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九份の町が見下ろせる茶房の窓際の席で、麗は戦々恐々としながら、お茶を淹れた。
やっと、厳しいクロール特訓が終わり鬼コーチによく頑張った、やればできるじゃないか。と褒められ、麗は後で夕日に向かって走ろうと明彦コーチを誘いたくなった後。
明彦に連れていきたいところがあると言われて、タクシーに乗って、一時間。
麗が明彦の肩にもたれ、インターハイ出場をかけた追い込みのような特訓で疲れて爆睡している間に着いた街。
例の名前を言ってはいけないあの豆腐の臭いがする食べ物屋やお土産物屋が所狭しと並んでいて、色彩の派手な漢字を額にいれて売っている店もあり、足場の悪い坂を人の流れに沿って歩いていった先、大きな建物に蔦が這い、その上に赤い提灯が等間隔に並んでいた。
それは、テーマパークみたいに作り物めいていて、どこかノスタルジックで幻想的な風景だった。
その場所を見渡せる明彦に連れて来てもらった九份で最も有名な茶房で、明彦が二人分の台湾茶とお茶菓子のセットを頼んでくれると、人気商品で常に用意されているのか、すぐに2人分のセットが出てきて、一杯目は店員がお茶の淹れ方を日本語で解説しながら教えてくれる。
しかし、麗は店員の見事な手さばきに見とれるだけ見とれ、順序をちゃんと確認しなかった。
そのせいで、麗は今、なんとなくこうだったかな? で、向かい側に座る順序を覚えていそうな明彦の顔を見ながらお茶を淹れている。
「麗、そんな緊張しなくても、適当でいいだろ」
「だって……。失敗して物凄く苦くなったりしたら、息を止めて飲まなあかんくなるやん」
「そこまで酷くなることはないと思うが、その時は代わりに飲んでやる」
「ほんま? ありがとう」
麗にはお茶にまつわる辛い過去があった。
麗は何年か前、継母に勧められて飲んだ謎のお茶の恐怖を未だに忘れられないでいるのだ。
継母も不味いけど我慢よ、と言いながら健康のために飲んでいたので、麗は断れずにご相伴に預かり続けた。
これは絶対にテレビで罰ゲームに使われるお茶だと考えたくらいの代物で、本当は芸人のように口から噴射してしまいたかった。
だが、継母の好意を無駄にしないため、私は女優と心の中で唱えながら、何とか一言も発っさずに飲み続けていた。
結局、不味いものを飲むストレスの方が体に良くないと、継母と麗が毎朝不味いお茶を飲んでいることに気づいた姉が棄ててくれるまで、麗は毎日飲んでいた。
実は飲んでいた期間、ちょっと肌の調子がよかったが、不味いものを飲まなくていい解放感の方が大切だったので、麗は効果があったことを、また買おうかと残念がる継母には言わなかった。
だから、麗は何とか淹れ終わったお茶を、ちょびっとだけ口に含み、不味くないか確かめた。
「良かった、普通に美味しくできた」
先ほど店員が淹れてくれた時ほどではないが、まずまずのできである。
「良かったな」
「うん」
「麗、外を見てみろ」
窓の外は夕日が沈み初め、町中に張り巡らされた提灯が灯り、それは幻想的な風景だった。
ノスタルジックで美しい筈なのに、どこか寂しいのは、麗が寂しいからだろうか。
「どうした?」
麗はしまったと思った。
なんのリアクションもせず、だからといって見惚れているわけでもないだなんて、連れて来てくれた明彦に失礼だ。
「ごめんね。もう、旅行も終わりかと思うと何だか寂しくなってもうて」
嘘ではない。
初めての海外旅行は麗には全てが目新しく、テレビだけではわからない感動や体験があった。
国が違うというのは、臭いも目に映る色も違うとわかったことは、麗にとって発見だった。
「旅行なら来年も再来年も何度でも連れてってやる」
「……ありがとう」
来年は今ごろ何をしているのだろうか。
姉は帰ってきているのだろうか。
「信じろよ」
勿論、信じている。
明彦は父と違って本妻を蔑ろにしたりはしない。不倫だってしない。
もし、好きな人がきたとしても、麗と綺麗に別れてから付き合うよう筋は通すし、まとまったお金もくれるだろう。
解っていても居心地が悪くて麗は話を変えたくなる。
「そや、台湾でとった写真見ようよ」
明彦の大きな手が麗の口を覆った。
「麗、今俺はお前のそのとぼけたふりに乗ってやる気はない」
明彦の目が麗を捕らえている。
綺麗な目だ。左右対称で形がいい。そんな瞳の中にどこか怯えている麗が映っている。
そうだ、薄々気づいていた。けれど、気づかないようにしていた。
でも、もう逃げられない。
「俺は麗に惚れてる。だから、妻にしたし、これからは一生一緒にいる。今は俺に気がないことはわかっているが、絶対に離さない。俺だけはそばにいる。だから、素直に俺に惚れろ」
言いたいことを言い終えると明彦の手が麗からそっと離れていく。
長い指、それでいて節くれだって血管が浮いている手の甲は如何にも男らしい。
「なに言って……。アキ兄ちゃんが私を好きとか、ありえへん」
麗はしどろもどろになりながら否定した。
ずっと、可愛がってくれた人だ。明彦の人となりは十二分に理解している。
でも、だって、ずっと妹のような扱いだった。
いつだって麗にとっては優しいお兄ちゃんで、男ではなかった。明彦が麗の頭を撫でる手は親愛を伝えてくれていた。
それが、結婚してから急に、こんな風に……。
ふ、と明彦が微笑んだ。
「ずっと、愛していたよ。そのくせ、兄のようにしか思われていないこともわかっていたから、臆病な俺はずっと動けないでいたんだ。だが、今回、麗が棚橋と結婚することになって、正直かなり焦った」
明彦の手が麗の頬に触れた。
「麗が俺のことを欠片も男として意識していなかったことはわかっている」
「いや、そんなことは……えっと、アキ兄ちゃんのこれまでのお相手はキラキラした美女ばっかりで、そういう面では、遠い国の人だと思っていたというか……。いや、なんというか……」
はっきりと肯定するのは気が引け、麗はモゴモゴと誤魔化した。
「麗への感情を自覚してからは誰とも付き合っていない」
「え?」
確かに、明彦の恋人に会ったのは大学時代が最後だった。
(でも、そんな前から……?)
「それに、結婚した以上、こっちのもんだ」
「へ?」
悪役そのもののような言葉の意味を理解できないでいると、再び明彦の瞳に映った麗が見えた。
色は見えないけれどきっと、すごく赤くなっている。だって、頬が熱いから。
「逃がさないからそのつもりでいろよ」
明彦の手が顎の下に来て、くいっと顔を上げられる。
そうして、固まっている麗の唇を、明彦が奪ったのだった。