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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
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「陽翔くん。今、凛さんに何て言ったの?」
麗奈の声は、甘かった。
スプーンを置き、首を少しかしげて、陽翔の顔をのぞきこんでいた。
食堂の空気が、薄くなった気がした。
私は、卵焼きの皿から手を離せずにいた。
蒼真は、新聞の向こうにいた。お義母さまは、味噌汁の椀を口元で止めていた。
陽翔は、ぴょんたを膝の上で抱き直した。
「ママレード」
「え?」
「ママレード、ほしいって。パンに、ぬりたいの」
陽翔は、テーブルの真ん中の籠を指さした。
トーストが二枚、手つかずのまま並んでいた。
「……ああ、そう」
麗奈は、スプーンを取り直した。
それ以上は、何も聞かなかった。
「坊ちゃん。すぐに、お持ちしますね」
凛の声で言って、私はパントリーへ向かった。
棚の奥のオレンジ色の瓶を取る手が、止まらなかった。
止まらないように、していた。
ママレードなんて、あの子は一度も好きだったことがない。
苦いと言って、いつもパンの耳ごと残していた。
それを、あの子は、ほんの一秒で思いついたのだ。
瓶を持って食堂に戻ると、お義母さまが、陽翔のパンにママレードを塗る私の手元を見ていた。
陽翔は、苦い顔ひとつせずに、パンをかじった。お義母さまは、何も言わずに、味噌汁の椀を置いた。
*
その日から、麗奈は陽翔のそばにいるようになった。
幼稚園の送りに、自分からついていく。
帰ってくれば、おやつを一緒に食べると言って、子ども部屋に上がりこむ。
「りんさんと、いつも何のお話してるの?」
「お部屋で、二人で何してるの?」
麗奈が陽翔に聞くのを、廊下で何度も聞いた。
私は、陽翔から離れた。
朝の卵焼きを出すほかは、子ども部屋の掃除も、陽翔が幼稚園にいるあいだに済ませた。夜の寝かしつけは、蒼真か麗奈に頼んだ。
陽翔は、何も言わなかった。
廊下ですれちがうとき、自分の耳に、そっと二回触るだけだった。
あの子に近づかないことが、あの子を守ることになる。
わかっていても、背中で聞く、りんさん、という声が、一日ごとに遠くなっていった。
*
「時間を、決めるべきだ」
離れの縁側で、榊さんは言った。
「麗奈が陽翔に張りついている。あいつが気づくのは、時間の問題だ。……その前に、こちらの手を進める」
榊さんが卓袱台に置いたのは、指先ほどの大きさの、白い変換器だった。
「スマホの差し込み口に、これをつける。反対側に、USBを挿す。中身を全部、スマホに写せる」
「旦那様の引き出しの、黒いUSBですね」
「写しは、裁判の証拠には使わない」
榊さんは、眼鏡を押し上げた。
「監査法人に、どこを掘らせるかを知るためだけのものだ。掘るのは、向こうの仕事だ。……持ち主の知らないうちに出てきた写しより、監査法人が会社に出させた原本のほうが、ずっと重い」
「はい」
「水曜の夜、蒼真は主幹事の証券会社と会食だ。帰りは十一時過ぎだと、会社の秘書が言っていた。株主からの問い合わせには、案外よく答える」
*
水曜日の夜、九時。
陽翔は、八時に麗奈が寝かしつけた。
その麗奈は、九時から和館の檜風呂に入る。お義母さまは、和館の居間でテレビの時代劇を見ている。
洋館の二階には、誰もいなかった。
私は、大階段を上った。
十三段目を、いつものように踏んだ。ぎい、と鳴った。この時刻に家政婦が二階へ上がる音は、この家では、ただの家政婦の音だ。
書斎の扉を開け、灯りは点けなかった。
本棚の右端、三段目。五冊。
奥の板を押し、黒いUSBを取り出した。
スマホに変換器をつけ、USBを挿した。
画面に、小さな帯が現れた。
転送中。残り、およそ十二分。
十二分。
私は、机の脇の床に膝をついた。
画面の光が漏れないように、エプロンで覆った。
帯が、少しずつ伸びていく。
十パーセント。二十パーセント。
窓の外で、虫が鳴いていた。
閉めきった書斎は暑く、首のスカーフの下に、汗がにじんだ。
五十パーセント。
和館のほうで、風呂の戸が開く音が、かすかにした気がした。
