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#お仕事
#秘密
「ちょっと、雨に濡れると風邪ひいちゃうし、とりあえず中に入りなよ!」
さっきまで塩で殺そうとしていたことも忘れ、黒川は興奮気味に青年の腕を掴もうとした。
「あ、待って、触らな――」
青年の制止は間に合わなかった。黒川の指先が、彼の露出した手首にしっかりと触れる。
「――っ!?」
冷たい。いや、冷たいだけじゃない。
ヌルッ。ズルッ。
信じられないほどの大量の分泌液が、黒川の肌にまとわりついた。まるで、ローションを限界まで濃縮したナメクジの表面を、素手で全力で撫で回したかのような、圧倒的な「ヌメヌメ感」である。
「いやああああああああああーーーッ!!」
黒川は悲鳴を上げて飛び退き、自分の手を激しく振った。しかし、透明な粘液は糸を引き、なかなか落ちない。
「だから言ったのに……」
青年は申し訳なさそうに、眉を八の字に下げた。その顔は世界遺産級に美しいが、その手元は信じられないほどヌメヌメしている。
「な、なになにこれ! ナメクジじゃん! やっぱりカタツムリじゃん!」
「カタツムリですから。外見はあなたの好みに偽装できても、生態までは変えられないんです。特に今は雨の日で、私のコンディションが最高(最高に潤っている状態)なので、分泌量が凄くて」
黒川は一気に現実へと引き戻された。いくら顔が良くても、触るたびにディストピア的なヌメヌメを味わうのは無理だ。
「無理無理! やっぱり部屋には入れられない!お引き取りください!」
「そんな! 手のひら返しが早すぎる! 提案です、背に腹は代えられない提案をします!」
青年は、ヌメヌメの手を胸に当てて必死に訴えた。
「私を同居させていただければ、家事全般、完璧にこなします! 掃除、洗濯、料理もお任せください。あなたの荒んだ生活を、私のすべてを賭けて潤してみせます! 主食はキャベツの千切りで構いません。IHコンロがあれば火の粉で乾燥する心配もないので、料理も可能です。ただし……私の体がしおれてしまうので、料理はすべて『減塩』にさせていただきますが!」
黒川は、差し出された条件を頭の中で素早く計算した。
家事万能。部屋はいつも綺麗。美味しいご飯が待っている。主食はキャベツ。コンロは幸いIHだ。
そして何より――目の前にいるのは、目の保養以外の何物でもない超絶イケメン。
「……触らなければ、問題ない、か」
「はい! ソーシャルディスタンスを徹底していただければ、実害はありません!」
黒川はゴクリと唾を飲み込み、塩のボトルをポケットに仕舞った。
「分かった。同居を許可する。ただし、一滴でも私にそのヌメヌメをつけたら、即座に塩漬けにするからね」
「御意に。ありがとうございます、ご主人様」
青年は深く一礼した。その仕草すら絵になる。
「あー……名前、どうしよう。カタツムリって呼ぶわけにもいかないし」
黒川は顎に手を当てて考えた。
「梅雨の時期に出会ったから、せめて気持ちだけでも晴れるように……『晴斗』。これでどう?」
「晴斗……。いい名前ですね。雨の日に、晴れを願う。気に入りました」
晴斗は、眩しいほどの笑顔を浮かべた。こうして、二十四歳のOLと、ヌメヌメのカタツムリイケメンとの、奇妙な同居生活が幕を開けた。
翌朝から、黒川の生活は劇的に変化した。
アラームの音ではなく、トントンと小気味よい包丁の音で目が覚める。リビングへ向かうと、そこは自分の部屋とは思えないほどピカピカに磨き上げられていた。床には埃一つなく、窓ガラスは透明度を増している。
「おはようございます、黒川さん」
エプロン姿の晴斗が、爽やかに微笑んだ。キッチンには、出汁のいい香りが漂っている。
「これ、朝食です。切り干し大根と、焼き魚、それとお味噌汁です。すべて出汁を限界まで効かせて、塩分は通常の三分の一に抑えてあります」
「おいしそう……!」
席につき、味噌汁を口に含む。薄味かと思いきや、昆布と鰹節の旨味が凝縮されていて、信じられないほど深い味わいだった。
「最高……。私、こんな丁寧な朝ご飯食べたのいつ以来だろう」
「喜んでいただけて何よりです。さあ、お仕事へ行ってらっしゃいませ。お弁当も作っておきましたから」
晴斗は、一切黒川に近づきすぎないよう、完璧な距離感を保ちながら弁当箱を差し出した。もちろん、受け取る際にも指が触れないよう、細心の注意が払われている。
この日から、黒川の「荒んだ生活」は、文字通り「潤い」に満たされていった。
残業を終えて帰宅すれば、お風呂は沸いており、部屋は適度な湿度(晴斗の設定により常に湿度70%以上)に保たれ、極上の減塩料理が待っている。
何よりの癒やしは、夕食後のひとときだった。
「本当に、うちの上司信じられないのよ。自分のミスを私のせいにしてさぁ……」
缶ビール(晴斗はキャベツの芯をかじっている)を片手に、黒川はソファで愚痴をこぼす。
晴斗は、ソファの反対側の端に座り、適切なディスタンスを維持しながら、真剣な眼差しで話を聞いてくれた。
「それは酷いですね。黒川さんは間違っていません。そんな奴は、私が夜中に枕元へ行って、這い回った跡の粘液でベタベタにしてやりたいくらいです」
「あはは! それ、精神的ダメージ大きすぎるからやめてあげて!」
晴斗の物腰は常に柔らかく、言葉遣いも丁寧だ。そして、時折見せる韓国アイドル風の完璧な仕草が、黒川の疲れを芯から溶かしていく。
しかし、触れ合えないというルールは厳格だった。
ある日、バラエティ番組を見ていて爆笑した黒川が、思わず晴斗の肩をパシッと叩いてしまったことがある。
「あはは、それウケる――」
「あ」
触れた瞬間、ジュワッと、昨日以上の濃密なヌメヌメが手掌を覆った。
「ひゃうんっ!?」
「すみません! 今、笑い話に興奮して、感情が高ぶって分泌液が増量してしまいました!」
「うわあああ、やっぱり生身のカタツムリだこれ! 早くティッシュ! ウェットティッシュちょうだい!」
「近づくとさらに被害が広がります! 投げます!」
晴斗から正確にコントロールされたティッシュ箱が飛んでくる。そんなドタバタも含めて、黒川にとっては愛おしい日々に変わりつつあった。