翌朝、早めに仕度を終えた沙羅は、ビジネスホテルをチェックアウトした。
駅のコインロッカーに手荷物を預け、身軽になると、軽やかに歩き出す。
「今日も暑くなりそうだなぁ」と、空を仰ぐ。
抜けるような青空を背景に木組みの鼓門が美しく映えている。思わずスマホを取り出しシャッターを切った。
撮ったばかりの写真を、スマホの画面で確認した沙羅は満足気にうなずく。
「ふふっ、良く撮れてる。美幸に送ってあげよう」
さっそく、メッセージアプリを呼び出し、ポチポチと打ち込む。
『おはよう。そっちはどう? お母さんの夏休みは、快晴です』
写真を添付してメッセージを送信、直ぐに既読になり返事が送られてくる。
『お母さん、おはよう。今日は、なっちゃんとプールに行くよ。こっちも晴れ!』
そんなメッセージと共に、笑顔の写真が添えられている。
朝から元気いっぱいの様子に、沙羅は目を細めた。
大学進学をする際に自分の希望とは違う学校を選択しなければならなかった過去がある。
もしも、自分の希望する大学に進んでいたなら……と、考えた事は数えきれない。
だから、美幸が進学したいと希望している学校があるなら、悔いの残らないように全力でサポートをしてあげたいと思う。
妻として不倫をした夫との離婚届けを出したのは、間違いではなかったはずだ。
けれど、母として離婚届けを出したのは、正しかったのだろうか。
子供から父親を奪う事になる。それに、生活も今までと比べて困窮するだろう。
子供の事を考えたら、我慢して婚姻関係を続けた方が良かったのでは無いだろうか。
親権を主張したけれど、自分ひとりさえ、食べていけるのか目途もつかない状況で、娘とふたり暮らしていく事が出来るのか、自信がない。
「親権を欲しがったのに、生活出来ないなんて、言ったら酷い親だよね……」
「はぁ、ほんとメンタル弱っているんだなぁ」
まだ、東京で職探しもしないうちから、弱気になっている自分を叱咤するように、パチンと両手で頬を挟んだ。
「さあ、朝ごはんに美味しい物を食べて元気出そう!」
さっそく近江市場へ向かう。
金沢の台所と言われる近江市場は、約170のお店があり、品数豊富。とにかく新鮮な食材が揃っていて、かまぼこや惣菜、漬け物など自家製品も充実している。
活気のある雰囲気は、歩いているだけでも楽しい。
ホテルでもらった観光パンフレットを片手に、キョロキョロと探索を始めた。
昔、母に連れられて買い物に来た時に、立ち寄った魚屋さんを見つけたり、新しく出来た食堂の大盛り海鮮丼の豪快な看板に目を白黒させたり、道行く人と行き交いながら、のんびりと歩く。
「こんなにゆっくり、お店屋さん見るの、久しぶりだな」
専業主婦は、時間があると思われがちだが、家事や育児に追われ、自分の時間は隙間にしか作れない。
買い物にしても、家族のための食材に足りなくなった調味料、それに日用雑貨を買えば、両手いっぱいに塞がれ、夕飯の時刻に間に合うよう、急ぎ足の作業だ。
何かの手続きで役所や銀行に寄ったりすれば、さらに時間を取られ、追われるように一日が過ぎて行く。
自分のために使えるまとまった時間を取り難い。
美容室やネイルに行くのにだって、時間もお金も掛かる。
それを惜しんだ結果、片桐にオバサンと馬鹿にされたのだ。
主婦として、家庭を守るために一生懸命尽くして来た事は、間違いだったとは思えない。
でも、女として努力して居たかと問われれば、足りなかったとしか言いようがない。
世の中には、綺麗にしている主婦だっている。
それなのに、ほとんどスッピンの薄化粧で、着ている服もラフな物ばかり。
若くて綺麗な女の子と比べたら、太刀打ちできない。
疲れたオバサンか、若くて綺麗な女の子のどちらを選ぶかなんて、世の男性なら十中八九、若くて綺麗な女の子だろう。
「不倫された方にも原因がある……か……」
ピンクのグラデーションにネイルされた指先を見つめる。
よくよく考えたら、オシャレに気を使っていても、政志は不倫をしたと思う。
彼の言った通り「若い子に言い寄られ、舞い上がってしまった」のだから。
落ち込んでいるせいか、思考が負のスパイラルから抜け出せない。
ひとりになると考え込んでしまうのは、離婚して間もない状態なのだから、仕方がないとわかっている。
「時薬」という言葉がある通り、過ぎて行く時間が薬になるはずだ。
