テラーノベル
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D。
画面の一文字を、私は長いあいだ見ていた。
あの夜、配膳リフトの竪穴を降りてきた声を、私は一言残らず覚えている。
四分と少しの録音。最後に、私自身の荒い息。
――堂島には、終わったら五百万。あいつは金さえ払えば黙る。
「堂島の、Dです」
声が、自分のものではないように聞こえた。
「あの夜、旦那様は電話で、そう言いました。終わったら、五百万と」
榊さんは、画面から目を離さなかった。
「名目は、業務委託費。事故の翌朝に、会社の口座から」
榊さんの指が、卓袱台の端を、とん、と一度叩いた。
「あなたの耳が聞いた言葉と、金の流れが、一本の線になった。……だが、その言葉を記録した物が、ない」
リフトで地下へ下ろした、銀色の録音機。
この家に戻って最初に確かめに行った夜、ワインセラーの床には、何もなかった。
誰かが、拾ったのだ。
拾って、まだ、誰にも聞かせていない誰かが。
あの家で、冬の朝、一番早く起きるのは誰だったか。
一番最初に、ワインセラーの鍵を開けられるのは誰だったか。
その答えに行き着く手前で、私は考えるのをやめた。
答えが当たっていたら、私はその人に、毎朝お茶を淹れていることになる。
*
次の木曜日、私は根津の村雨家政婦紹介所へ帰った。
格子戸を開けると、台所から、蒸したおやきの匂いがした。
「おかえり、凛ちゃん」
トキさんは、割烹着の袖で手を拭きながら、丸眼鏡の奥で目を細めた。
この人だけは、私をいつも、帰ってきた人として迎える。
ちゃぶ台で、ほうじ茶を飲んだ。
トキさんは、湯呑みを両手で包んだまま、声を落とした。
「ミカゲ・ホームのことだけどね。うちの子で、あっちにも登録してる子が何人かいるんだよ」
「はい」
「春に、取り分を下げられたって。七割五分が、六割。そこへ今度は、認定制度だとさ。研修を受けて、試験に通ったら、認定家政士。研修代は、自腹で三万」
トキさんは、鼻を鳴らした。
「三万払って、自分がもう知ってることを習うんだよ。染み抜きも、段取りも」
それから、茶箪笥の引き出しを開けて、一冊の薄い冊子を出した。
表紙に、白抜きの字で、ミカゲ・メソッド、と印刷されていた。
「うちの子が置いてったやつ。いらないってさ」
私は、冊子を受け取った。
「それにね。これ、現場じゃ有名な話なんだよ」
トキさんは、冊子の表紙を、指でとん、と叩いた。
「五年前の最初の研修じゃ、手書きのノートのコピーが、そのまま配られたんだって。どこかの奥さんの、癖のある字のね。図まで手描きで。……それが、次の年から、きれいな活字になった」
冊子を持つ指に、力が入った。
癖のある字。
右に上がらない、左利きの字。
「現場を回ったことなんか、一度もない社長さんがね。自分で作ったって、テレビで言ってるよ」
私は、冊子を膝の上に置いた。
それから、トキさんにだけ、話した。陽翔のこと。ブラシのこと。耳を、二回叩かれたこと。
トキさんは、黙って聞いていた。
聞き終えると、湯呑みを置いて、丸眼鏡を外した。
「子どもってのはね、大人が思うよりずっと、秘密の持ち方を知ってるもんだよ」
眼鏡の玉を、割烹着の裾で拭いた。
「でも、重さは知らない。どれだけ重いもんを持たされてるのか、自分じゃ量れないんだ。……だから、重さは、あんたが量ってやりな。毎日ね」
「……はい」
帰る前に、仏壇の引き出しから茶封筒を出してもらった。
右手の字で、あかつき園、と書いた封筒。今月の分を入れて、また引き出しに戻した。凛さんの名前で働いた、四か月ぶんの重さだった。
*
午後、トキさんの台所で、柚子を刻んだ。
隣の家の庭の木から、もらってきたという青い柚子だった。
皮を薄く削ぎ、オイルに漬けて、湯煎にかける。蜜蝋を落とし、少しずつ溶かしていく。
私の作り方だった。
嫁いでからの冬、毎年、台所で作っていた。
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
水仕事で荒れた手に塗ると、家じゅうに柚子の匂いが広がった。陽翔は、ママの手、いいにおい、と言って、私の手のひらに鼻を押しつけた。
