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差戻通知。
その四文字を見た瞬間、美沙は息の仕方を忘れた。
白い書類は、役所で見慣れた申請用紙に似ていた。けれど、どこかがおかしい。紙は薄いのに、妙に重そうで、窓口の蛍光灯を反射して白く光っている。上部には赤い枠線。右上には、見たことのない印影。
――未提出事項あり。
赤い文字が、目に刺さった。
「未提出って……何ですか」
美沙はようやく声を出した。
窓口の向こうで、宮乃は表情を変えなかった。
黒い制服。白い手袋。整いすぎた所作。
まるで人ではなく、ここに置かれた備品の一部みたいだった。
「ご主人が提出していないものです」
「夫が?」
「はい」
「航平が、ここに来たんですか」
「いいえ」
宮乃はすぐに答えた。
「来所されなくても、未提出のものは記録されます」
意味が分からなかった。
美沙は窓口の下の小さな台に手をついた。冷たい。金属の冷たさが、指先から腕へ這い上がってくる。
「すみません。私、離婚届を出しに来たんです。夫の書類とか、そういうものじゃなくて」
「承知しております」
「だったら、受理してください」
「できません」
宮乃の声は、最初から最後まで同じ高さだった。
美沙の苛立ちだけが、廊下の湿った空気に膨らんでいく。
「どうしてですか。本人が出したいって言ってるのに」
「離婚届の受理には、未処理の付属書類が残っています」
「付属書類?」
「ご主人の嘘です」
美沙は黙った。
夫の嘘。
その言葉だけは、奇妙なほどすんなり胸に入ってきた。
ホテルのレシート。
残業だという説明。
取引先と二名だったという言い訳。
美沙がおかしいのだと言った声。
それらが、紙の端のように次々浮かんだ。
「嘘を……提出するんですか」
「正確には、返送されます」
「返送?」
「あなたが見ないふりをしたもの。ご主人が隠したもの。周囲が黙認したもの。すべて、順に差し戻されます」
宮乃は、差戻通知をそっと窓口の受け渡し口へ置いた。
「それらを確認し、ご自身で処理してください」
「処理って、どういう意味ですか」
「見ることです」
短い答えだった。
美沙は思わず笑いそうになった。
見ること。
そんなことのために、こんな夜中に、こんな場所へ来たわけではない。
「見たところで、何か変わるんですか」
「変わります」
「夫が謝るんですか」
「それは分かりません」
「じゃあ、夫が罰せられるんですか」
「それも、申請内容によります」
申請内容。
あまりにも役所らしい言葉だった。
けれど話している中身は、役所とは思えないものばかりだ。
美沙は封筒を握りしめた。
「私は……もう、疲れたんです」
言うつもりのなかった言葉が落ちた。
宮乃は黙って聞いていた。
「何を聞いても、私の考えすぎだって言われる。疑う方が悪いって言われる。ちゃんと説明してほしいだけなのに、最後はいつも私が謝ってる」
言葉にすると、胸の奥がじわじわ熱くなった。
「だから、終わらせたいんです。もう、これ以上考えたくない」
「では、なおさらです」
宮乃は静かに言った。
「終わらせるには、何を終わらせるのかを確認する必要があります」
「そんなの、夫婦です」
「いいえ」
宮乃は、初めて少しだけ首を振った。
「あなたが終わらせたいものは、本当に夫婦だけですか」
美沙は答えられなかった。
地下の廊下に、古い時計の針の音が聞こえた。
カチ。
カチ。
カチ。
その音に混じって、窓口の奥で紙束が擦れる気配がした。見えない場所に、無数の書類棚があるのだろうか。古い紙の匂いが、さっきより濃くなった。
宮乃は、離婚届を美沙に返した。
「本日の受付はここまでです」
「待ってください」
「午前二時二十二分を過ぎます」
美沙は腕時計を見た。
針は、二時二十一分を指していた。
そんなに時間が経っていたのか。
「この書類は……」
「お持ち帰りください」
「持って帰ったら、どうなるんですか」
「必要な時に、読めるようになります」
「今は読めないんですか」
美沙は差戻通知を見た。
赤い文字の下には、細かな文章が並んでいるはずだった。だが、不思議なことに、そこは白くぼやけていて読めない。目をこらしても、文字が紙の中へ沈んでいくようだった。
「今のあなたには、まだ見えません」
「どういうことですか」
「朝になれば、最初の一枚が届きます」
宮乃はそう言うと、受理印を机の端へ戻した。
赤い朱肉の蓋が、かすかに音を立てて閉じられる。
「藤代美沙様」
名前を呼ばれて、美沙は肩を震わせた。
この女に、名前を告げただろうか。
「ご主人の嘘は、まだ一枚目にすぎません」
冷たい空気が、足首に絡みついた。
