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それから、三日が経った日のこと。 研究員の夜間巡回すら終わり、研究所は深い静寂に包まれていた。深夜から明け方にかけての、最も闇が濃い時間帯。
セレンは自室のベッドで微睡んでいたが、ふと鼻腔をくすぐる異臭に眉をひそめた。焦げたような、ツンとした煙の匂い。嫌な予感に、彼は飛び起きる。廊下に出て、慌てて周囲を見渡すと、階段の方から微かに煙が漂ってくるのが見えた。
「まさか……!」
セレンは、すぐに非常事態だと悟った。彼は瞬時に冷静さを取り戻すと、机の引き出しからジップロックを取り出し、これまで集めてきた研究所の非人道的な証拠が収められたUSBメモリや書類を次々と詰め込んだ。念のために洗面台でタオルを濡らし、ジップロックごとそれらをきつく包み込む。貴重な証拠を火災から守るための、彼の反射的な行動だった。
その時、けたたましい音が研究所に響き渡った。
火災報知器の音が、二階から鳴り響く。セレンはタオルに包んだ証拠をしっかりと握りしめ、コバルトを起こしに行こうと部屋を飛び出した。廊下に出ると、煙の匂いは一層強くなり、二階へと続く階段の向こうから、炎の赤みがちらついていた。
「この痴れ者があああああ!!!」
どこかからストロン博士の怒鳴り声が聞こえる。セレンは音のする方へ駆け出して行った。
二階、所長室の前。そこには、燃え盛る炎を前に、狂ったように叫び続けるストロン博士の姿があった。彼の目の前では、所長室が真っ赤な炎に包まれ、ガラスが割れ、木材が爆ぜる音が響いている。炎は研究データが保管されていた棚を舐め尽くし、紙の束が灰となって舞い上がっていた。燃え盛る所長室の前の廊下の壁には、炭で書かれた、掠れた太い字で『From Chrom Lowell』と書き残されているのが、セレンの目にもはっきりと見えた。
「クロム……!?」
セレンは、その名前にぞっとした。クロムが関わっているのだろうか。だとしたら、これは単なる事故ではない。やはり、彼は何か企んでいたのだろうか。
「私の、私の研究が!カルシアの、カルシアの全てが……!クロムめ!八つ裂きにしてくれるわあああぁぁぁぁぁぁ!!!」
博士は膝から崩れ落ち、虚ろな目で燃え盛る部屋を凝視している。彼の顔は憎悪と絶望に歪み、血管が浮き出ていた。その隣で、カリーナが彼の腕を掴み、強く揺さぶった。
「あなた!しっかりして!何を馬鹿なことを言っているの!一斉避難指示を出してちょうだい!」
カリーナの声は、悲鳴混じりながらも、どこか凛としていた。彼女は、正気を失いかけた夫を必死に厳しく律しようとしている。博士は、カリーナの言葉に引きずられるように、ふらつきながらも立ち上がった。
ストロン博士の震える声で、研究所全体に避難指示のアナウンスが響き渡る。
「……全職員、被験者は、直ちに屋外へ避難せよ!繰り返す!全職員、被験者は、直ちに屋外へ避難せよ!」
指示が発せられると、慌ただしく研究員や被験者たちが、各部屋から飛び出してくる。混乱の中、コバルトもセレンを見つけ、駆け寄ってきた。
「セレン!無事で良かった…火事が起きたんだろう?火元はどこなんだ?」
コバルトの顔には、疲労と、状況への困惑が色濃く浮かんでいた。セレンは彼に簡潔に状況を説明した。
「火元は二階の所長室だ。それから、廊下の壁にクロムの書き置きがあった……」
その言葉に、コバルトの表情が凍り付いた。彼はクロムの顔を思い浮かべた。彼の言葉の端々にあった不穏さ、そしてあの歪んだ笑み……。まさか、クロムがこんなことを。
避難は急速に進み、研究員と被験者たちは次々と屋外へと脱出していく。しかし、避難者たちの輪の中に、クロムの姿はない。
「クロムがいない…探しに行かなければ!」
コバルトは、そう叫ぶと、炎が上がる研究所の建物へと引き返そうとした。彼の顔には、クロムを救わなければという焦燥が浮かんでいる。
「コバルト!待て!無茶だ!」
セレンは、コバルトの腕を掴んだ。しかし、コバルトの決意は固かった。
「だが、彼を置いて逃げる訳にはいかない!」
コバルトはセレンの手を振り払い、燃え盛る建物へと突入した。セレンもまた、コバルトの無謀な行動に、心配と焦りを募らせる。
