テラーノベル
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第293話 父が託した鍵
【現実世界・雲賀家/午前】
ハレルは食卓に置いたノートを開いたまま、胸元のネックレスへ指をかけていた。
小さなカメラの形をした飾り。
以前なら、それ以上のものには見えなかった。
父からもらったものだから身につけていた。
ただそれだけだったはずなのに、今ではこれ一つが何度も二つの世界を繋ぎ、人の存在を固定し、帰還の中心にまでなった。
主観測鍵。
主鍵。
その向かいに座る匠が、ネックレスを見ながら言った。
「昨日の続きだったな」
「うん」
サキも隣の椅子へ座る。
「私も聞く」
「そのつもりだ」
匠はまだ長く立っていると疲れるらしく、椅子の背へ身体を預けていた。
顔色も完全には戻っていない。
それでも昨日までより声には力がある。
ハレルは最初から決めていた質問を口にした。
「これ、父さんが作ったんだよね」
「ああ」
「白峰じゃなくて?」
「違う」
匠の返事ははっきりしていた。
「主鍵を作ったのは俺だ。白峰は直接関わっていない」
ハレルは胸元のネックレスを見る。
「じゃあ、そもそも何のために作ったの?」
匠は少し考えてから答えた。
「門を開くためじゃない」
「え?」
「今は帰還にも接続にも使っているから勘違いしやすいが、本来の役割はもっと単純だ。観測して、残す。こっちにいる人間が向こうへ触れても、その人間が何者だったのかを見失わないようにする」
サキが首を傾げる。
「見失う?」
「境界を越えると、身体だけじゃなく記録までずれることがある。名前、位置、存在したという事実そのものまでな」
ハレルはこれまで見てきたものを思い出した。
名前を失った人。
身体と意識が別々の場所へ残された人。
本来いた世界の記録から消えた人。
クロスゲート社の中で、最初からいなかったことにされた人間までいる。
「だから観測鍵……」
「ああ。世界のどちら側にいても、“同じ人間がここにいる”という基準を残す。その中心になるのが主観測鍵だ」
匠はそこで一度言葉を切った。
「ただし、あれ一つで何でもできると思うな。帰還までできるようになったのは、あとから集まった技術や人間があったからだ。俺が最初から全部を想定して作ったわけじゃない」
ハレルは頷いた。
エリウスの案内層。
アデルの副鍵。
ダミエの結界。
ノノの解析。
セラ。
re。
現実側の固定座標。
今の帰還は、その全部が重なって成立している。
では、もう一つの疑問。
「何で俺に渡したの?」
匠の視線が上がった。
サキも黙る。
「父さんが持ってればよかったんじゃないの?」
「それができなくなったからだ」
「どういうこと?」
「俺がクロスゲートを調べていたのは知ってるな」
「うん」
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「調べれば調べるほど、俺自身が見られている可能性が高くなった。会社の内部だけじゃない。こっちでは説明できない側からもだ」
「カシウス?」
「後になって分かった名前だ。当時はそこまで掴んでいなかった。ただ、俺が何を持っていて、どこまで調べたのかを知ろうとしている存在がいることは分かった」
匠はハレルの胸元を見る。
「俺が主鍵を持ったまま捕まれば、それで終わる。奪われる可能性があった」
「だから俺に?」
「ああ」
ハレルは眉を寄せた。
理解はできる。
だが、納得とは別だった。
「でも、それって俺を巻き込むことになるだろ」
匠は否定しなかった。
「そうだ」
ハレルが顔を上げる。
予想していた言い訳が返ってこなかったからだ。
匠は続ける。
「正しい判断だったとは言わない。お前には何も説明しなかった。その上で持たせた」
「……」
「ただ、あの時の俺は、主鍵をクロスゲート側へ渡さないことを優先した。普通の機械に見える形にして、お前が普段から持っていても不自然じゃないようにした」
サキがネックレスを見る。
「それでカメラの形なの?」
「ああ」
「お兄ちゃんが使うことまで考えてた?」
匠は首を振った。
「使わないで済むなら、それが一番だった」
ハレルは、その言葉に少しだけ力を抜いた。
