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東京駅を後にし、俺たちはタクシーを拾った。
車内に漂う少し古びた革の匂いと、微かに残る駅構内の喧騒が混じり合う。
夕暮れの街並みが窓越しにゆっくりと流れ
煌々と輝いていた駅の灯りが、あっという間に遠ざかっていく。
シートに置かれた手提げ箱の中のプリンやケーキが、まるで今日一日の甘くて特別な思い出を象徴しているみたいだった。
……正直に言うと、もっと尊さんと一緒にいたい気持ちが強く残っていた。
二人で過ごした時間が、あまりにも心地よかったからだろう。
別れ際が近づくにつれて、胸の奥が締め付けられるような寂しさがこみ上げてくる。
まるで、楽しい夢から無理やり起こされるような感覚だ。
駅から少し離れた交差点。
信号待ちでタクシーが停止する。
ふとした衝動で、尊さんの方をちらりと見ると、数秒もせずに目が合った。
「っ」
心臓が跳ねる。何を考えていたんだろう。
自分でも気づかないうちに、尊さんの着ていた淡いグレーの袖をクイッと引っ張ってしまっていたことに気づいた。
我ながら、かなり子どもっぽい行動だ。
「あの…尊さん」
口を開くけれど、言葉がうまく出てこない。
自分の行動に驚くほど鼓動が速くなり、顔が熱くなるのを感じる。
恥ずかしさと、抑えきれない我儘な気持ちが混ざり合って、喉の奥が詰まったようだ。
「少し……ワガママ言ってもいいですか……っ?」
視線をそらしながらも、尊さんの反応をうかがうために、恐る恐るチラッと見上げた。
そこには、いつもの冷静さの中に、少しだけ困惑したような柔らかい表情があった。
大きな瞳が、俺の動揺を映している。
「…?急にどうした」
彼の声には、やはり少し戸惑いが混じっている。無理もない。
「あっ……いや……その…あの」
喉の奥が乾いて、言葉が出にくい。
こういう彼への小さな願い事を口に出すのは、なぜこんなに恥ずかしいんだろう。
それでも俺は意を決して、早口で言ってしまった。
「実は…今日買ったぬいぐるみのひとつ、小さめのやつでいいので、尊さんの家で預かって欲しくて」
ついに言葉にしてしまうと、自分がとても子どもっぽく
そしてあつかましく感じられて、さらに顔が赤くなった。
恥ずかしさで耳まで熱い。
「ぬいぐるみ?また、なんでだ」
尊さんの声は冷静だが、その問いにどう答えるべきか、一瞬迷う。
でも、ここで嘘をつくのは嫌だった。
「えっと……尊さんの匂いつくかなと思って…それ、抱きしめて眠りたいといいますか……っ」
言い終わる頃には、もう耐えられなくて完全に下を向いてしまった。
なんてワガママで恥ずかしいことを言ってしまったんだろう。
頭の中で後悔が渦巻く。
だが、尊さんの答えは意外なものだった。
「それくらいなら……まぁいいぞ」
「え、ほっほんとですか?!」
顔を上げると、尊さんは少し呆れたような、でもやっぱり優しい目をしていた。
「あぁ…ってか、どこもワガママじゃないだろ」
「よ、よかったぁ…ありがとうございます!」
心底安堵して、思わず自分の胸に手を当てた。
「なんだ、断られると思ったのか?」
「いや…重いって思われるかなっと…」
そう伝えると、尊さんはふっと笑ってくれて。
「そんな風には思うわけないだろ」
「お前の愛は重いってより、呆れるほど深いしな」
尊さんは優しく笑みを浮かべながらそう答えてくれた。
そのポジティブな言葉を聞いて、不安は一気に消え去り、頬が緩む。
全身の力が抜けていくようだった。
信号が変わり、タクシーが再び動き出す。
夜の帳が下りた街を、車は滑らかに進んでいく。
窓の外を流れる景色を眺めながら、この瞬間の幸せを噛みしめる。
尊さんと過ごした今日一日は、間違いなく俺の人生にとって特別なものになった。
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
◆◇◆◇
翌週───
月曜日の午前中。
企画開発部のオフィスの中では、それぞれの部署で打ち合わせが行われたり
資料作成をするタイピングの音が静かに響いていた。
俺はデスクに着席し、パソコンの画面をじっと見つめ、山積みのメールボックスの中身を確認をしていたときだった。
「雪白」
名前を呼ばれて振り向くと、部長の村田さんがいつものように腕を組み、デスク越しに立っていた。
「はい」
「ちょっといいか?今日の朝礼でも発表したことだが、例の新商品企画について正式に君と烏羽に任せることになった」
「え……俺と主任に、ですか?」
