テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
昨夜の寝ずの番のせいで、眼鏡の奥の目が少し血走っとる。
事務所のデスクで、俺はひまりの母親から無理やり奪い取った「親権放棄の書類」をじっと見つめていた。
これ一枚で、あの子の籍はワシのところに置けるようになる。
「……和幸。これ、役所に出してこい。不備があったら、担当者の首根っこ掴んででも受理させろ」
「兄貴、役所でそんなことしたら一発で警察呼ばれますよ! ……でも、おめでとうございます。これで本当の『家族』っすね」
和幸が柄にもなく真面目な顔で、書類を大切そうに胸ポケットに仕舞いおった。
家族
ワシの人生には、逆立ちしても縁のない言葉やと思うとったが……。
「おじさーん!あのね、今日学校でね!お花のお水やり当番になったの!」
ひまりが、学校から貸し出されたという小さなジョウロを持って、ドタバタと駆け寄ってきた。
俺の膝に飛び乗ろうとして、ふとデスクの上の殺風景な書類に気づいたらしい。
「…これ、なぁに?」
「……ああ、これか。…ひまり、お前がこれからもずっと、この事務所……いや、ワシの家におってええっていう、『魔法の許可証』や」
俺がそう言うと、ひまりは如雨露を置いて、目を丸くして俺を見上げた。
「……じゃあ、もうお母さんは、私を連れに来ない?」
「ああ。……ワシが、ハンコを突いて、約束させといた。…誰もお前を、ここから連れ出すことはできん」
ひまりは、しばらくの間黙って俺を見つめていたが、やがて、ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。
悲しい涙やない。
ずっと張り詰めとった不安が、ようやく溶け出したような涙や。
「……あり、がとう…おじさん……っ。私、おじさんのところに、いていいんだよね……」
「せや。……ワシがおる。和幸もおる。若い衆も、全員お前の家族や」
俺はひまりを抱き上げ、その背中をトントンと優しく叩いた。
あの子の涙が、俺の黒いシャツに染み込んでいく。
この温もりを守るためなら、指の一本や二本、いつでも差し出す覚悟はできとる。
その後、ひまりは「お礼に、おじさんを綺麗にしてあげる!」と言い出し
俺のデスクの周りをおもちゃの箒で掃除し始めた。
「よし、ここは汚いからナイナイだよ。……和幸さんも、お手伝いして!」
「えっと自分、これから役所に行かないといけないんすよ、お嬢!」
「ええ~」
事務所の「狂刃」と恐れられたワシと、その右腕の和幸が、小さな女の子の号令一つで床掃除をさせられとる。
若い衆がその光景を見て、吹き出しそうになっとるが俺が眼鏡越しに一瞥すると
全員が慌てて雑巾を持って参戦しおった。
「……ふっ。……たまには、こういう『掃除』も悪くないな」
俺は眼鏡を指で押し上げ、ひまりが楽しそうに如雨露に水を入れてくる姿を目を細めて眺めていた。
血の繋がりはない。
過去の汚れも消えへん。
やが、今日からワシらは、名実ともに「親子」や。
「……ひまり。…晩飯、今日は何食いたい?」
「オムライス!ケチャップで、おじさんの顔描くの!」
「ははっ……それは、恥じぃな」
事務所に、また笑い声が響く。
外はもう、穏やかな夕暮れ。
ワシの「日常」は、これからもっと、騒がしくて温かいものになっていくんやろう。
#シリアス
17
134
コメント
1件
ヤクザでも人の心はある。 幸せにしてあげて欲しいです。