母親が淹れたコーヒーを飲みながら、輝馬はネクタイを締め、誰にともなく言った。
「そういえば、隣って誰か引っ越してきたの?」
その問いにいち早く答えたのは隣に座った紫音だった。
「そうなの!30前後のイケメン!しかも独り身!」
「は?独り身?」
輝馬は眉間に皺を寄せた。
「こんなファミリー向けの間取りで?」
この高層マンションはエレベーターを境に東棟と西棟に分かれており、市川家や隣の部屋を含めた西棟は4LDKの家族向けのつくりとなっていた。
「……それってさあ、なにかヤバい商売に部屋を使ってるとかじゃないだろうな」
輝馬は少し馬鹿にしたように鼻で笑った。
「よくあるじゃん。詐欺師たちがマンションとかアパートの部屋を借りて電話かけまくってるとか。マルチ商法の説明会にマンションの一室が使われるとかさ」
そう言いながらコーヒーに口をつけ、少しだけネクタイを緩める。
いつのまにかそういう大人な仕草が似合うようになってしまった輝馬に、一抹の寂しさを覚えるとともに、この美麗な輝馬が自分の兄なのだと、誇らしい気持ちになる。
(……私に20年間彼氏ができないのは、絶対にお兄ちゃんのせいだ!)
紫音はそう思いながら自分はコップの牛乳を飲み干した。
「とにかく気を付けろよ。妙なことがあったらすぐに俺に相談しろ」
(だってこんなにかっこいい……!)
紫音がうっとりと頷くと輝馬は、
「凌空もな」
次男の方も向いた。
「てか」
凌空は輝馬には頷きながら、横目で父親の方を睨んだ。
「普通、こういうのって父親が言うべきなんじゃないのー」
その言葉につられて紫音が横目で睨むと、新聞片手にコーヒーを飲み終えた健彦は立ち上がった。
「行ってくる」
「あ、はい」
晴子が立ち上がり見送りに出る。
「あーあ。見送りなんてしなくていいのに」
紫音はテーブルに頬杖をついた。
「ママはどうしてあんなのと結婚したんだろ」
輝馬は、紫音の言葉に賛同こそしなかったが、否定も咎めもしなかった。
玄関ドアが閉まる音がして、しばらくしてから脱衣所のドアを開く音が続いた。
「ねえねえお兄ちゃん、今夜も泊まっていきなよ!」
顔を寄せると輝馬は後頭部を掻きながら言った。
「今夜は難しいな。明日の朝、会議だから会場準備しなきゃいけないし」
「ええ。そうなのー?」
紫音は長い髪を垂らしながら大袈裟に残念がって見せる。
「お兄ちゃんの部署はどんな仕事をするところなの?」
「………」
またその話かと、 兄がうんざりしているのがわかる。
兄は、一流大学を卒業後、大手ゲーム会社に就職した。
妹の紫音が見た限りでは、高校の時も大学の時も“それなり”にテレビゲームやスマホゲームはしていたが、そこまで入れ込んでやっていた記憶はないのに、就職合戦を突破して、超難関と呼ばれる会社に現役で内定した。
だからこそ興味がある。
兄がどうしてそんな一流ゲーム会社に入社できたのか。
兄は何の仕事をしながらどんな毎日を過ごしているのか。
そこに、自分の漠然とした未来への不安を払拭するする糸口が隠されているかもしれない。
「だから、前にも言ったけど俺は企画部だよ。どんなゲームがあれば面白いとか、狙うターゲットは今どんなことにハマってるか、どんなアプリをダウンロードしてるかとかそういう調査」
兄が面倒くさそうに答える。
なるほど。リサーチと研究。
それなら求められるのはゲームについての知識じゃなくて、解析力と推理力だ。
頭のいい兄にならきっとそれができるのだろう。
どうやら高校時代の成績で偏差値40を割る自分には参考にならなかったようだ。
「はあああああ。結局、脳みそかあ」
叫ぶ紫音を、
「なんだそれ」
兄が笑う。
(あとは顔。絶対的に、顔)
綺麗な笑顔を疎ましく思う。
兄はこんなに美しく生まれたのに、どうして自分は顔面の偏差値でさえも40を切るのだろう。
同じ遺伝子、同じ環境で育ったのに、どうしてーー。
「紫音、食べ終わったなら流しに運ぶくらいして」
脱衣所から戻ってきた母が、兄のものだと思われるシャツとパンツまで綺麗にたたみ、手渡しをしながら言った。
「なんで私にだけ言うのー?」
「凌空は何も言わなくても自分で運ぶの!」
母は……美人だ。
こんなに顔を引きつらせて睨んでいても。
46歳にはとても見えないほど若々しい肌。抜群のスタイル。
まるで宝塚の女役のような大きな目、整っている控えめな鼻にピンク色の唇。
白髪の混じらないロングの髪に、くっきり浮き出た鎖骨。
母に似たらどんなに人生勝ち組だったかわからない。
現に母の鼻と唇をそのままもらったかのような兄は、眉目秀麗で学生時代からファンクラブができるほどモテていた。
「姉ちゃん、もうバスの時間じゃないの?」
塩鮭を箸で弄っている凌空が視線を上げないまま言う。
「乗り遅れて電車に乗ってこないでよね。俺、この間めちゃくちゃ恥ずかしかったから」
「……どういう意味よ」
紫音は3つ下、高校2年生の弟を睨んだ。
大してイケメンでもないくせに、切れ長の綺麗な目だけは兄と似ている。
小さくて丸い父の目とは違う。
大きくて派手な母の目とも違う。
じゃあ、2人のこの目は……?
