テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第1話 「拾ったのは、ベースと厄介ごと」
終電間際の新宿は、だいたいの人間がまともじゃない。
北松誉は、会社を出てから駅までの道を歩きながら、毎日そう思っている。
酔っ払い、怒鳴るカップル、座り込む若者、やたら足の速いキャリーケース。
そしてその中に、自分も当然含まれている。
北松誉、二十八歳。営業職。
特技は謝罪の初動が早いこと。
趣味は特にない。強いて言えば、帰宅して靴下を脱いだ瞬間だけ生き返ること。
改札を抜けた時点で、もう今日という日は終わったも同然だった。
いや、本当は終わっていない。明日の資料が終わっていない。メールの返事も残っている。上司からの「ちょっといい?」も二件見ないふりをしている。
——逃げても、明日が来るだけだ。
その事実が一番嫌だった。
ホームに降りるエスカレーターの途中で、誉はガラスに映った自分を見た。
くたびれたネクタイ、寝不足でくぼんだ目元、何にも勝てなさそうな顔。
「……誉、ねえ」
自分で自分の名前を呟いて、嫌になる。
誉。ほまれ。
大層な字面だ。立派で、誇らしく、胸を張っている感じがする。
実態はどうだ。
客先に気を遣い、上司に気を遣い、後輩に気を遣い、コンビニ店員にまで「すみません」を言う男だ。
名前負けにも程がある。
ホームには、終電を待つ人間がまばらに立っていた。
誉は人の少ない端のベンチに座り、鞄を膝に置く。
肩が、鉛みたいに重かった。
その時だった。
数メートル先で、がしゃん、と大きな音がした。
反射的に顔を上げる。
誰かがケースのようなものを落としたらしい。黒い、長い。楽器ケースだろうか。
派手な金髪の若い男が、それを片手で持ち直しながら舌打ちしていた。
「うわ、最悪。マジでやった」
誉は一度視線を戻しかけて、でも、なんとなくまた見た。
男は細身で、黒いライダースに細いパンツ、耳にいくつもピアスを開けている。
あまり関わりたくない種類の人間だ、と誉は瞬時に判断した。
ところがその男は、ケースの留め具を確認したあと、こちらに気づいたのか眉を上げた。
「見た?」
「……え?」
「今の。落としたとこ」
「はあ……まあ」
「壊れてたらあんた証人ね」
「いや、証人って」
「見たんでしょ」
初手から面倒くさい。
誉は心の底からうんざりした。
「壊れてないといいですね」
なるべく関わらないよう、そうだけ言って視線を逸らす。
けれど男は、ずかずか近づいてきて、誉の隣にどかっと座った。
「冷た。普通、手伝うとかなくない?」
「知らない人に急に話しかけられて、そんな親切発揮できるほど元気じゃないんです」
「あー、社畜っぽい返し」
「……」
「しかも終電顔してる」
「終電顔ってなんですか」
「人生にギリ間に合ってる顔」
誉は思わずその男を見た。
男は悪びれもなく笑っている。
顔立ちは整っていた。むかつくくらい整っている。目元が鋭く、肌が白くて、口元だけがやたら子どもっぽい。
「ベーシスト?」と誉は、ケースを見て言った。
「お。分かんの?」
「いや……ギターより大きいから」
「雑」
110
男は笑った。
「シオン」
「……はい?」
「俺の名前。あんたは?」
「……北松」
「下の名前」
「言う必要あります?」
「ある。北松だけだと会社の人みたい」
会社の人みたい、は実際そうなのだが。
誉は数秒迷って、どうでもよくなって答えた。
「誉です」
「へえ。すげえ名前」
「……そうですか」
「そういう顔するってことは、気に入ってないんだ」
いきなり核心に触れられて、誉は口をつぐんだ。
シオンは何でもないふうに、ベースケースの端を軽く叩く。
「名前に負けてるとか思ってそう」
「初対面でずけずけ言いますね」
「当たってんじゃん」
「……」
「図星の黙り方だ」
誉は心底疲れていたので、反論する気力がなかった。
こういうタイプは、相手をすると長い。
黙ってやり過ごすに限る。
ちょうどその時、ホームに電車の風が流れ込んできた。
終電だ。
立ち上がろうとした誉の目に、ふと、ホームの柱の影が映る。
誰かがいた。
コート姿の男。帽子を深くかぶって、こちら——いや、シオンの方を見ていた気がした。
だが、電車が滑り込んできた瞬間、その姿は見えなくなった。
「行くの?」
シオンが聞いた。
「帰りますよ。普通に」
「ふーん」
「あなたは?」
「俺も。方向同じっぽいし」
「……なんで分かるんですか」
「くたびれたサラリーマンって、だいたいこっち方面」
「偏見がひどい」
二人は同じ車両に乗り込んだ。
空いている車内で、誉は扉横に立ち、シオンは優先席の前にベースケースを立てた。
