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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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一人目の奥様は、身籠っていた。
番町から鳥居坂へ帰る自動車の中で、私はその言葉を、膝の上で握った手の中に閉じこめていた。
前の座席には、運転手と並んで真柴さんが座っている。後ろの座席の私の隣で、侯爵様は窓の外の暗い屋敷町を見ていた。
「麗子は、何を言った」
坂の途中で、侯爵様が訊いた。窓を向いたままだった。
「……千鶴様のことを、少し」
嘘ではなかった。けれど、本当のことの、いちばん大事なところを抜いた答えだった。
侯爵様は、それ以上訊かなかった。
前の座席で、真柴さんの銀縁の眼鏡が、街灯の光を一度だけ拾った。
この人は、知っているのだろうか。
自分の最初の妻が、子を宿したまま死んだことを。
知らないのだとしたら、私の口から告げていいことなのか。知っているのだとしたら、なぜ誰にも言わずにいるのか。
どちらを考えても、喉の奥が冷たくなった。
自動車が門をくぐるまで、私は一言も言えなかった。
*
それから、夏が過ぎた。
『婦人の窓』の九月号には、小さな活字で「青髭侯爵夫人の日記は、筆者の都合により中止いたします」とだけ刷られた。
社交界の噂は、侯爵様が言ったとおり、藤堂家のほうへ流れていった。麗子様は、しばらく軽井沢へ行っているらしい。
八月十四日、千鶴さんの一周忌の法要は、白河家が自分たちの寺で営んだ。久遠寺の家からは、侯爵様だけが参った。
その晩、侯爵様は厨房に来なかった。
翌朝の卵焼きは、久しぶりに、端が黒く焦げていた。
「……食べなくていい」
そう言いながら、侯爵様は皿を引っこめなかった。私は全部食べた。
あの夜会の晩から、もうふた月半になる。
私はまだ、麗子様の言葉を誰にも話していなかった。
*
九月の終わり、秋晴れが三日続いた朝だった。
厨房の調理台で、侯爵様が珈琲の豆を挽いていた。手回しの挽き器が、ごりごりと鳴る。
「旦那様」
私は、湯呑みを両手で包んだまま言った。
「和館の二階の、藤の間を、開けていただくことはできませんか」
挽き器の音が、止まった。
「なぜだ」
「二年半も閉め切ったままだと、伺いました。小夜子様のお部屋に、風を通して差し上げたいのです」
侯爵様は、しばらく黙っていた。
左の眉を、指で一度なぞる。
「あの部屋はいい」
低い声だった。
「でも」
「いいと言った」
挽き器の取っ手が、また回りはじめた。いつもより、少し速かった。
私はそれ以上言えずに、湯呑みに目を落とした。
この人は、萩の間の前には夜中に立つのに、藤の間の名を出すと、こうして扉を閉める。
*
その日の昼過ぎ、大奥様の居室に呼ばれた。
白檀の匂いの中で、大奥様は、帳面を一冊、私の前に滑らせた。表紙に「曝書目録」と墨で書いてある。
「秋の虫干しです」
大奥様は、扇を膝に置いたまま言った。
「蔵の書物と、和館の衣装。例年は女中たちと私でいたしますが、今年は、すべてあなたがおやりなさい。この家の嫁の務めです」
目録をめくると、書名が細かい字でびっしりと並んでいた。蔵の分だけで、五百冊は下らない。
「それから」
大奥様の細い目が、私の顔の上で止まった。
「藤の間も。二年半、誰も風を入れておりません。小夜子さんの物を、黴に食わせるわけにはまいりません」
息が、一瞬止まった。
朝、侯爵様に断られたばかりの部屋の名だった。
「萩の間は、冬馬さんが鍵を渡しませんから、結構です」
大奥様は、帯の間から小さな鍵を一本取り出して、目録の上に置いた。古い真鍮の鍵だった。持ち手に、藤の花房が透かし彫りになっている。
「私は、あの部屋には入りません。何か損じたら、あなたが責めを負いなさい」
「……かしこまりました、大奥様」
居室を下がって、渡り廊下に出てから、私は鍵を握った手を開いた。
意地悪のつもりなのだろう。五百冊の書物と、亡くなった人の衣装の山を、嫁一人に押しつける。
けれど、私の手の中には、今朝どうしても開かなかった扉の鍵がある。
家令室の前を通りかかると、真柴さんが戸口から顔を出した。
「虫干しのお役目を、仰せつかったそうでございますね」
もう耳に入っているらしい。この家のことは、何でもこの人のところへ流れていく。
