テラーノベル
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夜十時、雨が降り出した。
結衣は八時半に寝て、敏子は和室の戸を閉めて九時半には灯りを消した。恭平は、まだ帰らない。
真尋は、玄関で長靴を履いた。傘と、台所の鋏。古い新聞を縛る紐は、鋏でなければ切れない。
「お母さん」
階段の上に、結衣が立っていた。パジャマの上にカーディガンを着て、懐中電灯を持っている。
「どこ行くの」
「ごみのところ。すぐ戻る」
「家計簿、探すの?」
真尋は、長靴の片方を履いたまま、結衣を見上げた。
「聞いてたの」
「おばあちゃんが言ってた。わたしも行く。懐中電灯、持つ」
真尋は、一度だけ迷った。夜の十時で、雨で、七歳だ。
「靴、履いて。傘は一本でいい」
集積所は、家から五十メートルほどの、角の駐車場の脇にある。明日の朝が資源ごみの回収日で、新聞と雑誌の束が、三十ほど積まれていた。雨で、どの束も黒く濡れている。
真尋は傘を結衣に持たせた。
「お母さんの手元、照らして」
懐中電灯の光が、束の山に当たった。
真尋は、いちばん上の束の紐を鋏で切る。新聞。次の束。雑誌。三つ目。古いチラシ。緑の表紙は、どこにもない。
敏子は「古い新聞と一緒に縛った」と言っていた。真尋は、束の中で厚みが違うものを探す。新聞の束は、どれも同じ高さで平らだ。家計簿が入っていれば、どこかが膨らむ。
七つ目の束が、横から見て、少しいびつだった。紐を切る。新聞の間に、緑の表紙。
「あった」
結衣が言った。真尋は、新聞をめくって、家計簿を引き出した。一冊、二冊、三冊。濡れて、表紙が波打っている。
「お母さん、まだある?」
「ある。九冊だから」
八つ目の束に、四冊あった。
合わせて七冊。真尋は、残りの束を全部切った。新聞、雑誌、段ボールの切れ端。九つ目の束の底に、一冊。
八冊。
真尋は、八冊の表紙を順に見た。二〇一七年から二〇二二年。それと、二〇二四年、二〇二五年。
二〇二三年がない。七冊目。
もう一度、全部の束を見た。切った紐が、濡れた地面に散らばっている。緑の表紙は、もう出てこなかった。
「お母さん、ない?」
「一冊、ない」
結衣が懐中電灯で、束の間を照らした。
「おばあちゃんが、別のところに捨てたのかな」
「分からない」
真尋は、八冊をカーディガンの中に抱えて、立った。七冊目。二〇二三年。恭平の振込が減った翌年で、「立替」の欄が初めて出てきた年だ。
敏子は、家計簿を一冊ずつ見たとは思えない。「こんなもの」と言って、新聞と一緒に縛った。縛った束は三つに分かれていたから、縛るときに九冊が手元にあったかどうかも、分からない。
捨てたのなら、ここにある。ここにないなら、誰かが別のところへ持っていった。持っていったとすれば、家にいたのは、敏子と、恭平だ。確かめる手は、まだない。
切った紐と散った新聞を、結衣と二人で束の上に戻した。縛り直すことは、できなかった。
「帰ろう」
結衣は傘を真尋のほうに傾けて、懐中電灯で足元を照らした。
家に入ると、和室の戸が開いて、敏子が顔を出した。
「どこに行ってたの。こんな夜中に、子どもを連れ出して。非常識にもほどがある」
真尋は、答えなかった。
リビングの床に新聞紙を広げて、八冊を並べた。表紙を開いて、ページを一枚ずつ離す。黒い字は、にじんでいなかった。真尋の字は、全部、油性のボールペンだ。余白の赤ペンのメモだけが、少しにじんでいた。九冊目に挟んでいた保険会社のはがきと内藤の付箋は、端が濡れただけで、字は読めた。神谷の赤ペンは、カーディガンのポケットに入っていた。
「聞いてるの」
「お義母さん。七冊目を、ご存じですか。二〇二三年の」
「何を言ってるの。全部まとめて出しました」
「八冊しか、ありませんでした」
「知りませんよ、そんなの」
敏子は和室の戸を閉めた。
真尋は、結衣をタオルで拭いて、着替えさせて、寝かせた。結衣は布団の中で「八冊、あったね」と言って、すぐ寝た。
台所に戻って、真尋は、流しの前に立った。
八冊の家計簿が、新聞紙の上で乾いている。
