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「私、もう一生男の人の前では服脱がないっ!」
全てのものが琥珀色に染まる薄暗い店内に、聴こえるか聴こえないかの音量で、物静かなクラッシックが流れている。
カウンター席が10席と、テーブル席が3つの小ぢんまりとしたバー『Misoka』の隅っこ。
本当はテーブル席がよかったのだけれど、週末ともなれば結構満席で。
予約なしで飛び込んだ、私と友人の坂本ほたるは仕方なくカウンター席に横並びで座って飲んでいる。
彼氏に振られてからこっち、私、スカートを履いていない。
パンツルックはあまり好きじゃないって彼が言うからずっと我慢していたけれど、それだってもう守る必要なんてないもの。解禁よ、解禁。
今日だって、サファリロングコートの下に、白いVネックのTシャツを着て、グレイのイージーワイドパンツを履いてるの。
足元だって、パンプスはやめてスニーカーというカジュアルな出立ち。
ほんわかふわふわなフェミニンを意識しまくっていた、ちょっと前の私とは大違い。
就職が決まっている、市内ではそこそこ名の知れた六階建の持ちビルに入った建設会社『神代組』の事務職は、制服が支給されるみたいだから、否応なしにスカートを履かないといけないみたい。だけど、仕事とプライベートは別の話。
今はね、元カレの好みに合わせてスカートばかり履いていた自分と訣別をはかりたいの。
壁に近い側をほたるが、その隣に私が座ったのには他意なんてない。たまたまだ。
だけど、メリハリボディを可愛いキャメルのケーブルニットワンピースで包んだ、さらさらショートカットのほたるを、私という壁で守るには丁度いい配置かもって思ったの。
彼氏に女としてはかなり情けない理由でふられてしまって傷心の私。
そんな私を、
「パーッと飲んで愚痴って忘れちゃおう!」
と、大学入学当初からの友人であるほたるが誘い出してくれて。
ついでに大学からそんなに離れていないところに2人して就職が決まったお祝いもしなきゃね、これからもよろしくねってことだったんだけど。
最初は離れずに済んで嬉しいね!から始まった会合も、お酒が進むにつれてほたるの優しさに甘える形で元カレの愚痴をつまみにフラれ女の私がくだをまき始める様相を呈して。
「もぉ、絶対にどんなに求められても脱がないんだからぁぁぁぁ」
ギュッ!と拳を握って、私はいま出されたばかりのビール――3杯目をグイッとあおった。
「うんうん、さっきからずっとそれ言ってるね。けどさ、春凪。将来子供は……」
「欲しいぃぃぃ!」
ついでに人並みの結婚にだって憧れがある。特にうちは実家に難ありだから余計。
しみじみ言って、吐息をひとつ。
私の幸せな人生計画では、24歳辺りで結婚、26歳までに1人目の可愛らしい赤ちゃん――女の子だと嬉しいな♪――を出産、だったんだけどな。
うまくいかないなぁ。
私、いま23歳だし、これから再スタートじゃ、24で結婚は結構厳しいと思う。
「赤ちゃん希望だったらさ、せめて未来のご主人の前でだけは服、脱がなきゃダメなんじゃない?」
親友に至極もっともなことを言われて、「じゃあ、その人の前では下だけ脱ぐっ!」と宣言した。
私がそう言った途端、ショートカットのストレートを、毛先だけグラデーションに赤く染めたほたるが、ブハッと吹き出して。
同時に、見知らぬ人が飲んでいるはずの左隣からも同様にククッと押し殺した笑い声がした。
それだけならまだしも、ボソリとつぶやくように「それはもったいないね」という声も聞こえた気がしてドキッとする。
――え?
ほたるが笑うのはいいの。だって私、ほたるに話してるんだもん。
でも、彼女以外に盗み聞き?されて笑われたり反応されたりするのはやっぱり恥ずかしいし、気分が良くない。
お酒の勢いも手伝って、勢いよく声の主をキッ!と睨みつけた瞬間、思わず手にしたグラスを落っことしそうになってしまった。
だって横にいたの、すごくハンサムな男性だったからっ!
ストライプシャツの下に白いカットソー。それにネイビーのスラックスを合わせた30代になるかならないかに見える落ち着いた雰囲気の人。
ラフに見える黒髪のメンズマッシュも、彼のクールな顔立ちにとても似合っていて。
一目で好みの〝どストライク〟だ!と脳が認識した。
こんなかっこいい人が世の中にいるだなんて、神様反則だよぉ!と思ってからハッとする。
ちょ、ちょっと待って!?
私、いま、その人に――。
「そんな睨んでくるなよ。僕だって聞こうと思って聞いたわけじゃない」
堪えきれないみたいにもう1度だけ口元を微かに綻ばせて忍び笑いを落としてから、鋭くなった私の視線に「失礼」って謝るの。
そうして仕切り直すように身体ごとこちらを向く。
途端、店内に満ちるお酒の香りを押し除けるようにして、一瞬だけどマリン系のコロンの香りが鼻腔をくすぐった。
元カレは香水なんて嗜む人じゃなかったけれど、この男性は違うんだって思ったら、慣れないことに心臓がバクバクしてしまう。
私は慌ててうつむくと、サッと顔を隠した。自分では見えないけれど、顔がすごく熱い。絶対真っ赤になってるっ。
「春凪?」
私とその男の人のやりとりに、横からほたるが怪訝そうに声をかけてきた。けれど、それにも返事が出来ないぐらい私、心臓が壊れそうに早鐘を打っていて。
まさに崖っぷち状態、どストライクの魅力に落っこちる寸前の私に、追い討ちをかけるように彼が言うの。
「何にしても男はキミの元カレみたいなヤツばかりじゃない。そんなくだらない男にフラれたぐらいで自暴自棄になるなんて、もったいないと思いませんか? ――ついでに老婆心承知で言わせてもらいます。これ以上悪酔いして醜態をさらす前に今日は解散したほうがいいんじゃないですか?」
大人の男性だなぁという噛んで含めるような物言いに、私はグッと言葉に詰まる。
だって、いちいちごもっともなんだもん!
でも。
「――あ、貴方には……関係ない、ですっ」
せめてもの抵抗に、と頑張って彼の方を見て、睨みつけるようにしてしどろもどろで何とかそう反論したのだけれど。
その人は私の顔をじっと見つめて薄く微笑むと、「本当に関係ないといいね」と意味深な言葉を残して去っていった。
***
「な、なんだったの、今のっ!」
彼が会計を済ませてバーを出て行ったのを見届けて、私はプシューッと空気が抜けた風船みたいにテーブルに突っ伏しながらそう悪態をつく。
「でも春凪、今の人に一目惚れだったでしょう?」
クスッと笑って問いかけられて、私は「ちょっ、そ、んなことっ」〝ない〟って必死に否定しようとして。
じっと私を見つめてくるほたるの表情を見て、長い付き合いの彼女は何もかもお見通しなんだ、と観念する。
ほぅっと小さく吐息を落としながら、「……あります、落ちました、一目惚れです」とまるで自分に言い聞かせるように陥落宣言をした。
でもだからと言って、私はあの人の名前はおろか、勤め先や住んでいる所を知っているわけではない。
たった1回、たまたまバーで隣席に座っただけの……通りすがりのハンサムさん。
また今日みたいな偶然が起こらない限り、もう2度と会うことはないと思う。
……すごく残念だけど。