電車が動く。
そこで誉は、奇妙なことに気づいた。
さっきホームの柱の影にいたコートの男が、別の扉から同じ車両に乗っていた。
帽子を深くかぶり、顔はよく見えない。
けれど視線だけが、やけにはっきりしていた。
シオンを見ている。
誉は迷った。
言うべきか。いや、気のせいかもしれない。
そもそも自分には関係ない。
関係ない。関係ないのだ。
だが次の瞬間、シオンが何の前触れもなく、ひょいと誉の方へ寄ってきた。
「あんた、気づいたでしょ」
「……何が」
「後ろ。帽子」
気づいていた。
しかも、おそらく最初から。
「知り合いですか」
「いや。たぶん違う」
「たぶん?」
「ライブハウス出たあたりから視界に入ってた。でも確信なかった」
「じゃあ、なんでそんな平然としてるんです」
「面白そうだから」
「面白……」
この男、正気か。
誉が本気で引いていると、シオンは小さく笑った。
「ねえ北松誉」
「フルネームで呼ばないでください」
「万が一なんかあったら助けてよ」
「嫌です」
「即答じゃん」
「当然でしょう。俺、あなたのこと今日会ったばっかりなんで」
「でもあんた、見て見ぬふりできないタイプ」
「それも初対面で決めつけないでください」
「もう見抜いた」
うるさい。
本当にうるさい。
次の停車駅で、帽子の男も降りた。
シオンも降りる。
誉は心の中で舌打ちした。行き先が同じ路線なのが最悪だ。
深夜の改札を抜ける。
シオンはわざとらしくあくびをしながら歩き、帽子の男は少し距離を取ってついてくる。
「警察呼びます?」
「証拠なくない?」
「じゃあ走って逃げれば」
「ベース重い」
「知りませんよ」
「冷たすぎ。氷河期?」
「あなたが勝手に絡んできたんでしょうが」
駅前はもう店じまいの時間で、人通りも少ない。
コンビニの明かりだけが妙に白かった。
その時、シオンが急に立ち止まった。
「……あ」
「なんですか」
「財布ない」
「は?」
「落としたかも」
「このタイミングで?」
「うん」
「最悪だ」
「北松、金貸して」
「嫌です」
「今千円でいい」
「嫌です」
「じゃあ一晩泊めて」
「もっと嫌です」
「でも財布ないし、追われてるし」
「知らないです」
「じゃああの帽子の人に相談する?」
「やめてください」
頭が痛くなってきた。
誉がこめかみを押さえた、その瞬間。
背後で、鈍い音がした。
振り返る。
帽子の男が、地面に倒れていた。
「……え?」
誉の喉がひゅ、と鳴る。
男はコンビニ横の細い路地の入口付近でうつ伏せになっていた。
滑ったのか、転んだのか。
だが、その倒れ方は妙だった。あまりにも、急だった。
シオンが真顔になる。
さっきまでの軽薄さが、すっと消えた。
「ちょっと待ってろ」
「待ってろって、いや、危ないかもしれないでしょう!」
「だから見るんだよ」
シオンはベースケースを下ろし、男に駆け寄った。
誉も逡巡の末、ついていく。
男の帽子が転がっている。
うつ伏せの体はぴくりとも動かない。
「……おい」
シオンが肩に触れ、男の体を少し横向きにする。
その瞬間、誉は息を呑んだ。
男のこめかみのあたりから、血がにじんでいた。
「さ、さわったらまずいんじゃ」
「分かってる。でも呼吸は——」
シオンが口元に手をかざす。
数秒。
「……ある」
誉は震える手でスマホを取り出した。
119。いや110か。いやまず救急か。
頭が真っ白になる。
「北松、通報」
「やってます……!」
指がうまく動かない。
その横で、シオンの視線がふと路地の奥へ向いた。
「……誰かいる」
「え」
誉も見た。
路地の暗がり、そのさらに奥。
一瞬だけ、人影が動いた気がした。
逃げたのか。
それともただの見間違いか。
通報を終えた誉は、息を切らしながらその場にしゃがみ込む。
膝が、馬鹿みたいに震えていた。
「なんで……なんでこんなことに」
絞り出すように言うと、シオンがこちらを見た。
さっきまでのふざけた顔じゃない。
けれど、目だけは妙に生き生きとしていた。
「たぶんだけど」
「たぶんじゃなくて、最悪なんですよ今」
「うん。最悪」
「俺、明日も仕事なんですけど」
「それは気の毒」
「他人事すぎるでしょう!」
誉が半泣きで怒鳴ると、シオンは少しだけ笑った。
「でもさ、北松」
「……何ですか」
「これ、転んだだけじゃない気がする」
救急車のサイレンが遠くで鳴り始める。
深夜の空気は冷たくて、やけに肺に刺さった。
誉はその時、まだ知らなかった。
この夜の“違和感”を見過ごせなかったせいで、
これから何度もこの男と関わるはめになることを。
そして、財布を落としたと言い張るこのベーシストが、
その二十分後には、当たり前みたいな顔で自分の部屋に上がり込んでくることも。