九年、毎晩書いた。給食費の端数も、卵の値段も、恭平が「立替」と言って持っていった三万円も。それを、こんなもの、と言われて縛られて、雨に濡れた。
真尋は、流しの縁を両手で持つ。
一度だけ、泣いた。声は出さない。
二分で、顔を洗った。
#復讐
草原草原(くさはらそうげん)

1,510
木風
791
#サレ妻
都築七美
1,141
火曜の朝、真尋は八冊を大きな紙袋に入れて、事務所に持っていく。
事務室の、真尋の机の横に、見たことのない老人が座っていた。白髪で、老眼鏡を額の上に上げている。机の上に、和菓子の箱。
「おはよう。あなたが篠原さんか」
「はい」
「神谷誠一。怜司の父親です。火曜はここに顔を出すことにしていて」
先代の所長だった。大久保が「先生、お茶」と言って湯呟みを置いた。
誠一は、真尋の紙袋を見た。
「それ、濡れてるね」
「家計簿です。九年分。昨日、義母が資源ごみに出して、雨の中で拾ってきました。一冊、足りません」
誠一は、黙って紙袋から一冊を出した。二〇一九年。新聞紙をもらって、ページの間に一枚ずつ挟んでいく。慣れた手つきだった。
「帳簿は、こうやって乾かす。昔、顧問先が水に浸かったときにやった」
挟みながら、誠一は、開いたページを一枚、読んだ。
三分ほど、何も言わなかった。
「篠原さん。あなた、経理をやってたね」
「東和機工で、七年。結婚前に」
「分かる。これは家計簿じゃない。監査報告書だ。日付、金額、相手、備考。端数まで、全部、同じ桁でそろってる。給食費の下に、ご主人に渡した現金が、同じ太さの字で書いてある」
誠一は、所長室のほうを向いて、声を上げた。
「怜司。これ、全部スキャンしろ。八冊。今日中に」
扉が開いて、神谷が出てきた。
「業務時間外にやる。年末調整が先だ」
「じゃあ、業務時間が終わったらやれ」
「そのつもりだ」
神谷は、紙袋の中を一度見て、真尋を見た。
「乾くまで、ロッカーの隣の棚に置きなさい。鍵はかからないが、ここから出ていく紙はない」
結衣の迎えは、敏子に頼むほかなかった。昼に電話をすると、敏子は「当たり前でしょう。そのために来てるんだから」と言った。
五時を過ぎて、坪井が帰ったあと、神谷と真尋は、乾いた八冊を一ページずつスキャナーに載せた。大久保が、帰り支度をしてから、椀を洗って、座った。
「残業代、所長につけてもらうわ」
「業務だ」
三人で、九時までかかった。八冊、九百四十ページ。神谷は、一ページも飛ばさなかった。神谷は事務所の上の階に住んでいるので、帰る時間を気にしない。大久保は、終電の二本前で帰った。
真尋は、七冊目のことを考えていた。二〇二三年。家にいたのは、敏子と恭平。敏子は「知りません」と言った。恭平は、まだ何も言っていない。
家に着いたのは九時半だった。
玄関を開けると、和室の戸が開いて、敏子が立っていた。結衣は寝ている、と先に言った。それから、言った。
「日曜、博さんも来ます。恭平も、午後は休みを取って来る。家族で、話をつけます」
「話、ですか」
「恭平には、全部話しました」
敏子は和室の戸を閉めた。
真尋は、玄関に立ったまま、八冊を抱え直した。
全部、とは、何のことか。
七冊は、明日から事務所の棚に置く。九冊目だけ、手提げに戻した。今夜も、書くことがある。
コメント
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雨の中、家計簿を探す親子の姿がとても印象的でした。七歳の結衣が「家計簿、探すの?」って言って、一緒に懐中電灯を持って出るシーン、胸がぎゅってなりました。八冊しか戻ってこなかったのに、娘は「八冊、あったね」って言うんですよね。その優しさが沁みました。 「これは家計簿じゃない。監査報告書だ」って神谷さんの父に言われたとき、真尋さんの九年間が報われた気がして嬉しかったです。でも二〇二三年が一冊足りないままで、それが夫の「立替」の年に当たるって思うと、この先がすごく気になります…。雨の冷たさと、真尋さんの静かな涙、どちらも忘れられない一話でした。