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#お仕事
#秘密
水を含んだ重たい空気が、コンクリートの街を灰色に染め上げている。
社会人二年目。黒川の日常は、締切と上司の小言、そして終わりのないタスクに追われるだけの、乾ききった砂漠のようだった。
「はぁ……もうやだ、癒やされたい……」
夜の八時。湿気でボサボサになった髪を気にする余裕もなく、黒川は這うような足取りで、失意のままに築二十年のアパートへと帰り着いた。
独り身のワンルーム。帰っても待っているのは、冷え切ったコンビニ弁当と、自分が脱ぎ散らかした靴下だけだ。
「……ん?」
ふと、アパートの共有スペースにある、手入れの行き届かないアジサイの植え込みに目が留まった。紫色の花弁が雨に濡れて光っている。その葉の真ん中に、妙に存在感を放つ「塊」があった。
「うわっ、でかッ!」
それは、黒川の拳ほどもある巨大なカタツムリだった。
虫全般、特に粘液を出す這い回る生き物が大嫌いな黒川は、全身の毛穴が逆立つような悪寒を覚えた。放っておけばいい。しかし、そのカタツムリがいるのは、黒川の部屋のドアのすぐ脇にあるアジサイなのだ。もし夜の間にドアの隙間から侵入でもされたら、精神が崩壊してしまう。
「待ってろ……今、一思いに楽にしてあげるから……」
黒川は部屋に駆け込み、台所から食卓塩のボトルをひっつかんで戻ってきた。
「悪いね。これが弱肉強食の世界ってやつだよ」
キャップを開け、白い悪魔の粉をカタツムリの殻めがけて振り下ろそうとした、その瞬間だった。
「ひえええええ! お待ちください! それだけは! それだけはご勘弁をッ!」
高音の、しかし妙に耳に心地よい青年のような声が、雨の音を割って響いた。
黒川は硬直した。塩のボトルを握ったまま、周囲を見回す。誰もいない。
「だ、誰……?」
「下です! 下! あなたの目の前で命の危機に瀕している、殻付きの私です!」
カタツムリの触手が、必死に黒川の方を向いて激しく揺れていた。
「カタツムリが……喋った……? 私、ついに仕事のストレスで幻聴まで……」
「幻聴じゃありません! お願いです、その白い結晶をしまってください! 私はしおれると死んでしまうんです! 命がけのお願いです、どうか!」
「いや、意味分かんないし! なんでカタツムリが人間の言葉で命乞いしてんのよ! 気持ち悪い、やっぱり塩を――」
「待って! 損はさせません! あなた、独り身で寂しいんでしょう!? 癒やしを求めているんでしょう!? 私、あなた好みの男になりますから!」
「はぁ!?」
黒川は呆れて声を裏返らせた。カタツムリが「好みの男」になる? 何を言っているんだ。
「私の主たる趣味は、夜な夜な部屋のテレビの隙間から覗き見る、あなたが熱狂しているあの韓国のアイドルグループです! あのセンターの彼ですよね!? 真似できます! 再現できます! だから塩だけは――!」
次の瞬間、アジサイの葉の上が、淡い白い光に包まれた。
黒川は思わず腕で目を覆う。光は急速に膨らみ、アジサイの茂みを押し広げ、地面へと降り立つ。光が霧のように霧散したとき、そこにいたのは――。
「……え」
黒川の口から、間抜けな声が漏れた。
濡れたコンクリートの上に、片膝をついて座り込んでいる男がいた。
濡れて束になった黒髪、切れ長の涼しげな目元、すっと通った鼻筋に、大人の色気を醸し出す薄い唇。今まさに世界を席巻している韓国のトップアイドル、そのセンターを務める美青年が、そのまま画面から飛び出してきたかのような超絶イケメンだった。
イケメンは、ゆっくりと顔を上げ、黒川をじっと見つめた。その眼差しは、憂いを帯びていて、破壊的なまでに美しい。
「……これで、信じていただけますか?」
低く、甘い声が鼓膜を揺らす。
黒川の脳内で、先ほどまでの「気持ち悪い」という感情が、音を立てて吹き飛んだ。
「……合格。超合格。っていうか、むしろ本物より顔がいいかもしれない」
手のひらを返すとは、まさにこのことだった。独り身の寂しさが、イケメンという名の特効薬によって一瞬で麻痺していく。
「でしょ? 命拾いしました……」
青年はホッとしたように息を吐き、立ち上がった。
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