鞍も鐙もなしに毛長馬に跨って、如何に我慢強い者も倦み飽きる長い道のりを激しく揺られながら走り越えた。
これに比べれば普通の暴れ馬に跨ることなど大したものではないだろう、とベルニージュは確信していた。ユカリによると、どうやらユビスはまだ若駒らしい。しかしその力強さは、どのような城壁も圧し通るという象や生まれながらにして鎧を着こんでいるという犀にも匹敵するはずだ。ただ弾き飛ばされないように必死に捕まっている内に、三人は目的の街へと辿り着いた。
元型文字を完成させた際の魔導書の衣の光を頼りにやって来たのは、サンヴィア地方に広く信じられている夜への信仰の中心地である黒の街ネリーグロッサとはうってかわって、昼の明かりを愛する人々の土地だ。秘密と嘆きを愛する夜の女神ジェムティアンの信仰篤きサンヴィアにあって、太陽と喜び、苛立つ者共の奉ずる昼の神常昼宮を継ぐ者に祈りを捧げる異教の街だ。
三人はユビスから降りて、厳しい冬を控えめに包み込むような太陽の輝きを浴び、盆地に広がる低地の街を見渡す。数本のせせらぎが煌めきと共に低地へと流れ込み、幾つかの小池を経て、まだ見ぬ北東の海へと流れゆく。盆地の底に溜まる日干し煉瓦の家並みは黒で塗られておらず、太陽への祈りと感謝を捧げる黄色の波模様が描かれている。陽光を浴びて白く煌めく街は雪と氷でできた巨大な皿のようだ。
ベルニージュが街の中心へ目を向けると、サンヴィアに名高きジャングヴァンの太陽炉の輝きが、この距離からも見て取れる。無数の凹面鏡がたった一点に太陽光を反射して神聖な火を熾しているのだ。太陽の代理者たる聖火の輝きもまた冬の薄暗さを毅然と追い払っている。気のせいかベルニージュは、ここまで温もりが届いているかのようにさえ感じられた。
ユカリが大きなくしゃみをする。
ベルニージュとレモニカは信じられない発言を聞いたかのように、目を丸くしてユカリを見つめる。
「もしかしてだけど」とベルニージュは恐る恐る尋ねる。「寒いの?」
「寒いよ。冬だもん」とユカリは手を擦り合わせ、白い息を吐いて答える。耳と鼻が少し赤くなっている。
ベルニージュとレモニカは目を合わせ、いま聞いたことが聞き違いでないことをお互いに確認する。
「ユカリさま」とレモニカは申し訳なさそうに言う。「寒いのはそんな恰好をしているからですわ。とてもサンヴィアの冬の格好ではありませんもの」
ユカリは己の狩り装束を見下ろして、初めて気づいたかのような顔をして、捲り上げていた裾を伸ばす。「ユビスの毛皮は温かかったから気づかなかったよ」
「そんなの何も変わらないって」とベルニージュは呆れて言う。「さすがのユカリも寒いと感じる季節になってきたってこと? いや、それにしても十分に寒さに強いとは思うけど」
ユカリは震えながらもしたり顔で言う。「冬至に生まれたから、冬の加護があるのかも。なんてね。でも今年の冬まで自分が寒さに強いなんて思ったことないんだけどなあ」
「え!?」とレモニカが素っ頓狂な声を出す。「ユカリさま。お誕生日は過ぎていらしたのですか?」
「え? うん。冬至ね。冬の真ん中。十五歳になったよ。冬至だからもう過ぎてるけど」とユカリは答えた。
そういえば十四歳だった、とベルニージュは思い出す。
「そんな! 何で仰ってくださらなかったんですか!?」とレモニカはとても残念そうに言う。
「何でってこともないけど。気がついたら過ぎてたから。何で私の誕生日なんか気にするの?」と心底不思議そうにユカリは尋ねる。
「お祝いも贈り物もしていませんわ!?」レモニカの熱量が上がる。
「別にいいよ。そんな場合じゃないし」と言ってユカリは話題を変える何かはないかと、街を見下ろし、色んな意味を込めてベルニージュに尋ねる。「ところでこの街は、黒くないけど大丈夫なの?」
古今東西様々な場所で起きてきた、異なる信仰が隣り合った時の災いについて、ユカリは言っているのだ。
「完全には大丈夫とは言えない。古くから信仰に基づく争いは多かったそうだよ」とベルニージュは聞きかじった知識を披露する。「サンヴィア会議を結するにあたっての主導権争いで多くの血が流れた。もう二百年も前の話だけど」
レモニカもユカリの横顔から視線を引きはがして街を見下ろす。
「今では争いはないのですわね?」そう言ってレモニカは首を横に振り、確かめるようにベルニージュの顔を窺う。「いいえ、つまり、あまり多くはない?」
ベルニージュは頷いて言う。「そうだね。大きな争いはない。そもそも十都市連盟の中では締め付けも弱いし、いわゆる結束力がない。さらに言えばサンヴィアの人たちは、サンヴィアという土地の、一つの枠組みの中にいるという意識が薄い。大王国から遠い土地は西への危機感も無いに等しいしね。ミーチオンもそうでしょ?」
尋ねられたユカリは悩まず頷く。「ミーチオンに所属しているって意識はなかったね。みんなそうだったと思う。それに外敵っていうと東の、トーキ大陸の異民族を思い浮かべる」
「西に行くほど」とベルニージュは言って、西に広がるなだらかな山稜に目をやる。「つまり大王国の気配を感じる土地ほど、古い同盟への帰属意識が強いものだよ」
