ! 変にこじれたらそれこそ大変なんだからね、夫婦ってのは」
久我さんの言うことは本当にその通りだなと思う、一度拗れてしまえばどんどん夫婦としてやっていくのが難しくなっていく。少しずつ溝が深まり、そうして……今の私と岳紘さんのような関係になってしまうこともある。
やいやいと言い合いをする久我さんと男性医師のやり取りを見ながら、こんな風に一度でも言いたいことを夫に言えたことがあったかとぼんやり考えていた。
「いいんです、たまには夫の事を考えない日……そういうのを作ってみようと思ったので」
「そうですよ、そうしましょう! さっそく店に予約人数を連絡しないと」
そう言ってスマホを取りだし、院の裏口から出ていく男性医師。どこか子供っぽいその言動に久我さんと顔を見合わせて笑った。
「……大丈夫だと思うけど、無理はしないでね? おばさん、相談にのるくらいしか出来ないんだから」
「……いいえ、心強いです」
そっと渡された小さなメモにスマホの番号、きっと久我さんは最近の私の様子を見て心配してくれているのだろう。その優しさが嬉しくて、何度も小さく頷いた。
「親睦会? 珍しいな、雫がそういった集まりに参加するのは。君はそういうのがあまり得意ではないだろう?」
「……そう、ね」
岳紘さんの中で私はいつの間にか人の集まりが苦手だと言うことになっていたらしい。本当はむしろ逆で、賑やかな雰囲気も騒がしいくらいの笑い声も好きなのだけれど。
真面目で落ち着いた雰囲気の岳紘さんに釣り合うように、大人の女性に見えるよう頑張ってきたつもりだったけれどそんなふうに思われていたなんて。これまでの自分の努力がまるで伝わってなかったのだと分かり、少しだけ悲しくなった。
「お世話になった先輩の送別会でもあるの、やっぱりちゃんと今までのお礼も言いたいし……」
「雫が参加したければ参加するといい、俺の夕飯くらいならどうにだって出来るし気にしなくていいから」
嫌な顔どころか表情ひとつ変えないで岳紘さんはそう言った。気にしてくれるかもなんて淡い期待しなければよかった、結局また私一人が心に傷を負うだけ。
周りからすれば理解ある夫に見えるのかもしれないが、本当は彼が私にそれほど興味がないだけにすぎない。私は……そうではないのに。
「ありがとう。じゃあその日は遅くなると思う、岳紘さんは先に休んでてくれていいから」
「いや、雫が帰ってくるまで起きて待ってる」
「……え?」