この顔になってから、一度も作らなかった。匂いは、顔よりも長く、人の記憶に残るからだ。
「いい匂いだねえ」
トキさんが、鍋をのぞき込んだ。
「凛ちゃん。これ、うちの子たち全員の分、作ろう。手荒れは、家政婦の職業病だからね」
それから、私の目を見て言った。
「誰かに聞かれたら、紹介所で、皆で作ってるって言いな。本当のことなんだから」
トキさんは、それ以上、何も聞かなかった。
二十個の小さな瓶に、私たちは黙って、柚子の匂いを詰めていった。
*
夜、厨房の片づけを終えて、手袋を外した。
張ったばかりの手のひらの皮は、水仕事のたびに乾いて、細かくひび割れた。
小さな瓶の蓋を開け、指先に取って、手のひらに塗り広げた。
青い柚子の匂いが、厨房に立ちのぼった。
足音がした。
振り向く前に、厨房の入口で、その足音が止まった。
蒼真が、立っていた。
空のグラスを手に提げたまま、動かなかった。
「……その匂い」
声が、かすれていた。
私は、瓶の蓋を閉めた。
「紹介所で、皆で作っているものです」
凛の声で、答えた。
「手荒れに、よく効きますので」
蒼真は、厨房の中へ一歩、入ってきた。
私の手を見て、それから、壁の電話の横に貼ってある、連絡先の紙を見た。
村雨家政婦紹介所。
その下に、電話番号。
蒼真は、受話器を取った。
番号を押す指を、私は流しの前から見ていた。
呼び出し音が、静かな厨房に、小さく漏れてきた。
三回。四回。
「はい、村雨でございます」
トキさんの声だった。
「夜分に、すみません。御影ですが。そちらから来てもらってる、佐伯さんの」
「あら、社長さん。いつも凛がお世話になっております」
「いえ。……あの、柚子の、ハンドクリームのことなんですけど」
受話器の向こうで、トキさんが笑った。
「ああ、あれね。うちの登録さんは、皆塗ってますよ。家政婦の手は、荒れますからねえ。今年は、隣の柚子が早く生ったもんで」
蒼真は、黙って聞いていた。
「社長さんも、お要りようなら、一つお届けしましょうか。奥様に」
「……いえ。結構です。失礼しました」
受話器が、ゆっくりと置かれた。
蒼真は、電話の前に立ったまま、こちらを見なかった。
「澪も、作ってたんだ」
独り言のような声だった。
「冬になると。……家じゅう、この匂いがした」
あなたは、その匂いを、うるさいと言った。
クリームを塗った手でワイシャツに触るな、と。
「さようでございますか」
蒼真は、空のグラスに水を汲むのも忘れて、厨房を出ていった。
十三段目は、鳴らなかった。酔っていないあの人が、わざと踏まずに上がっていく足音だけが、吹き抜けに残った。
私は、流しの縁につかまった。
指の間で、柚子の匂いが、まだ立っていた。匂いひとつで、足元の床が抜けるところだった。
*
十時過ぎ、ゴミをまとめて、勝手口から裏へ出た。
ガレージの灯りが、点いていた。
詰所の窓の向こうではなく、建物の裏の暗がりから、声がした。
ハッカ飴の匂いがした。
ガレージの裏の、工具棚の窓の下。
スマホの画面の青白い明かりが、太い指の形に遮られて、揺れていた。
私は、ゴミ袋を持ったまま、勝手口の脇の影に立ち止まった。
「だから、話が違うって言ってんだよ」
堂島の声だった。
低く、苛立っていた。
「上場したら、もう一本って約束だった。それを今さら、金がねえだと」
電話の向こうの声は、聞こえない。
「いいか。俺は、言われた通りにやっただけだ。それを忘れんなよ」
ハッカ飴を噛み砕く音がした。
「部品は、まだ俺が持ってる。旦那が俺を切ったら、全部出すって言っといてくれ」
コメント
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うわあああ第46話「柚子の香り」、エモすぎた⋯!!😭💕 柚子の匂いで蒼真がフラッシュバックするシーン、心臓止まるかと思った!!匂いって記憶に直結するから、凛が必死に「紹介所の皆で作ってる」って言い訳するところ、ヒリヒリした〜。トキさんの機転に助けられた感、マジあったかい。 そして最後の堂島の電話!!「部品はまだ俺が持ってる」って、いよいよ核心に迫ってきたね。毎週ドキドキが止まらない展開、草原草原さんの手腕にひれ伏すわ🙏✨