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うわ……読んでて息が詰まるみたいだった。敏子さんの「あなたのため」って一言一言が、真尋さんの領地を静かに削っていく感じがすごくリアルで。特に、家計簿が空っぽになってたシーン、あの空白の描写が胸に刺さる。しかも神谷所長が「家に置いておくとなくなる」って先に鍵を渡してたのがもう……あの時点で真尋さんは無意識に備えてたんだなって思うと、切ないけど助かった。この先どう動くのか、気になる。
敏子は、土曜の昼過ぎに、スーツケース二つで来た。
「あなたのためを思って来たの。恭平が、家が荒れてるって言うから」
玄関に入るなり、敏子は靴を脱いで、まず台所に行った。冷蔵庫を開ける。
真尋は、スーツケースを和室まで運んだ。
「真尋さん」
「はい」
「卵が、二パックもあるじゃない。一人で買い物に行くと、こういう無駄が出るの」
真尋は和室の敷居に立って答えた。
「百九十八円でした。先週より二十円安かったので、二パック。賞味期限は、十二月の十日のと、十三日の。朝ごはんと、休みの日のお弁当で、月に二十個は使います」
敏子は、卵のパックを一度持ち上げて、戻した。冷蔵庫を閉めた。
「まあ、安いなら、いいけど」
結衣は、リビングのテーブルで宿題をしていた。敏子は結衣の横に座って、ノートをのぞいた。
「結衣。ピアノ、やってる?」
「やってない」
「女の子はピアノくらい習わせなさいよ。真尋さん、スイミングなんて、黒くなるだけじゃない」
「結衣が泳ぎたいと言ったので」
「子どもの言うことを聞いてたら、だめ。親が決めるものよ」
真尋は、答えなかった。結衣の隣に座って、漢字のノートの、はらいが足りない字を指した。
「結衣、ここ」
「えー」
敏子は、それをしばらく見ていた。それから立って、和室の押し入れを開けた。
「布団、こんな薄いのしかないの」
「客用は、それ一組です」
「恭平に言って、買ってもらいなさい。あなたのパート代じゃ買えないでしょうけど」
真尋は、はい、と言った。
夜、敏子は結衣を風呂に入れると言って、真尋が用意していたパジャマを「こんな薄いの」と別のに替える。結衣は何も言わずに着た。
恭平は、その日も、夜まで帰らない。九時過ぎに帰って、敏子と二十分ほど話して、風呂に入って寝た。敏子が「結衣の面倒は私が見るから」と言うのを、真尋は台所の洗い物の音の向こうで聞いた。
日曜、敏子は家の中を一つずつ見ていった。洗剤の銘柄、掃除機のかけ方、タオルの畳み方、結衣の靴の数。どれにも一言ずつあった。真尋は、聞かれたことには数字で答え、聞かれないことには答えなかった。
「パートなんて、やめなさいよ。恭平に恥をかかせて」
「十二月から、日数が増えます。月曜から金曜」
「増やすの? 恭平は知ってるの」
「まだ、言っていません」
「あなたねえ」
敏子は、何か言おうとして、結衣がいるのを見て、やめた。
月曜の朝、真尋は事務所に着いて、机に鞄を置いた。週五になって、最初の週だった。
神谷が所長室から出てきて、真尋の机の上に、小さな鍵を一つ置いた。
「ロッカーの鍵だ。廊下の奥。いちばん右」
「ロッカー、ですか」
「業務書類の保管だ。顧問先の資料と同じ扱いで、鍵のかかるところに置く。家に置いておくと、なくなる書類がある」
神谷は、それだけ言って、所長室に戻った。
大久保が、湯呟みを配りながら言った。
「所長、鍵なんて、今まで誰にも渡したことないのに」
中からは、何も返ってこなかった。大久保が笑った。
真尋は、鍵を手のひらに置いて、しばらく見ていた。
昼休み、真尋は事務所のプリンターで、スマホの写真を紙に出した。郵便受けの『302 篠原』。産婦人科の領収書。不動産の領収書。家具の領収書。内金の領収書。源泉徴収票。経費の控えの表紙。それと、通帳の写真を百六十二ページ。
四十分かかった。坪井が「それ、何の資料ですか」と聞いて、真尋は「顧問先の資料です」と答えた。神谷が、そう扱うと言った。
全部を一つのファイルに入れ、日付の順に並べ、表紙に『篠原 家計』と書いた。廊下の奥のロッカーの、いちばん右。鍵を回して、ファイルを入れ、鍵を回した。
家計簿の九冊は、家に置いてある。食器棚の下の段。紙袋二つになる厚さで、九冊目は毎晩書くものだ。それに、敏子の目の前で九冊を持ち出せば、何かを隠していると思われる。隠していると思われれば、探される。
家計簿の九冊は、家に置いてある。真尋は、その一文を頭の中でもう一度言って、鍵をカーディガンのポケットに入れた。
五時に上がって、学童で結衣を迎えて、六時前に家に着いた。
玄関に、敏子の靴がある。台所から、煮物の匂いがした。
「おかえり。遅いじゃない」
「学童の迎えがあるので、この時間です」
真尋は手を洗って、リビングに入った。家計簿を出して、今日の分を書くつもりだった。
食器棚の下の段を開けた。
空いていた。
緑の表紙が九冊、いつも左から順に立っていた場所に、何もない。段の底の、薄い埃の跡だけが、九冊分の形で残っている。
#復讐
草原草原(くさはらそうげん)

1,510
木風
791
#サレ妻
都築七美
1,141
真尋は、しゃがんだまま、しばらくそこを見ていた。
「お義母さん」
「何」
敏子は台所から出てこなかった。
「ここにあった、ノート。緑の、九冊」
「ああ。あの古い家計簿?」
「どこに」
「紙ごみに出しました。明日の朝、回収よ。古い新聞と一緒に、紐で縛って集積所に」
真尋は立った。
「全部、ですか」
「全部。こんなもの、とっておいて何になるの。九年前の卵の値段なんて、誰が見るの」
敏子は、鍋の蓋を開けて、箸で何かを確かめた。
「食器棚がすっきりしたでしょう。あなたのためを思って、やったのよ」