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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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私は、輪の縁に、小指の先でそっと触れた。
乾ききった滓が、ざらりと爪に引っかかった。指を鼻に近づけると、かすかに甘い匂いがした。腐った果物のような、薬のような匂い。
侯爵様の声が、耳の奥でよみがえる。触ったら、手を洗え。すぐにだ。
私は、前掛けの端で指を何度も拭った。
「瓶は、どこへ行ったのかしら」
百合絵様が、鏡台を覗きこんで首をかしげた。
「お母様は、お部屋の物は何一つ動かすなって、女中たちにきつく言いつけてらしたのに」
それから、ふと思い出したように、声を落とした。
「……そういえば、一度だけ。千鶴お姉様のお葬式が済んで、少ししてからよ。夜中にお手洗いに起きたら、二階で板戸の音がしたの。階段の下からそうっと覗いたら、お兄様が、ここから出ていらした。何かを、手拭いに包んで持ってらしたわ」
「侯爵様が」
「ええ。あたくし、怖くなって、すぐお部屋に戻ったけれど」
私は、鏡台の上の輪を見下ろした。
誰も入れなかった部屋に、一度だけ入った人がいる。そして、瓶が一本、消えている。
あの部屋はいい、と言った低い声を、私は思い出していた。
「お義姉さま?」
「……なんでもありません。さあ、始めましょう。日が高いうちに」
*
縁側に毛氈を敷き、藤の間の書物を一冊ずつ並べていった。
蔵から真柴さんが出してくれた分は、庭の筵の上に、お鈴と二人で広げてある。秋の風が、頁をぱらぱらとめくっていく。
藤の間の本は、歌の本ばかりだった。古今集、新古今集、名の知れた歌人の家集。どれも小口が手擦れで柔らかくなっていた。
その中に、題簽のない、薄い和綴じの帳面が一冊あった。
表紙は藤色の染め紙。開くと、細い筆の、少し丸みのある字で、歌が一首ずつ書きつけてあった。
「小夜子お姉様のお歌よ」
百合絵様が言った。
「お姉様、毎日お詠みになって、ここに書いてらしたの」
頁をめくりかけて、私は手を止めた。
指が、何かに引っかかった。
帳面を裏返し、綴じ目を光にかざす。
表から見える綴じ糸は、藤の紙に合わせた淡い紫の絹糸だった。日に焼けて、少し白っぽく褪せている。
ところが、裏表紙の結び目のところだけ、糸の色が濃い。同じ紫でも、まだ褪せていない、新しい糸だった。
そして、四つの綴じ穴のそれぞれの脇に、もう一つずつ、小さな穴が開いていた。
「……二重になってる」
声に出していた。
「え?」
「綴じ穴です。一度ほどいて、綴じ直してあるんです。古い穴を避けて、少しずらして新しい穴を開けたから、こうなる」
父の店では、刷った紙を和綴じにする仕事もあった。目打ちで穴を開け、糸を通して、角を締める。綴じ直した本は、穴の並びでわかる。
しかも、新しい穴の間隔が、わずかに揃っていない。慣れた職人の手ではなかった。
「小夜子様は、お裁縫は」
「お上手だったわ。あたくしの人形の着物も、縫ってくださったもの」
庭の筵のほうから、草履の足音が近づいてきた。
タキさんだった。白い前掛けに、両手で盆を捧げている。盆の上には、麦湯の入った薬缶と湯呑みが三つ。
「大奥様が、お嬢様に麦湯をと」
タキさんは、縁側に盆を置いた。それから、私の膝の上の藤色の帳面に目を留めた。
皺の寄った目元が、ほんの一瞬、動いた。
「小夜子様のお手でございますね」
「タキさんは、小夜子様のお世話を」
「女中頭でございますから、どの奥様のお世話も、いたしました」
タキさんは、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、二階を見上げた。開け放した藤の間の障子。その奥の、鏡台のあるあたりだった。
「あの冬は、お寒うございました」
それだけ言うと、タキさんは私に向き直った。
「奥様。藤の間のものは、干したら早くお仕舞いなさいまし。開けておいて、よいことはございません」
「……どういう意味ですか」
「年寄りの、験担ぎでございます」
タキさんは、一礼して踵を返した。小さな背中が、廊下の角へ消えていく。
麦湯の湯呑みには、誰も手をつけなかった。お鈴が、口をつけようとして、私の顔を見て、そっと戻した。