思わず聞き返してしまう。
確かに朝礼で企画概要の概要は聞いたものの、まさか、いきなり担当を命じられるとは想像もしていなかった。
頭の中が真っ白になる。
「ああ。前任者が体調不良で休養に入ることになったからな。急な話で申し訳ないが、社内でも一番可能性がある若手として期待しているんだ」
「で、ですが…いきなりで、俺に務まるか…」
言いかけて言葉を飲み込む。
隣を見ると、すでに尊が立ち上がり、書類を手にこちらに向かって歩いてきていた。
「雪白、そう身構えなくてもいい」
いつものことだが、その余裕たっぷりの態度が、俺にとっては頼もしい。
「烏羽は以前からこのプロジェクトに関与していたし、雪白は消費者目線でのアイディア出しに定評がある。二人なら必ず良いものを生み出せると思っている」
村田さんが説得するように言った。
その視線には、期待の色がはっきりと見て取れる。
「分かりました……できる限り尽力します」
俺はそう返事をするのが精一杯だった。
不安と同時に、尊さんと二人で仕事ができるという高揚感が込み上げてくる。
「よし、では詳細は後ほど資料を共有する。頼んだぞ、二人とも」
部長は満足そうに去っていった。
俺は椅子に座り直しながら、大きく息を吐いた。
「……ということは、今日から本格始動か」
尊さんが俺の隣に立ったまま呟く。
その表情からは疲労も安堵も読み取れない。
いつも通りの、クールな尊さんだ。
「…俺、ちょっと不安です、ちゃんとできるかどうか…」
尊は小さく笑う。
「心配しすぎだ、それに」
一瞬言葉を切り、周りを気にするように小声になる。
少し屈んで、俺の耳元に囁くように。
「お前と一緒なら、いいものが作れる」
その一言に思わず胸が高鳴る。
ビジネス上の信頼とプライベートでの親密さが微妙に入り混じった響きに戸惑いながらも、不思議と勇気が湧いてきた。
尊さんがそう言ってくれるだけで、何倍も頑張れる気がする。
「……が、がんばります!」
尊さんと一緒に新しい何かを作り上げていく喜び。
それがどんな形であれ、この機会を大切にしたいと強く思った。
このチャンスを絶対に活かす。
昼休みに入る直前、尊さんがマグカップに淹れたコーヒーを持って俺の席までやってきた。
その香りが、俺の緊張を少しだけ和らげる。
「休憩時間に少し打ち合わせしよう。今後のスケジュールも立てないと。場所はいつもの休憩スペースでいいか?」
「はい、もちろんです!」
オフィス内の休憩スペースに移動すると、尊さんはマグカップをテーブルに置き、真剣な表情で話し始めた。
「今回の新商品は主にSMグッズ、そして新たにローターのシリーズ展開を考えている」
尊さんの口から出た単語に、俺は一瞬思考が停止した。
「SM……グッズですか?」
「あぁ。特にうちの会社のSMグッズは若い層からの需要が増えている。市場の伸びを考えると、今がチャンスだ」
確かにそうだ、俺がこの会社を選んだのも、ここのアダルト玩具をよく愛用していて、商品開発に携わりたいと思ったからだ。
その後も尊さんは淡々と続けた。
「既存ブランドだとハードルが高いと感じる層に向けて、より身近なデザインと価格設定で勝負できないかというのが企画趣旨だ。ターゲット層を広げたい」
カフェラテのカップを握る指に力が入る。
「俺が以前から関わっていた部分は製品設計面での安全基準と素材研究だ」
尊さんが説明を続ける。
「お前には最終的なユーザーインタビューや販売戦略の立案を任せたい。雪白の消費者としての視点と、熱意が必要だ」
尊さんの知識と技術は、いつも完璧で頼りになる。
「わ、分かりました!全力で取り組みます!」
何とか応える。気持ちとは裏腹に、声が少し上ずってしまった。
ふと尊さんが小さく笑った。
その表情にドキリとする。
「お前、SMって聞いた途端に顔明るくなったな」
「そ、そんなことは……っ」
否定しかけるも、自分でも頬が紅潮しているのが分かった。
熱が引かない。
「バレバレだ。隠す気がないだろ」
尊さんが少し楽しそうに言う。
「ま、まあ、好きなジャンルですからね…」
素直に認めるしかない。
「知ってる。…だから、任せることにしたんだ」
尊さんが静かに言った。
「じゃあ、打ち合わせはこれくらいにしておこう。早速、資料を読み込んでおいてくれ」
そう言って尊さんは微笑んだ。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る中、俺は改めて決意した。
尊敬する上司であり、大切なパートナーである彼と、二人で最高の製品を作ってみせる、と。