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吾妻家本邸。家族専用のダイニングルーム。
義理の姉である吾妻美優と娘のさくらが、生気のない顔でテーブルに座っている。
兄、勇太が昨夜戻らなかったことが、その表情から伺い知れた。
「家族にも連絡を取らなかったのか……」
朝食のテーブルを共にするポジティブマンがつぶやいた。
まったく理解できない状況だった。
誰よりも家族を大切にしていた兄が、自らの生存を伝えないなどあり得なかった。いったいどれほど緊急の用件だったのだろうか。
兄が生きていたことをどう伝えるべきか。
ふとそう考えたのと同時に、ポジティブマンは大声で叫んでいた。
「美憂ねえさん! さくら! 勇太兄さんは生きていた!」
ふたりは大声に驚き身構えたあと、ゆっくりと顔を上げた。ポジティブマンが言ったことをまるで理解できていない様子だ。
「さくら! パパが帰ってくるんだ!」
ポジティブマンがもう一度大声で言った。
「ほんと!? ほんとにパパ帰ってくるの!?」
吾妻さくらが目を大きく見開いた。
「本当だよ。パパは遠くに行ってなかったんだ。今会社で仕事をしているところさ」
「勇信さん、それ本当ですか? 嘘じゃないですよね」
吾妻美優がようやく状況を理解し、そのままテーブルに突っ伏しては号泣した。その様子を見たさくらも、現実を理解し泣き叫んだ。
8人用のテーブルに泣き声だけが響き渡った。
ポジティブマンはふたりが落ち着くのを静かに待った。
それからゆっくりと昨日のことについて説明した。
兄が突然副会長就任式に現れ、全社員の前で無事を宣言したこと。
緊急の仕事があり昨日は家に帰れなかったことを。
「こんなことが本当にあるなんて。無事でよかった。ほんとうに……」
「今夜帰ってくるから、一旦は落ち着いて待っててください」
「勇信おじさん! おばあちゃんにはこのこと言ったの?」
さくらが満面の笑みを浮かべながら言った。
「いや、今から行こうと思ってる。まずはおじいちゃんに話して、それからおばあちゃんのところに行くよ」
「さくらもいっしょにいく!」
ポジティブマンはさくらを連れて、父和志の病室を訪れた。
吾妻和志は昨日と変わらない姿勢で横たわっている。太陽の光に照らされ血色はよかったものの、彼は3年も目を開けないまま、ただそこにいる。
「おじいちゃん! パパが帰ってくるんだって! とおくにいったんじゃなかったんだって!」
「さくら、おじいちゃんにとって、パパは息子なんだ。だから息子が帰ってきたって言ってあげたらもっと喜ぶよ」
「うん。おじいちゃん! パパの息子がかえってきたよ。パパの息子はげんきだから、おじいちゃんもはやくおきてよ!」
さくらは動かない祖父の手をぎゅっと握りしめ、周りの人形たちと朝の挨拶を交わした。
続けてポジティブマンとさくらは、祖母の部屋に入った。
吾妻恵はベッドに横たわったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
その姿が植物状態である父とあまりに似ていて、ポジティブマンは一瞬冷や汗をかいた。
しかし息子と孫を見た吾妻恵はゆっくりと体を起こし、ふたりを見つめた。
「おばあちゃん! パパが帰ってくるんだって! パパは天国にいったんじゃないんだよ!」
「うん!?」
吾妻恵は孫娘の言葉の意味をゆっくりと理解したあと、ベッドの上にある無線ベルを鳴らした。
――はい、お母さま。どうなさいましたか?
24時間シフトで待機する看護師が返答した。
「この腕につないである、忌々しい管を今すぐ外して! 私は息子に会わなきゃならないの! さっさとここにきて外して!」
「お母さん、落ち着いてください。勇太兄さんは緊急の業務があって今は家にはいません。今夜になれば会えます」
「勇太! 大切な私の息子!」
「おばあちゃん、パパおしごとちゅうなんだよ。あとでかえってくるから、がんばってまってようね。わかった?」
「そんなのムリ! 起きて会社に行ってくるわ」
「おばあちゃん、ダメ!」
「あっ……。さくらの言う通りね。わかったわよ」
孫娘の言葉に、吾妻恵はかろうじて正気を取り戻した。
「かんごしさんがきたから、じっとしてて」
「ねえ! 今すぐこの腕に絡まった管を引っこ抜いてちょうだい! ワタシはもう元気だから!」
部屋に看護婦が現れると、吾妻恵はまたも叫んだ。
「申し訳ございません、お母さま。先生の許可なしには――」
「ゴハン食べなきゃなんないのよ! こんなくだらない液体じゃなくて、マトモな食事を詰めないといけないの! 命からがら戻った息子に、こんなブザマな姿をさらすなんてまっぴらよ!」
吾妻恵の狼狽ぶりが、むしろポジティブマンにはありがたかった。
「それだけ暴れ回れるなら、母は元気です。すぐ先生に連絡して、点滴を外してやってください」
「はい、常務。すぐに手配いたします」
「ねえねえ、かんごしさんて、なんでいつも勇信おじさんのこと、じょーむって呼ぶの?」
吾妻さくらが言った。
「さくらはパパの娘だけど、幼稚園ではさくらちゃんて呼ばれてるよね? それと同じように、おじさんも違う場所だと、じょーむなるんだ」
「うーん、よくわからない。
ねえ、おばあちゃん! さきにレストランでまってるから、はやくおりてきてね!」
「勇太……。勇太が帰ってきたのね……」
しばらくすると、吾妻恵が一階のレストランに姿を現した。
兄の死を知って以降はじめてのことだった。
「奇跡って本当にあるのね」
吾妻恵は主治医から一般食をとめられたため、アワビのお粥をゆっくりと口に入れた。
食卓はまるで過去を追体験するように活気に満ちていた。
父も兄もいない席ではあるが、吾妻家の女3人に笑顔がようやく戻っていた。
ポジティブマンもここ最近忘れていた強烈な食欲を感じ、お腹いっぱい朝食を満喫した。
「記者会見は9時からはじまります。みんなで一緒に見ましょう」
「会社に行かなくても大丈夫なんですか」
吾妻美優が腫れた目で言った。
「職場でも見るのもここで見るのも同じです。なら家族と一緒のほうがいいでしょ」
「今日はあんたが一緒にいてくれて助かるよ」
母、恵が言った。
「お母さん……。ただ、勇太兄さんの姿を見て、また寝込むなんてことないようにお願いしますよ」
「どういう意味よ?」
ポジティブマンは生きて戻った勇太の、変わり果てた容姿について話した。
「ああ、生きてりゃ、べつに何だっていいわよ。顔のちょっとくらい、ちぎれてたって平気よ」
「美優姉さんとさくらの前で、よくそんなことが言えますね」
「勇信さん。お気遣いなく」
吾妻美優が慣れたように言った。
「ユーシンおじさん! パパ、きょうのよるに帰ってくるんだよね?」
「もう少ししたらパパがテレビに出るよ。だから少しだけ待ってようか」
「うん」
「さあ、美憂ねえさんも、もう少し食べてください。食欲がないなんてセリフは、今日限り禁止にしますからね」
「はい。わかりました」
「きっとすべてが元通りになるはずです。きっと父さんも、すぐに目を覚ますでしょう」
ポジティブマンは元気な家族を見ながら、ポケットにいくつかのパンを隠した。