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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
「埃を、払っておりました」
私はエプロンのポケットから、雑巾を出した。
灰色に汚れた面を、麗奈に向けて広げる。
「本棚の上の段は、週に二度拭くよう、言いつかっております」
麗奈の目が、私の顔から本棚へ、本棚から雑巾へと動いた。
本はきちんと並んでいる。机の上の物も、一つも動いていない。
「……ふうん」
麗奈は戸口から一歩入り、本棚の前に立った。
ネイルの先で、本の背を一冊ずつなぞっていく。
右端の、三段目で、指が止まった。
私は、息をしなかった。
「あなたさ」
麗奈は、本から指を離した。
「最初から思ってたの。この家のこと、知りすぎてない? 厨房の場所も、ムギも、卵焼きも」
「至らないことばかりで、申し訳ございません」
「そういうことじゃないんだけど」
麗奈は私の顔を、じっと見た。
それから、ふっと笑った。証拠がないとわかった顔だった。
「まあいいわ。今日はね、ネイルの予約をずらしたの。旦那様に、大事なお話があって」
*
その夜の食卓で、麗奈は切り出した。
「蒼真さん。私、犬のアレルギーみたいなの」
蒼真が、ナイフを止めた。
「最近、ずっと鼻がむずむずして、目もかゆいの。病院でね、犬の毛のせいかもって」
麗奈は、自分のお腹に、そっと手を当てた。
「赤ちゃん、そろそろ本気で考えたいでしょ? 妊活に、アレルギーってよくないんだって。……あの犬、処分してくれない?」
陽翔のスプーンが、皿の上に落ちた。
「処分って」
「保健所。引き取ってもらえるんでしょ? 前の奥さんの犬なんだし、誰も困らないじゃない」
蒼真は、少しだけ考える顔をした。
ほんの、三秒ほど。
「わかった。堂島に言っておく。来週の月曜でいいか」
「やだ!」
陽翔が、椅子から飛び下りた。
「ムギ、だめ! ムギは、澪ママの犬だもん!」
「陽翔」
お義母さまが低い声で呼んだが、陽翔は止まらなかった。
ぴょんたを床に落としたまま、蒼真の腕にしがみつく。
「パパ、だめ。ムギ、どこにもやらないで。ぼく、いい子にするから。ごはんも、ぜんぶ食べるから」
蒼真は、その小さな手をそっとほどいた。
「犬なら、また別のを飼ってやるよ。もっと小さくて、かわいいやつ」
陽翔の顔が、くしゃくしゃに歪んだ。
声を上げて泣くのを、私がこの家に来てから見たのは、初めてだった。
私は皿を下げるふりをして、テーブルのそばに立っていた。
ムギは、私が独身のころから育てた子だった。
ここへ嫁ぐとき、蒼真は「犬もいっしょに来ればいい」と笑った。陽翔が初めて覚えた動物の名前は、ムギだった。
その子を、この人たちは来週の月曜に、殺す。
「凛さん、月曜の朝、ムギの支度をしておいて」
「……かしこまりました、旦那様」
自分の声が、遠かった。
*
日曜の夜、家の灯りが消えてから、私は裏庭へ出た。
犬小屋の前にしゃがむと、ムギが鎖を鳴らして出てきた。
私の膝に、鼻先を押しつける。湿った、温かい鼻。
「ムギ」
名前を呼ぶのは、許されている。
家政婦が犬の名前を呼んでも、誰も怪しまない。
私は手袋を外して、首のまわりの毛に指を入れた。
柔らかい下毛の奥に、とくとくと速い鼓動があった。
この子を連れて、今夜のうちに逃げようか。
そう考えて、すぐにやめた。家政婦が主人の犬を連れて消えれば、それこそ終わりだ。陽翔を、この家に一人で置いていくことになる。
見上げると、二階の子ども部屋の窓に、小さな灯りがついていた。
カーテンの隙間に、くせっ毛の影が立っている。
陽翔も、眠れずに、ここを見ているのだ。
私は窓から見えないように、犬小屋の陰に体を寄せた。
ムギが、私の手首をなめた。左手の、手袋を外した手首を。
「……ごめんね。何も、してあげられない」
ムギは、尻尾を一度だけ振った。
*
月曜の朝、空は低く曇っていた。
陽翔は、お義母さまに手を引かれて、幼稚園のバスに乗せられていった。
バスの窓に手を押しつけて、最後まで、犬小屋のほうを見ていた。
私はムギの首輪にリードをつけ、犬小屋の前にしゃがんだ。
ガレージの前で、堂島の黒いセダンが待っている。トランクが開いていた。