美沙が口を開く前に、頭上の蛍光灯が一度だけ点滅した。
ちかり。
白い光が途切れ、次に目を開けたときには、美沙は市役所の外に立っていた。
風が頬を打った。
「……え」
目の前には、閉ざされたガラス扉。
右端にあったはずの地下階段は、影も形もない。
通用口も、案内板も、白い蛍光灯の明かりも消えていた。
ただ、手の中には離婚届の封筒がある。
そしてもう一枚、白い書類。
差戻通知。
美沙は震える指でそれを開いた。
けれど、中身はやはり読めなかった。
白い紙の中央に、赤い印だけが浮かんでいる。
――未提出事項あり。
意味の分からない夜だった。
夢だったと思いたかった。
でも、夢ならこの紙は何なのか。
美沙はそれをバッグに押し込み、家へ帰った。
航平はまだ眠っていた。
寝室のドアの隙間から、規則正しい寝息が聞こえる。
美沙はその音を聞きながら、台所の椅子に座った。
夫は眠っている。
何も知らずに。
あるいは、全部知っていて。
美沙は眠れなかった。
気づけば、窓の外が薄く青くなっていた。
朝になっても、世界はいつも通りだった。
炊飯器が保温の音を立て、冷蔵庫が低く唸る。近所の家のシャッターが開く音がした。
航平は七時過ぎに起きてきた。
「コーヒー」
それだけ言って、洗面所へ向かう。
美沙はいつものようにマグカップを出し、コーヒーを淹れた。手が勝手に動く。十二年も続けていれば、心がどこにあっても体だけは家事をする。
航平は食卓につき、スマホを見ながらトーストをかじった。
「昨日のこと、まだ怒ってる?」
軽い声だった。
美沙は息を止めた。
「怒ってるというか……」
「だから、接待だって言っただろ」
航平はスマホから目を上げない。
「ああいうのでいちいち騒がれると、こっちも疲れるんだよね」
「騒いでない」
「同じだよ。顔に出てる」
顔に出ている。
そう言われると、美沙は表情を消す癖があった。
航平はコーヒーを飲み、眉を寄せた。
「今日、薄いな」
昨日は味噌汁。
今日はコーヒー。
この人は、私が何を感じているかより、味の濃さの方が気になるのだ。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに離れた。
航平が出勤したあと、美沙はしばらく玄関に立っていた。
靴音が遠ざかる。
エレベーターの扉が閉まる音。
マンションの廊下が静かになる。
その静けさの中で、バッグがかすかに音を立てた。
かさり。
美沙は振り返った。
昨夜、差戻通知を入れたバッグだ。
ソファの上に置いてある。
近づくと、バッグのファスナーが少し開いていた。
中から、白い封筒がのぞいている。
昨日の差戻通知ではない。
もっと厚みのある封筒だった。
表には、赤い印でこう書かれている。
夜間受理窓口
返送書類在中
美沙の心臓が嫌な音を立てた。
封筒を取り出す。
紙は冷たかった。まるで、冷蔵庫に入っていたみたいに。
裏面には、差出人名も住所もない。
ただ、中央に小さく押印されている。
第一号
美沙は封を切った。
中には一枚の書類が入っていた。
今度は、文字が読めた。
上部には、整った明朝体でこう記されている。
残業証明願 差戻通知
その下に、航平の名前。
藤代航平。
さらに日付。
三日前の木曜日。
美沙の喉が鳴った。
書類には、航平が会社を出た時刻が記されていた。
午後六時十二分。
残業などしていない。
次の行には、駅前の飲食店名。
午後六時四十分入店。
午後七時五十八分退店。
その下に、ホテル名。
午後八時四十分入室。
午後十時五十五分退室。
支払い方法。
カード。
利用人数。
二名。
美沙は紙を持つ手に力を込めた。
それでも紙は破れなかった。どれだけ握っても、白く冷たいままだった。
最後の欄に、同伴者名があった。
そこだけ、赤い線で囲まれている。
瀬名里緒
知らない名前だった。
けれどその名前を見た瞬間、美沙の中で、昨夜まで曖昧だったものが形を持った。
女がいる。
夫には、女がいる。
美沙は椅子に座り込んだ。
涙は出なかった。
怒りも、まだ来なかった。
ただ、胸の中で何かが紙のように乾いていく。
書類の一番下には、備考欄があった。
そこに、小さな文字が並んでいる。
本件について、申請者は妻への説明義務を未履行。
なお、虚偽申告は継続中。
美沙はその一文を何度も読んだ。
虚偽申告は継続中。
つまり、航平は今朝も嘘をついた。
昨夜も嘘をついた。
そして、これからも。
書類の端に、もう一つ赤い印が押されていた。
次回返送予定あり
その下に、細い文字で追記がある。
第二号 家族維持申請書
申請者欄には、航平の名前ではない名前が記されていた。
藤代久枝。
義母の名前だった。