私は、息を止めた。気のせいだった。
八十パーセント。
九十。
そのとき、玄関の重い扉が開く音がした。
予定より、二時間も早かった。
足音が、玄関ホールを横切る。
大階段の、一段目。二段目。
私は、画面を見た。九十四。
足音は、引きずるように、ゆっくりと上がってくる。
十段目。十一段目。十二段目。
ぎい。
十三段目が、鳴った。
あの人は、もう段を跨がない。
今夜も、酔っている。
九十八。九十九。
完了の文字が出た瞬間、USBを抜いた。
引き出しに戻し、板を押す。
本を、つかんだまま差し込んでいく。一冊、二冊、三冊。四冊目と五冊目を、まとめて押し込んだ。
廊下の足音が、二階に上がりきった。
私は、書斎のドアではなく、配膳室側の扉を開けた。
暗い配膳室を抜け、廊下に面したもう一つの扉から、外へ出た。
階段の上で、蒼真がネクタイを緩めていた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
凛の声で言って、私は両手を差し出した。
「お早いお帰りで。上着を、お預かりいたします」
蒼真は、目をしばたいて私を見た。
「……なんで、二階にいるんだ」
「配膳室に、明日の朝のお茶の葉を取りに参っておりました」
取りに来たのは、お茶の葉ではない。
あなたの会社の、まだ誰にも見せていない数字だ。
エプロンのポケットの中で、スマホが、まだ熱かった。
蒼真は、しばらく私を見ていた。
それから、ジャケットを脱いで、私の手に放った。
「主幹事のやつら、数字の説明を、もう一回しろってさ。……上場前に、細かいことばっかり聞いてきやがる」
酒の匂いがした。
「水、持ってきて。書斎に」
「かしこまりました」
あの人が書斎に入っていく背中を見送りながら、私は思った。
四冊目と五冊目の順番を、逆に入れたかもしれない。
翌朝十時、書斎の掃除のとき、私は本の順番を確かめた。
逆だった。五冊の背表紙を、そっと元の順に並べ直した。
前の晩、半地下の部屋で、私はスマホのファイルを一つも開かなかった。
開けば眠れなくなるとわかっていたし、眠らなければ、朝、あの人の前で凛の顔ができない。
*
木曜日の夜、離れの戸を開けると、榊さんは何より先に言った。
「手を」
私は、手袋を外して、両の手のひらを見せた。
剥けたところに、薄い桃色の皮が張っていた。
榊さんは、それを、書類でも読むような顔で、しばらく見ていた。
「……よし」
それだけ言って、卓袱台の上に、湯呑みを一つ置いた。
氷の入っていない、ぬるい麦茶だった。
それから、ノートパソコンを開いた。
私のスマホから写したファイルが、画面に並んだ。
数字の表。契約書の写し。振込の記録。
榊さんは、長いあいだ黙って、画面をめくっていった。
その指が、ある表で止まった。
「法人契約だ」
画面を、私のほうへ向けた。
「企業の福利厚生として、社員の家に家事スタッフを派遣する契約。十二社。去年の春から、毎月請求が立っている」
「十二社も」
「登記を調べればわかるが、半分は、もう存在しない会社の名前だ。残りは、聞いたこともない」
榊さんは、表の一番下の数字を、指でなぞった。
「売上に立てた金額の合計は、一億八千万円。……払われた形跡のない売上だ」
上場の審査中の会社の、一億八千万。
私の名前の墓が、あの人の上場の踏み台になった。その台の下に、もう一つ、穴が開いていた。
榊さんは、別のファイルを開いた。
会社の口座の、振込の記録だった。
日付と、相手の名前と、金額が、細かい字で何百行も並んでいた。
榊さんの指が、また止まった。
今度は、さっきよりも長く。
「……凛さん」
榊さんの声が、かすれていた。
役員を三人刑務所に送ったと噂される人の指が、画面の一行を押さえたまま、動かなかった。
事故の翌日、十一月二十一日。
夫の会社から、「D」という名前に、五百万円が振り込まれていた。
コメント
1件
第45話めちゃくちゃ緊張したよ…!!最後の蒼真の早い帰宅、心臓止まるかと思った😭 凛さんの冷静な対応が逆に怖かったし、あの十三段目の「ぎい」がもう耳に残って離れない…。そしてまさかの事故直後の振込!?Dって誰…!?続きが気になりすぎて今夜眠れそうにないんだけど!?✨ 陽翔くんとの関係も切なくて、耳に二回触るシーンにもうグッときたよ…🥺💕