(……はは。マジ笑えないって)
言葉とは裏腹に紫音は笑いながら立ち上がり、皿を流しまで運んだ。
父だけではなく母まで不倫するような人間だったら、
本気の本気で笑えない。
「いってきまーす」
ソファの上に投げておいたタブレットケースを持ち上げた。
「持ち物、それだけか?」
驚いたように輝馬が見下ろした。
「そうだけど。私キャラデザコースだから」
ペンで描く真似をしながら紫音が言うと、
「そっか。楽しそうだな」
兄は少しだけ羨ましそうに笑った。
玄関ドアを触る前に、ポケットからハンカチを出して、ドアノブを覆う。
そしてドアを開けると、後ろ手にしめてため息をついた。
母は嫌い。紫音にだけ口うるさいから。
弟も嫌い。ネクラのくせに紫音を馬鹿にしてるから。
そして父は………。
あの事実を知ってから、ずっと嫌い。
(……結局私にはお兄ちゃんだけなんだ)
12階の廊下から見える青空を眺めながら、少しだけセンチメンタルな気持ちになる。
(私とお兄ちゃんだけ残して、あとは死んじゃってもいいのに)
「あれ」
振り返ると、そこにはーーー。
「今から学校ですか?」
黒髪に色白な肌。
白シャツにジーンズを履いた爽やかな男が立っていた。
「あ、お隣さん」
間抜けにもそんなことを言ってから慌てて手で口を塞いだ。
「はは。“お隣さん”の城咲(しろさき)です」
男は軽やかに笑うと、自分の部屋のドアにカギを掛けた。
「ええと、市川さんの家の――」
「あ、紫音です」
兄の忠告のことなど忘れて思わず軽々と名乗ると、
「紫音さん」
彼は少しだけ目を見開いたあと、すぐに微笑んだ。
「素敵な名前ですね。女優さんみたいだ」
そう言いながら彼は廊下を歩き出した。
「…………」
その動作がいたく自然で、紫音は何の迷いもなくその広い背中に続いて歩き出した。
◇◇◇◇
「紫音さんは大学生?」
エレベーターに乗った城咲は1階のボタンを押すと、肩越しにこちらを振り返った。
「専門学生です。美術系の」
「ああ。もしかして、辰巳(たつみ)美術専門学校?」
「あ、はい」
頷くと城咲は「ふーん」と頷きながら視線を戻した。
「勤めている店が近くなんだけど、よく画材や陶芸粘土なんかを買いに学生さんがくるから、そうかなって」
「へえ」
(店……か)
画材屋さんなのだろうか。それとも文房具屋とか。
しかし引っ越しの挨拶できたときに一度言葉を交わしただけの、ほぼ初対面の歳の離れた男性にそこまで聞くのは気が引けて、紫音は口を結んだ。
それに……。
紫音は、長身の兄よりももう少しだけ背の高い男を斜め後ろから見上げた。
初めて会った時もイケメンだと思ったが、やはりこうして近づいてみて、言葉を交わすとさらにその印象は強くなった。
兄のようにすれ違う女性が思わず振り返るような派手さはないが、嫌味のないサラッとした清潔感がある。
「そうだ。送っていきましょうか?結局同じ方向だし」
城咲はポケットから車のキーを取り出して言った。
「あ……」
(え。ベンツ……?)
紫音はスマートキーに輝く3本の光を示すマークを見つめて口を開けた。
そこでやっと、兄の忠告を思い出す。
隣人とは言え、ほとんど知らない男性。
しかも体格差は、身長30㎝近く、体重は20㎏はありそうだ。
しかも車という密室に乗るだなんて……。
「いくら何でもそれは出過ぎた真似ですね」
紫音が何か言う前に、城咲はふっと笑った。
「僕、ブルーバードで働いているんです。画材とか用紙とか、何か必要なものがあれば寄ってください。サービスしますよ」
城咲はそう言って爽やかに微笑むと、開いたドアから駐車場に向けて歩いて行ってしまった。
ブルーバード。
学校から南に徒歩五分の場所にあるホームセンターだ。
背格好が少し似ているからだろうか。
無意識に兄と比べてしまう。
かたや大手ゲーム会社の企画部勤務。
かたやローカルなホームセンターの店員。
(同じイケメンでも、やっぱりお兄ちゃんとは違うな)
その後ろ姿を目で追いながら、紫音はふうっと息を吐いた。
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