私が口にしていいのは、侯爵様が用意したものだけだ。お鈴も、もうそれを知っている。
*
その夜、洋館の自分の部屋で、私は帳面を文机の上に置いた。
電灯の笠を引き下ろし、手元を明るくする。
虫干しのために預かった物だ、と自分に言い聞かせた。干して、元通りに綴じて返せばいい。
結び目を、爪の先でほどいた。
新しい紫の糸が、するすると抜けていく。
歌の頁は、二つ折りにした厚手の和紙だった。
その間に、もっと薄い紙が、何枚も挟みこまれていた。
一枚ものの、白い便箋。藤の小さな透かしがある。縦に細い罫。
そこに、鉛筆の字が並んでいた。歌の字と同じ、少し丸みのある、細い字だった。
筆ではなく、鉛筆。床の中で、人目を盗んで書くには、そのほうが都合がよかったのだろう。
便箋は薄く、上等な洋紙だった。鉛筆の芯が強く当たったところは、紙の裏まで、かすかに盛り上がっている。
硯も墨も要らない。書いたら、歌の間に挟んで、また綴じてしまえばいい。誰かがこの帳面を開いても、見えるのは歌だけだ。
日記だった。
「十二月三日 宇佐美先生のお見立てにて、やや子の宿れること、たしかなりと知る。三月とのこと」
私は、息を詰めた。
「旦那様には、お正月に、父上様の御写真の前にて申し上げむと思ふ。それまでは、わたくしと、この子との秘め事」
その下に、一首。
藤波の 下にやどれる 小さき芽の 春を待つまに われも待つなり
鉛筆の字が、少しだけ滲んで見えた。
私の目のせいだった。
*
日記は、ひと月足らずの短いものだった。
「十二月八日 腹の子に、歌を聞かせる。まだ何も聞こえぬと、タキに笑はる」
「十二月十日 宇佐美先生より、滋養にとて薬の葡萄酒を賜る。少し甘く、少し酸ゆし。毎晩、寝しなに一杯」
「十二月十四日 旦那様、議会のことにてお忙しく、夜はお顔を見ず。申し上げたきこと、山ほどあり」
読み進めるうちに、字の調子が、少しずつ変わっていった。
「十二月十七日 夜、眠られず。胸のつかえ」
「十二月十九日 雪もよひ。誰にも、言へぬ」
誰にも、言えない。
懐妊を秘め事と書いていた人が、半月後には、同じ言葉をまるで違う重さで書いている。
次の紙をめくった。
そこで、指が止まった。
便箋が一枚、根元から破り取られていた。
綴じ代のところに、ぎざぎざの細い紙の耳だけが残っている。その耳の端に、鉛筆の字が、半分だけ引っかかっていた。
「十二月廿」
縦書きの、一行目の頭。日付の書き出しだった。
二十日。
その先は、何もない。
私は、破られた跡に、指先を当てた。
誰が破ったのだろう。小夜子様ご自身か。それとも、この帳面を見つけた誰かか。
けれど、見つけた誰かなら、日記ごと持ち去ったはずだ。わざわざ一枚だけ破って、残りを綴じ直して、歌の間に隠しておくだろうか。
綴じ直したのは、裁縫の上手だった人。
破ったのは、誰。
破られた紙の次には、白い便箋が一枚だけ、何も書かれないまま綴じこまれていた。
日記は、十二月二十日で終わっていた。
小夜子様が亡くなったのは、それからひと月後の、一月二十日だ。
*
廊下の向こうで、柱時計が十一時を打った。
内側の扉の向こうは、静まりかえっている。侯爵様は、もう休んだのだろうか。
この日記を、あの人に見せるべきだろうか。
旦那様には、お正月に申し上げむと思ふ。
小夜子様が告げられなかったことを、私が告げていいのだろうか。
迷いながら、最後の白い便箋を、元の場所に戻そうとした。
そのとき、電灯の光が、紙の上を斜めに滑った。
白いはずの紙の面に、かすかな影が浮かんだ。
細い、細い線。字の形をした、影。
私は、電灯の笠を傾けた。光を、真横から当てる。
便箋を目の高さまで持ち上げ、紙の面すれすれに目を寄せた。
破られた頁の筆圧が、白い紙に溝を残していた。
コメント
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お疲れさまです、第32話読みました! 綴じ直された歌集に隠された鉛筆の日記……そこから浮かび上がる小夜子様の「秘め事」と、破られた12月20日の頁。筆圧だけが白い便箋に残っているラストの描写が、もう、胸に迫りました。裁縫の上手だった小夜子様が、自ら綴じ直したのか、それとも誰かが——と考えると、タキさんの「あの冬はお寒うございました」という言葉の重みも変わってきますね。 謎がひとつ解けるたびに新たな伏線が顔を出す構成、ぞくぞくしました。次が気になって仕方ないです!