テラーノベル
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岩崎と月子は、岩崎の部屋で、苦笑っている。
隣からお咲の、そして、居間からは、二代目、中村、戸田に山上の大いびきが流れて来ているからだ。
結局、いつものように二代目の音頭で酒盛りが始まり、男達は、酔いつぶれ岩崎宅で雑魚寝という、いつもの有様になっていた。
「すまんな。、月子。酒のつまみまで、用意してもらって……。あいつら、人の家をなんだと思ってるんだ。まったく」
お冠の岩崎に、月子が微笑んだ。
「でも、二代目さんは、大家さんだし、他の皆さんは、京介さんの生徒さんでもあるし……なにより、皆さん、楽しそうでしたよ?」
「いや!そこだよ!なにも、うちで楽しまなくてもいいだろ?!」
ムッとする岩崎に、月子は思わず声を上げて笑った。
「笑い事じゃないぞ!月子!こんなに入り浸る状態が続いてみろ!月子の仕事が増えるだけだ。今日だって、卵焼き、何回おかわりした?!」
「でも、私、お料理は慣れてますし、それに美味しいと言ってもらえたら、なんだか励みになります」
「そこだ!そこっ!」
言って岩崎は、恥ずかしそうにプイと横を向いた。
「……月子の料理は……私だけのものでいいんだ」
少しばかり頬を赤らめる岩崎に、月子も、つい、つられてしまう。さっと、俯いて岩崎から目をそらした。
「……月子の卵焼きは、上手い。弁当にいつも、三切れ入っている……」
おどおどしながら、岩崎が続ける。
「……三切れ、ですか。それでは、いけませんでしたか?」
月子は、少しドキリとして岩崎へ問った。
いつぞや、ポツリと卵焼きが好きだと、弁当に入っている卵焼きは絶品だと岩崎が呟いた事があった。以降、月子は、弁当に入れる卵焼きを、二切れから、三切れに増やしたのだった。
もしかしたら、余計なことをしてしまったのかも。そう、言いかける月子を止めるように、
「いや!三切れがいい!一度目は一気に味わって、二度目はゆっくり味わって、そして、三度目は……月子のことを思い出す……んだ」
岩崎が口ごもる。
「わ、私のことを?!」
突然のことに月子は、叫んでしまい、はしたないと気がつき小さくなった。
「……うん、頑張れるんだよ。昼からの授業もね……月子が、一所懸命作ってくれた弁当だと思うと、頑張れる」
「あっ、で、でも、私はお弁当作っているだけで、卵焼きも、京介さんがお好きだと言われたから……」
モゴモゴと恥ずかしげに口ごもる月子の頭に、ポンと優しい感触が乗っかってきた。
岩崎が、月子の頭に手を置いている。
「だからだ。一生懸命私のために。月子は、ちゃんと私を支えてくれている」
「……支えている……」
心もとない月子の様子に、岩崎はうんと、頷いた。
「ちゃんと、私を支えてくれているよ。だから、余計なことは考えなくてよろしい。まあ、、男爵家と思えば、気兼ねはするだろうが……私達は、下町に住んでいるし、私は、ただの次男坊だし、男爵家だからなどと、気にすることはない」
岩崎は、月子をあやすように目を細める。
その言葉と仕草に、月子は劇場で不安に陥っていたことを、岩崎に読まれていたのだと確信した。
このままうじうじしてはいられない。岩崎は月子の事を信頼し、気を配ってくれているのだから。
「あ、あの!私!芳子様のようにちゃんと行いたいんです!だから、だから、芳子様に弟子入りさせてくださいっ!」
「義姉上《あねうえ》に、弟子入り?!」
わはははと、岩崎が肩を揺らしながら笑った。
「月子、そこまでしなくても、というより、弟子入りしたら、月子まで義姉上みたいに勇ましくなってしまうぞ?」
「あっ。あの、ですが、私は、何も知らないから。それでも私は、京介さんのお役に立ちたいんです!音楽のことも、ちゃんと知りたい!」
気がつけば、月子は、岩崎に挑むよう訴えていた。しっかり、岩崎の目を見て。
「……そうか。分かった。ではどうだろう?本宅、つまり、男爵家に引っ越すというのは……」
そうすれば、まず、行ったり来たりの今の不自由さが解消される。そして、月子が、弟子入りという大仰なことをしなくとも、華族、男爵家のしきたりも自然に身につくはずだ。
「まあ、同居となると、少し窮屈だが、何よりも、月子……」
そこまで言うと、岩崎は微笑んだ。
「お母上と、一緒に暮らせるだろう?同じ敷地に住めるんだ、月子も安心だろう?」
「……母さんと……」
「うん、それがいい。そうだ、それがいい。、そして、お加減がよろしい時に、うどんを作って頂こう!どうだ?」
「かあさんと、一緒に……」
男爵家で、療養している母と暮らせる。そして、母の面倒も見れる。そう思ったら、いや、岩崎の、そこまでの気配りに、月子の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
泣くことはないと岩崎は、優しくし月子の頭を撫でる。
そのぬくもりが、またたまらなくなり、月子は更に涙した。
悲しい訳じゃない。むしろ嬉しい。だから、笑わなければいけないのに。そうわかっていても、岩崎の気持ちに触れてしまっては、嗚咽を抑えることが月子には精一杯だった。
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