気を取り直して、朝ごはん代わりに「金沢おでん」のお店に立ち寄る。四角いおでん鍋の中から、くるま麩やれんこん団子をチョイスして、お店の片隅にあるベンチに腰掛け、パクつく。
くるま麩を口に入れると、だし汁がじゅわっと染み出し旨味が広がる。れんこん団子は、シャクシャクとした食感が小気味いい。
懐かしくて、優しい味に落ち込んでいた心が浮上する。
「お腹空いているとネガティブスパイラルに入るのね。ヨシ! デザートもたべなきゃ」
女性の美容に良いとされている豆乳を使ったスイーツ店を見つける。
元々は、お豆腐屋さんという専門店で、搾り立ての豆乳と市場の新鮮な季節のフルーツが使われている。
いろいろあるメニューの中から、ブルーベリーのスムージーを頂いた。
体に沁み込むような優しい味わいで、美肌効果を期待してしまう。
だいぶ元気が戻った所で、沙羅のスマホが、着信を告げた。
画面を見れば、昨晩、電話をした履歴のある番号からだ。
履歴のある番号といって思いつくのは、慶太だ。彼からの着信に、沙羅はトクトクと鼓動が早くなる。
「おはようございます」
『おはよう、沙羅。迎えに来たよ』
電話越しに、優しい声が聞こえた。
その声を聞いただけで、さっきまでの落ち込んだ気持ちが、ふわりと浮上し始め、自然と笑みが溢れる。
「いま、近江市場に居て、豆乳スムージーを飲んでいるの」
『金沢駅通りを行くから、市場を出た所の道沿いにコンビニがあるのわかる?』
「わかると思う」
『じゃあ、そこで』
通話が切れると、沙羅は足を早め、アーケードのある近江市場から通りに出る。
まだ、午前中だというのに、夏の強い日差しが沙羅を照りつけた。
通りには、車が行き交い。アスファルトから熱気が立ちのぼる。
「コンビニって、どこだろう」
ハンカチでパタパタと襟元を扇ぎながら、指定されたコンビニを探すと、通りの斜向かいに白地に青のラインが入った馴染みのある看板を見つける。
横断歩道を渡るのに、赤信号が青信号に変わるのを今か今かと待ちわび気が急いだ。
青信号になると、小走りに渡りきる。コンビニの前に着く頃には、軽く息が上がっていた。額や首筋に浮き出る汗を抑えながら、通りを走る車を一台一台、目で追いかけてしまう。
すると、濃紺のセダンがウインカーを立てて、目の前に停まる。
運転席から慶太が降り立った。黒のデニムに白いサマーセーター、シンプルな装いなのに背の高い慶太によく似合っていて、思わず見惚れてしまう。
「おまたせ、さあ、乗って」
助手席のドアを慶太が開き、「どうぞ」と招かれる。
「ありがとう」と、沙羅は慣れないエスコートに少し緊張しながら、高級感のある革のシートに腰を下ろした。
運転席に座った慶太から、爽やかな柑橘系の香りがふわりと漂う。
近い距離にふたりきり、それを意識してしまうと、空調の効いている車内なのに、沙羅は顔が火照って暑く感じる。
「昨日は、ごちそうさまでした。美味しい物たくさん食べて、幸せ気分でした」
「いや、俺も楽しかったよ。今日も、美味い物食べよう」
「ふふっ、|金沢《こっち》で美味しい物食べ過ぎて、東京に帰ってから体重計に乗るのが怖くなりそう」
「それで、何キロだったか、わかったら報告して」
そう言って、慶太がニヤリと口角を上げた。
「えっ⁉」
と、沙羅は一瞬固まってしまう。そして、隣を見ると慶太が肩を揺らして必死に笑いをこらえていた。
「もう、慶太ってば、揶揄ったのね。女性に体重を聞くなんてマナー違反!」
「あはは、ごめん、ごめん」
よっぽど楽しかったのか、慶太は目尻を下げ、まだ笑っている。
「あっ、呼び捨てにして、ごめんなさい」
沙羅は自分の失言にハッとして口を押えた。
「ん、いいよ。昔みたいに名前で呼んでくれたら嬉しい」
慶太はハンドルにもたれ掛かるようにして、切れ長の綺麗な瞳で沙羅を見つめた。
その吸い込まれそうな視線に耐え切れず、沙羅は視線を逸らす。なぜなら、慶太の事を知らず知らずのうちに、意識している自分を見つけられるのが怖かったから。
「……これからは、名前で呼ばせてもらいます」
沙羅は小さな声で返事をして、顔を見られないように窓の外に視線を向けた。
その沙羅の耳が赤く染まっている事に気付いた慶太は口元を緩める。
「じゃあ、出発しようか。先ずは、美術館から」
サイドブレーキを外し、ふたりを乗せた車は滑らかに走りだした。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!