自分が主鍵を使い、異世界へ渡り、何度も境界を越えることまで父が計画していたわけではない。
「じゃあ、父さんがいなくなったあとも、俺が持ってればいいと思っただけ?」
「それだけじゃない」
「まだあるの?」
「もし俺が戻れなくなった時、お前たち自身の存在を守れる可能性が残る」
匠はサキも見た。
「それが必要になるかどうかは分からなかった。ただ、何も残さないよりはよかった」
ハレルはしばらく答えなかった。
父親が消える前。
何も知らずにネックレスを受け取った自分。
その時、匠がどこまで危険を感じていたのか。
今になって初めて、その重さが分かった。
◆ ◆ ◆
昼過ぎ。
城ヶ峰と木崎、日下部が雲賀家を訪れた。
昨日クロスゲート本社から復元された古いログについて、匠本人に確認するためだった。
木崎がリビングへ入るなり、匠を見る。
「今日は起きてて大丈夫なのか」
「医者には短時間ならな」
「なら短時間で済ませるぞ。倒れられたらこっちが怒られる」
「誰にだ」
「全員にだよ」
城ヶ峰が横から資料端末を置いた。
「始めるぞ」
「ああ」
古いプログラム記録を開いた。
《反記録プログラム_ProtoType》
《authored by TAKUMI.K / Y.K.》
ハレルには、もうその意味が分かっていた。
「柏木先生だよね」
「ああ。柏木陽介だ」
匠が答える。
以前にノノと匠からすでに聞いている。
ハレルの主鍵を基に、匠と柏木が一つの複製観測鍵を作った。
それが後に壊れ、残された二つの大きな欠片がリオとアデルの副鍵になった。
今さら確認したいのは、仕組みではない。
「何で、柏木先生ともう一つ作ったの?」
匠は少し黙った。
「主鍵一つでは足りないと思ったからだ」
「予備?」
「それもある。ただ、本当の目的は観測結果の比較と補正だった」
匠はハレルの胸元の主鍵を見る。
「一つの鍵だけで世界を観測していたら、その鍵自体がずれた時に気づけない。だから同じ基準を持つ別の観測点が必要だった」
日下部が言う。
「基準器と比較器、ということですか」
「近い。主鍵を中心にして、複製側とのずれを見る。それが最初の目的だった」
木崎が腕を組む。
「その複製が壊れて、今の二つの副鍵になった」
「ああ」
ハレルはリオの右手首を思い浮かべた。
元は一つ。
だが、壊れて二つに分かれ、それぞれ別の使われ方をしてきた。
だから、アデルの正常な副鍵をそのままリオへ写しても直らない。
それも、もう知っている。
ハレルが聞いた。
「明日直す時も、前に言ってた方法?」
「そうだ」
「主鍵の基準波形と、複製鍵を作った時の調整値。それからリオ側の昔の反応」
匠が頷く。
「それを重ねて、ジャバに壊される前のリオ側まで戻す」
「複製鍵そのものに戻すんじゃなくて」
「今のリオの副鍵を直す」
ハレルは頷いた。
そこは、もう間違えなかった。
日下部が言う。
「反応記録はノノ側にも残っています」
「全部あるなら十分だ」
木崎がもう一度資料を見る。
「柏木も、これを直せたのか?」
匠の目が少し止まった。
「あいつが生きていればな」
それ以上は誰も聞かなかった。
柏木はもういない。
だから今、完全な修復方法を知っている人間は
匠だけだった。
日下部は次に昨日クロスゲート本社から見つかった古いログを開いた。
《BOUNDARY RESPONSE》
《SUBJECT》
《SYNC》
《TRANSFER RESPONSE DETECTED》
匠はしばらく画面を見ていた。
「……やっぱり残ってたか」
木崎が眉を上げる。
「知ってるのか?」
「全部じゃない」
匠は画面を拡大した。
「ただ、この言葉の使い方には覚えがある」
城ヶ峰が聞く。
「何の実験だ」
「境界を観測するだけの実験じゃない」
匠の指が、《SUBJECT》の文字で止まった。
「人間を使って、意図的に境界反応を起こそうとしていた実験だ」
ハレルの表情が変わる。
「人を……転移させようとしてた?」
「その可能性が高い」
「可能性?」
「当時の俺は、実験そのものを見たわけじゃない」
匠は首を振った。
「白峰が、偶然起きる境界現象を人為的に再現しようとしているところまでは掴んでいた。だが、誰を使ったのか。実際にどこまで成功したのか。そこまでは突き止められなかった」
