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「お母さん、醤油とって」
次男、凌空(りく)の声に、
「はいはい。……あら、もう少ししか入ってないわね」
母の晴子(はるこ)が顔をしかめる。
「えー、目玉焼きぃ?」
今しがた起きてきたばかりの長女、紫音(しおん)は、
「私、卵焼きが好きなのにー」
緩いボーダーのシャツに、黒のルーズテーパードパンツという一見すると少しだらしなく見えるようなラフな格好をしながら、すました顔をして糠漬けに箸を伸ばしている母を睨んだ。
「あら、不満があるなら食べていただかなくて結構よ。私が若い頃なんて、20歳を過ぎたら自分でご飯くらい準備してました」
そう言いながらニンジンの糠漬けを箸で摘まんで口に入れた母は、コリコリと小気味のいい音を鳴らした。
「何十年前の話してんの?」
ダイニングテーブルに腰掛けながら紫音が鼻で笑ったところで、
「25年前かな。俺が生まれた頃だろうから」
キッチンに男が入ってきた。
紫音が上げた悲鳴のような声に、次男の凌空も、新聞を読んでいた父親の健彦(たつひこ)も顔をしかめる。
「何!?いつ帰ってきたの?」
紫音は立ち上がると、5つ上の長男の腕に絡まった。
「昨日の夜中だよ。飲み会が近くであったから、泊まらせてもらったんだ」
長男の輝馬(てるま)は、妹の熱烈な歓迎に苦笑しながら冷蔵庫を開けてペットボトルのミネラルウォーターを取り出した。
「ええ?そんなの聞いてなーい!」
長女が振り返って母を睨むが、彼女は知らんぷりで今度は大根と油揚げの味噌汁を啜っている。
「ねえねえ、一緒に朝ごはん食べようよ!」
長身の兄を覗き込むと、彼はキャップを開けて中の水を口に流し込んでから片目を細めた。
「悪いけど二日酔いで。それに昨日、母さんがお茶漬け作ってくれたから結構お腹いっぱいなんだよね」
その言葉に高校生の凌空がチラリと視線を上げて母を見るが、晴子は何も聞こえなかったようにただ咀嚼を繰り返している。
「ねえ、今度帰ってくるときはちゃんと事前に教えてよ?私だってお酒飲めるようになったんだから!いくらでも付き合えるんだからね?」
「はいはい」
「ホントだよ!私、結構強いんだから!なんなら今度の休みにでも――」
「……しーおーん」
黙っていた母がすうっと息を吸って長女を睨んだ。
「あなたはお兄ちゃんにベタベタするんじゃなくて、ちゃんとした彼氏でも探しなさい!いい大人なんだから。男の一人や二人知っておかないと、将来ろくな男を選べないわよ!」
「……………」
晴子がそう言うと、紫音は長い髪をボーダーのシャツに滑らせながらゆっくりと振り返った。
「…………」
健彦の箸が止まる。
「…………」
凌空が視線を上げて母親を見つめ、
「…………」
晴子が黙って麦茶を飲む。
「……っ」
輝馬が肘で長女をつつき、
「……?」
紫音が長男にとぼけた視線を送る。
全員が言いたい言葉を飲み込んだまま、
今日も市川家の一日が始まった。
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