レモニカが何かを言おうとして飲み込む姿をベルニージュは見逃さなかった。しかし言及せず、話を進める。
「さて、魔導書の衣が光っただろうこの街にたどりついたはいいけど、まだクオルがいるとは限らない。もしかしたら光に気づいてすぐに移動した可能性もある。そもそも気配はどうなの?」
そう言ってベルニージュはユカリに目を向けるが、ユカリは言ってる意味が分からないとでもいうように見つめ返す。
「魔導書の衣の気配のことなんだけど」とベルニージュは付け加える。「近くにあるなら感じられるんでしょ?」
「あれ!? 魔導書の気配!?」と言ってユカリの背筋が跳ねるように伸びる。「そうだ。魔導書の気配。いつから感じてない?」
ユカリに尋ねられ、ベルニージュは首を振る。「それはユカリにしか分からない。とても残念だけど」
ユカリは俯きつつ考えを呟く。「慣れた? でもそれなら他の魔導書も……。奪われた時はどうだったっけ? ……うん。たぶん魔導書の衣の気配はいつの間にかなくなっていた。あるいは弱くなったか」
「ありそうな話だね」とベルニージュは呟き、今までなぜ気づかなかったのかは問い詰めない。
レモニカが確認するように言う。「文字を完成させるたびに、完成時の発光が強くなり、実は気配も弱まっていた、ということですわね。いよいよ光に頼らざるを得ませんわね」
「まあ、いいよ。元々そのつもりだったわけだし」と言ってベルニージュも同意し、ユカリの顔を指さす。「だからそんな顔しない。気配が弱まっていることに気づいていたら回避できたことなんてなかったんだからね」
ユカリは自分の両頬を抑えて捏ねくり、微笑みを作る。そしてヒデットの街を見下ろして提案する。「とりあえずこの街を探せばいいよね。あんな大きな馬車、すぐに見つかるし、もう移動していたとしてもどっちへ行ったかは誰かが知ってるはず」
レモニカは別の案を話す。「しかし文字を光らせればどこにいるかはすぐに分かりますわ。街にいるにせよ、いないにせよ。残りの文字数が限られている以上、短期決戦に持ち込んだ方がよろしいかもしれません」
「追いかけるにしても、二人は大丈夫なの?」とベルニージュはユカリとレモニカに尋ねる。しかし二人は質問の意味が分からないようなので、ベルニージュはユビスに視線を向けて付け加える。「ワタシはちょっとだけつらかったけど」
嵐に見舞われた船の帆柱につかまっていても、ここまで疲弊することはないだろうとベルニージュは思った。
レモニカは気づいたようだが、ユカリは気づいていない様子だ。首を傾げている。
「申し訳ございません」と焚書官の姿のレモニカは気まずそうに言って、真っ黒になった自らの両手を眺める。「わたくしも平気ではありませんわ。それにユビス自身も気持ちの良いものではないでしょう。水浴びが必要ですわよね」
レモニカにも伝わっていないらしかった。いずれにせよ、ユビスに苦労させられているのは自分だけだということを認めるつもりなどなかった。
ベルニージュはもう一点、二人に思い出させる。「そもそも文字はどうする? もう作りやすそうなのは残ってないけど」
「それでも一番作りやすそうなのを作るしかないんじゃない?」とユカリは言う。
「それはまあ、そうなんだけど」と言うしかなかったベルニージュは魔導書の衣の裏地に記された詩を思い浮かべる。「【穿孔】、いや、【上昇】だね。作りやすそうなのは、”日は乙女の衣を祝福し”かな。【回復】を形作った”月の妬みが黄金を飾る”と同じようなものだとすれば、衣で文字を作って日に当てる、のかも」
三人は早速その場で試してみることにした。今はベルニージュが着ていたレモニカの衣服とノンネットの僧衣を地面に敷いて、【上昇】を形作る。昼間なので、形作った時点で太陽の光を既に浴びている。
しかし何も起こらなかった。冬の低い太陽とはいえ、雲一つない快晴だ。陽光が足りないということがあるだろうか。あるかもしれない。
「もし冬だから駄目なんだとしたらどうしよう?」とベルニージュは震えながら呟く。
「春を待つしかないんじゃない?」とユカリは言う
「それはまあ、そうなんだけど」とベルニージュは答えた。「他に解釈があるとすれば、服に文字を書き込むとか、かな」と言いつつ、レモニカの抗議に先んじる。「もちろん。レモニカの衣服にそうするつもりはないよ。それに墨がないんだよね。汚れてもいいような服と墨を手に入れないと。あと、地図も買っておこうか。この街にクオルがいなかったなら、必要になる」
それに鞍があったならなお良い、とベルニージュは心の中で呟いた。
「じゃあ、私がそこら辺の川でユビスを洗ってるから、二人は買い物をお願いね」とユカリは言った。
ユビスが返事をするように嘶くがユカリは「却下」と断言した。
ユカリの提案に抗議するほどベルニージュは子供ではなかったが、男に変身したレモニカとずっとそばにいなければならないことを考え、身震いした。
「寒い」と呟いてベルニージュは再びレモニカの衣服を借りた。
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