ムギは何も知らない顔で、私の手袋をなめた。
赤いバンダナが、少しよれている。私は右手で、結び目を直した。
「家政婦さん、早くしてくれ」
堂島が、ハッカ飴を噛みながら言った。
立ち上がった。
リードを握る手に、力が入らなかった。
ムギが、私を見上げる。
右耳の、少し折れたところ。
口笛を、吹きたかった。
短く二回、長く一回。左手を下へ二度。あれをすれば、この子は安心して伏せる。ママがここにいる、と思って。
それをした瞬間、私が終わる。
しなければ、この子が終わる。
石畳の上で、足が止まった。
「その犬は、離れで預かる」
低い声が、庭の奥から聞こえた。
振り返ると、離れへ続く小径から、榊さんが歩いてきた。
白いシャツの袖をまくり、ネクタイはしていない。眼鏡の奥の目が、堂島を見ていた。
「……榊さん。こいつは、旦那の言いつけで」
「離れは、俺の名義の土地だ。犬一匹、置く場所はある」
堂島が、口をつぐんだ。
「蒼真には、俺から言っておく。保健所の予約は取り消せ」
堂島は舌打ちを飲みこみ、トランクを乱暴に閉めた。
黒いセダンが、ガレージの奥へ下がっていく。
榊さんが、私の前に立った。
「源さんから聞きました。今朝、この犬が連れていかれると」
彼は手を差し出した。
リードを渡せ、という意味だった。
私は、リードの持ち手を差し出した。
彼の指が、持ち手と一緒に、私の手袋の指先をつかんだ。
白い木綿の手袋が、少しずれていた。
さっきバンダナを直したとき、首輪の金具に引っかけたのだ。手首のほうに、隙間ができていた。
その隙間から、左手の人差し指がのぞいていた。
古い、白い傷。
榊さんの視線が、そこで止まった。
私は手を引いた。
けれど、遅かったと思う。
彼は、何も言わなかった。
リードを短く持ち直し、空いた手で、ムギの頭をひと撫でした。ムギは、唸らなかった。
「……ありがとう、ございます」
声が、震えた。
目の奥が熱くなって、私は慌てて下を向いた。
家政婦が、主人の犬のことで泣くのはおかしい。
わかっているのに、止まらなかった。
榊さんが、少しだけ身をかがめた。
私にしか聞こえない高さで、言った。
「あなたが泣くことじゃない」
それから、ほんの少し、声がやわらかくなった。
「……泣くなら、離れに来ればいい」
顔を、上げられなかった。
彼の足音が、ムギの爪の音と一緒に、離れのほうへ遠ざかっていった。
ムギは一度だけ振り返り、それから、大きな背中について歩いていった。
*
昼過ぎ、ネイルサロンから戻った麗奈は、事の次第を堂島から聞いて、玄関ホールで声を荒らげた。
「なんで、あの人が勝手に決めるの? ここ、私の家なんだけど」
蒼真は、電話越しに何か言ったらしい。
麗奈はスマートフォンを耳から離し、画面をにらみつけた。
「『離れは兄貴のだから、仕方ない』ですって。仕方ないって何よ」
それから、階段の下で雑巾をかけていた私を見つけた。
「凛さん、あなた、あの犬の散歩なんかに行かないでよ。離れには近づかないで」
「かしこまりました、奥様」
麗奈は、鼻の頭をこすった。
アレルギーだと言っていた鼻は、少しも赤くなっていなかった。
*
夕方、幼稚園から帰った陽翔に、私はムギのことを伝えた。
「ムギは、離れの榊様のところにいます。保健所には、行きません」
陽翔は黄色い帽子を両手で握りしめたまま、勝手口から離れのほうを見た。
垣根の向こうに、小さな瓦屋根がのぞいている。
「ほんと?」
「本当です」
陽翔は、しばらく黙っていた。
雨の匂いのする風が、くせっ毛を揺らした。
それから、私ではなく、離れの屋根に向かって、小さな声で言った。
「ムギ、澪ママのところに行くの?」
コメント
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うわ……第17話読み終えたよ。ムギを保健所に連れて行く朝のシーン、本当に苦しかった。陽翔が「澪ママのところに行くの?」って言ったところで涙腺崩壊しかけた。榊さんの登場、あのタイミングで「あなたが泣くことじゃない」って言えるのがかっこよすぎる。手袋の隙間から見えた古い傷、何かを知ってるのかな。麗奈のアレルギーが嘘っぽいのもムカつくし、蒼真の「また別のを飼ってやる」の冷たさにゾッとした。ムギが助かって本当によかった……次が気になる。