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第108話 帰る場所
その日から、二人の間に小さな習慣が増えた。
帰る前に、必ず一度だけ聞く。
「今日、大丈夫だった?」
最初は少し照れくさかった。
でも、何度か繰り返すうちに、
それが当たり前になっていった。
「今日、大丈夫だった?」
「うん。今日は大丈夫」
「そっか」
そんな日もあれば、
「……今日はちょっと無理だった」
「じゃあ、少し歩く?」
そんな日もあった。
以前なら、琴葉はきっと「大丈夫」と答えていた。
律もきっと、「大丈夫」と笑っていた。
でも今は違う。
言葉にするだけで、
少しだけ楽になれることを二人は知っていた。
その日の夕方も、二人は一緒に歩いていた。
空は薄いオレンジ色に染まっている。
駅へ向かう道の途中で、琴葉が突然足を止めた。
「律」
「ん?」
「今日……あの場所、行かない?」
律はすぐに分かった。
二人が初めて出会った、あの小さな図書館。
「いいよ」
二人は予定を変えて、図書館へ向かった。
中に入ると、静かな空気が二人を包んだ。
本棚も。
窓も。
あの古いベンチも。
昔とほとんど変わっていない。
琴葉はベンチに座り、隣を軽く叩いた。
律もそこに座る。
「なんか、不思議」
「何が?」
「昔はここに来たとき、お互いの名前すら知らなかったのに」
「今は知ってる」
「うん」
琴葉は笑った。
「琴葉」
「……なに?」
「呼んでみただけ」
#恋愛
ばたっちゅ
20,092
#誓い
耀聖(ようせい)
381
「もう」
琴葉は少し照れながら笑った。
「じゃあ私も」
「うん」
「律」
自分の名前を呼ばれるだけなのに、
胸の奥が温かくなる。
昔は名前を知らなかった。
だからこそ、
名前を呼ばなくても分かるものがあった。
隣にいること。
話さなくても待ってくれること。
無理に笑わなくてもいいこと。
そして今は。
名前を知った上で、それでも隣にいたいと思える。
琴葉は窓の外を見た。
「ねえ」
「ん?」
「ここって、私たちにとって何なんだろうね」
律は少し考えた。
「帰る場所、じゃない?」
「帰る場所?」
「うん」
琴葉はその言葉を何度か心の中で繰り返した。
帰る場所。
家という意味だけじゃない。
誰かに否定されることを恐れなくていい場所。
無理に笑わなくていい場所。
「大丈夫じゃない」と言ってもいい場所。
そんな場所が、自分たちには必要だった。
「……じゃあ、これからもここを帰る場所にしよう」
「いいね」
「何かあったら来る」
「うん」
「嬉しいことがあっても来る」
「それもいい」
「何もなくても?」
「それが一番いいかも」
二人で笑った。
しばらくすると、図書館を出る時間になった。
外へ出ると、もう空は暗くなり始めていた。
駅へ向かう道を歩きながら、琴葉がふと立ち止まる。
「ねえ、律」
「ん?」
「今日、帰りたくない」
律は少し驚いた。
けれど、理由を聞こうとはしなかった。
「じゃあ、もう少し歩く?」
「うん」
二人は駅とは反対方向へ歩き始めた。
何か特別な場所へ向かうわけじゃない。
目的地もない。
ただ、一緒に歩く。
それだけだった。
少しして、琴葉がぽつりと言った。
「昔の私だったら、帰りたくないって言えなかったと思う」
「俺も」
「……変わったね、私たち」
「うん」
律は少し笑った。
「でも、変わったっていうより」
「うん?」
「戻ってきたんじゃないかな」
琴葉はその言葉を聞いて、静かに笑った。
忘れていた自分。
我慢していた自分。
誰かを守ろうとしていた自分。
全部を否定する必要なんてなかった。
あの頃の二人も、今の二人も。
全部つながっている。
「じゃあ、帰ろうか」
琴葉が言う。
「うん」
今度は二人で駅へ向かった。
帰り道の途中。
琴葉が手にしていたスマホが小さく震えた。
画面を見る。
今日撮った写真が、
一枚だけ自動的に表示されていた。
図書館のベンチ。
そこに並んで座る二人。
写真の下には、昔の自分が残した言葉があった。
――『いつか、ここに帰ってこよう。』
琴葉はその文字を見つめる。
「……叶ったね」
律も画面を覗き込んだ。
「うん」
「ちゃんと帰ってこられた」
「これからも帰ってこよう」
琴葉は頷いた。
そして写真を保存する。
今度は、忘れないためだけじゃない。
何度でも思い出せるように。
何度でも帰ってこられるように。
二人の帰る場所を、これからも残していくために。
コメント
1件
うわあ……なんか、胸がじんわり温かくなったよ。 「帰る場所」って、物理的な場所じゃなくて、無理しなくていい相手のことだよね。昔の自分が残した言葉がちゃんと叶ってるの、すごく素敵だった。 名前を知らなかった頃も、名前を知った今も、隣にいたいと思える関係って、すごく尊い。私もこんなふうに、ただ一緒にいるだけでいい場所がほしいなあ……って思った。 クラリスさんの描く関係性、いつも繊細で大好きです。本当に素敵な回だった。