「くそっ!」
セレンは歯噛みしながらも、コバルトを追って炎の中へ飛び込んだ。タオルで包んだ証拠品を、しっかりと胸に抱えながら。
煙と熱が充満する研究所の内部は、視界が悪く、呼吸も困難だった。コバルトは咳き込みながら、クロムの名を呼び続ける。奥へ、奥へと進む。
「クロム!どこだ!クロム!」
燃え盛る瓦礫の中、コバルトはついにクロムを見つけ出した。彼は、崩れ落ちた壁の隙間に座り込み、どこか安堵したような表情で炎を見つめている。サイズの合っていない作業服は煤で汚れ、黒い手袋も所々焦げ付いていた。
「クロム!良かった、無事だったか!早くここから出るぞ!」
コバルトは、クロムの腕を掴もうとした。しかし、クロムはそれを静かに拒んだ。そして、ゆっくりと顔を上げ、コバルトを見つめた。その瞳は、炎の光を反射して、ぞっとするほど冷たく、そしてどこか満足げに輝いていた。
「……コバルトお兄さん…それに、セレンお兄さんまで。どうして来たんだい?放火犯を捕まえにでも来たの?」
クロムの声は、炎の音にかき消されそうになりながらも、はっきりとコバルトの耳に届いた。
「…どういうことだ?」
コバルトは混乱した。
「どういうことかって?……簡単だよ。この火災は、僕が引き起こしたってことだ。…僕は、博士の死んだ妹の子供でね…でも、不貞の子だったから、博士は僕を忌み嫌っていたんだ。家族を壊した愚かな妹と、憎き間男の罪の証としてね。…博士は、いつも僕に言っていたよ。『お前は誰からも必要とされない存在だ。私はそんなお前を引き取ってやったのだから、お前は私に尽くして当たり前だ』ってね。そして、ことあるごとに僕を虐げ、濃き使って来た……だから僕は、ずっと準備してきたんだ。博士に、最高の形で復讐するためにね」
クロムの言葉は、淡々としていた。しかし、その内容に、コバルトは全身が凍り付くような感覚を覚えた。
「博士は、カルシアの病気を治すためだけにこの研究を続けている。だから、研究のデータも、この場所も、全て燃やしてしまえば、博士は娘を救う術を失って、娘が苦しみながら死んでいく姿をただ見ていることしか出来なくなる。そして、僕が此処で死ねば、博士は娘の仇に復讐すら出来なくなって、完全な絶望に陥る……どうだい?完璧な復讐だろ?」
クロムは、そう言うと、満足げに微笑んだ。その笑みは、狂気じみていて、底知れない闇を宿していた。
「…俺たちに夜間巡回の時間を利用させてほしいと言ったのも、このためだったのか?」
コバルトが震える声で尋ねると、クロムは平然と答える。
「あぁ、そうだよ。お兄さんたちが夜間巡回の時間を利用させてくれたおかげで、僕の計画は想像以上にスムーズに進んだ。感謝するよ」
コバルトは、自分たちクロムの復讐計画のために無自覚に協力していた事実を突きつけられ、激しく動揺した。全てが繋がった。クロムが語ったダグラス家の「呪い」の真の意味、そして彼の冷徹なまでの冷静さ。
コバルトが呆然と立ち尽くす横で、ずっと黙っていたセレンが低く呟いた。
「なるほどな。お前が何か隠してるように見えたのは、そういうことだったか」
そして彼は、コバルトの方に向き直ると、冷静に告げた。
「コバルト、戻るぞ。ここはもう持たない」
「だが、セレン!クロムが……!」
「これはクロムが望んだことだ。オレたちには止められない。行くぞ、コバルト!」
セレンは、感情的になっているコバルトを強引に引き摺った。クロムは、二人の背中が遠ざかっていくのを見届けると、ゆっくりと炎の中に座り直した。
「そうだ、これで…いいんだ……これで、やっと…」
彼の顔には、苦痛も後悔もなかった。ただ、深い安堵と、長年の憎しみから解放されたような穏やかな表情が浮かんでいるだけだった。
燃え盛る研究所から、コバルトとセレンは命からがら脱出した。夜の闇に紛れてグーレ山を降りていく二人の背後で、研究所は轟々と炎に包まれ、やがて夜空を焦がす巨大な炎の塊と化した。
炎に包まれていく研究所の中、クロムは一人、安堵した表情で、静かに目を閉じていた。長年の復讐が、今、完遂されたのだ。彼の体は、ゆっくりと、しかし確実に炎に飲み込まれていった。