日下部が表示を見直す。
「では、この《TRANSFER RESPONSE DETECTED》が本当に人間の転移を意味するかどうかも?」
「当時の俺には確認できなかった」
匠は少し間を置いた。
「ただ今なら、この表記を軽く見る気はない」
木崎が画面を見る。
「今まで見つけてきた連中がいるからか」
「ああ」
高瀬。
悠真。
三浦。
長谷川。
リーネ。
レグナ。
偶発的に世界を越えた者。
意識だけが残された者。
身体ごと別の世界へ移った者。
それらが現実に存在した今では、この古い記録に書かれた《TRANSFER》という一語の意味も、以前とは違って見える。
城ヶ峰が聞いた。
「白峰に直接聞けば分かるか」
「たぶんな」
匠の声が少し低くなる。
「あいつが答えるなら、だが」
◆ ◆ ◆
城ヶ峰が、もう一つの資料を開いた。
《白峰律》
「こいつとは、どこから始まった」
匠は画面の名前をしばらく見ていた。
「大学にいた頃からだ」
ハレルは父の机にあった写真を思い出す。
若い父親と、その隣に立っていた眼鏡の男。
「友達だったんだよね」
「ああ。それに、研究仲間でもあった」
当時の白峰はすでにプログラムの才能を突出させていた。
既存の言語だけでは満足せず、自分で新しい言語まで作ろうとしていた。
扱おうとしていたのは、単なる数字や文字列ではない。
名前。
座標。
観測。
情報の階層。
目には見えなくても、そこに存在するものを情報として固定できないか。
「最初から危ないことをしてたの?」
サキが聞く。
「いや」
匠は首を振った。
「少なくとも、俺が一緒にいた頃のあいつは違った」
そこで匠の声が少し変わった。
「変わったきっかけがある」
ハレルが父を見る。
「何?」
匠はすぐには答えなかった。
「事故だ」
「事故?」
「白峰は、大事な家族を亡くした」
サキが口を閉じる。
「それからだ。あいつが、今までとは違うものを調べ始めたのは」
神。
怪物。
死者の世界。
この現実とは重ならない別の層。
昔なら伝承や迷信として片づけられていたものまで、白峰は片端から調べ始めた。
木崎が聞く。
「死んだ家族を取り戻そうとした?」
「最初から、そこまで言っていたわけじゃない」
匠は答えた。
「だが、だんだん変わっていった。
“死んだから終わりだと、なぜ決められる”“観測できないだけで、別の場所に残っている可能性はないのか”――そんなことを言うようになった」
ハレルは黙って聞く。
「その先が……」
「失われた人間を、別の層から取り戻す」
匠が言った。
「それが白峰の目的になった」
◆ ◆ ◆
夕方。
玄関のチャイムが鳴った。
サキが出る。
少ししてリオがリビングへ入ってきた。
「邪魔する」
「ちょうどいい」
匠が言った。
リオが眉を寄せる。
「何が?」
匠の視線はリオの右手首に向いていた。
袖の下。
亀裂の残った副鍵。
帰還後も損傷は変わっていない。
戻る前にもその亀裂が残ったまま現実側へ固定されたことが確認されている。
「腕を見せろ」
リオが袖を上げる。
黒い亀裂。
光の通らない一本の経路。
匠はしばらくそれを見てから言った。
「明日、直す」
リオが一瞬黙る。
「本当に直るんですか」
「ああ」
「アデルの副鍵なしで?」
「参考値は使う。だが、あれを写すわけじゃない」
匠はハレルへ一度視線を向けた。
胸元には本物の主観測鍵。
「こいつを基準にする」
そしてリオの腕輪を見る。
「元の複製鍵には戻さない」
亀裂の向こう。
かすかに残る光が揺れた。
「お前の副鍵として」
匠は言った。
「壊れる前まで戻す」
リオは右手首を見下ろした。
長く、一本だけ死んでいた光の道。
それがようやく。
修復される時が来ていた。
コメント
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おおお…ついに来たか、リオの副鍵修復の流れ! 匠が主観測鍵を作った“本当の目的”と“父としての判断”が重なって、めちゃくちゃ胸に来たわ。 「正しいとは言わない」って認めるところ、親子の距離感がリアルでグッとくる。 白峰の過去もチラ見せされて、単なる敵じゃなくなってきたな…。 リオの亀裂がようやく直る時が来たって感じ、マジで待ってた。 次の話、絶対見る🔥