「蔵の書物は、明朝、私が鍵を開けてお出しいたしましょう。蔵の鍵は、私と大奥様しか持っておりませんので」
「お手数を、おかけします」
「とんでもない。奥様お一人では、骨が折れましょう」
真柴さんは、目尻に深い皺を寄せて笑った。それから、私の手の中の真鍮の鍵に、ちらりと目を落とした。
「藤の間も、でございますか」
「はい。大奥様が」
「……さようで。小夜子様も、きっとお喜びでしょう」
眼鏡の奥の目は、いつものように穏やかだった。
*
その晩、侯爵様は、厨房で栗の皮を剥いていた。
小刀で、鬼皮に切れ目を入れては剥がしていく。手袋を外した指の先が、渋皮の色に茶色く染まっていた。
「母上から、聞いた」
私が戸口に立つと、侯爵様は手を止めずに言った。
「……申し訳ございません。お断りできませんでした」
「母上が決めたなら、仕方がない」
剥いた栗が、水を張った鉢に、ぽちゃりと落ちた。
その夜の栗ご飯は、ほくほくと甘かった。
「明日は力仕事だろう。食べておけ」
侯爵様は、私の茶碗に、栗の多いところばかりをよそった。自分の茶碗には、ほとんど白い飯しか残っていない。
「旦那様の分が」
「栗は、剥くほうが好きだ」
言い訳にもなっていない言い訳だった。私は、渋皮の色の染みた指先を見て、黙って箸を取った。
食べ終わるころ、侯爵様が言った。
「あの部屋で、瓶や薬の類を見つけても、口をつけるな」
「え」
「触ったら、手を洗え。すぐにだ」
灰色がかった黒い目が、湯気の向こうから私を見ていた。
何を知っているのか。訊こうとして、私は口を閉じた。この人は、答えたいことしか答えない。
*
翌朝、和館の二階の廊下に立った。
百合絵様は、女学校を休んで手伝うと言い張って、襷を掛けて来てくれた。お鈴は、はたきと雑巾の桶を抱えている。
藤の飾り彫りのある柱。その横の、和館には珍しい錠前つきの板戸。桟には、指でなぞれるほどの埃が積もっていた。
「あたくし、小夜子お姉様が亡くなってから、ここへ入るの初めてよ」
百合絵様の声が、少し小さくなった。
「お母様が、どなたも入れなかったの。お兄様にも、鍵をお渡しにならなかったはずだわ」
藤の透かし彫りの鍵を、錠前に差しこむ。
かちり、と思ったより軽い音がした。
板戸を引くと、こもった空気が、ふうっと顔に当たった。樟脳と、古い白粉と、何か甘いものが乾いたような匂い。
中は暗かった。私は手探りで部屋を横切り、障子を開け、雨戸を一枚ずつ戸袋へ送った。
秋の光が、畳の上に斜めに流れこんだ。
八畳の座敷だった。床の間に、藤の絵の掛け軸。違い棚には和綴じの本が十冊ほど、きちんと積まれている。衣桁には、薄紫の羽織が掛けられたまま、肩のところだけが色褪せていた。
誰かが、さっきまでここにいたような部屋だった。二年半、時が止まっていた。
「この羽織、覚えてるわ」
百合絵様が、そっと袖に触れた。
「小夜子お姉様、あの冬は、これを肩に掛けて、毎晩お薬の葡萄酒を召し上がってたの。宇佐美先生のお見立てで、滋養がつくからって」
窓際に、黒漆の鏡台があった。
鏡には、藤色の縮緬の鏡掛けが垂れている。お鈴が、はたきをかけようと手を伸ばした。
「待って」
私は、お鈴の手を止めた。
鏡台の天板に、光が当たっていた。黒い漆の上に、何かがある。
顔を近づけると、それは丸い輪だった。
赤黒く乾いた輪。差し渡しは、湯呑みの底ほど。漆がそこだけ白く曇って、輪の内側に、細かい滓がこびりついている。
瓶の底の形だった。
けれど、鏡台の上にも、部屋のどこにも、瓶そのものはなかった。
小夜子様の鏡台に、薬用葡萄酒の空き瓶の跡が、丸い染みになって残っていた。
コメント
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配信された第31話「開かずの藤の間」、めっちゃ引き込まれたよぉ…😭💕 侯爵様が栗剥きながら「口をつけるな」って警告するトコ、優しさと不穏が混ざっててキュンと背筋伸びた…! 鏡台の瓶跡、それって小夜子さんが毎晩飲んでた薬用葡萄酒の痕だよね…? それが消えてるの、絶対何か隠されてる…💦 大奥様は「嫁の務め」って言いながら鍵渡してきて、意地悪そうだけど結果的に藤の間開けるきっかけくれたのが皮肉でニヤってなったわ笑 次回、あの部屋で何を見つけるのかマジで気になる…!! 最近ずっとこの話のこと考えてるの私だけじゃないはず😤❤️