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第一話 「拾ったのは、ベースと厄介ごと」
終電間際の新宿は、だいたいの人間がまともじゃない。
北松誉は、会社を出てから駅までの道を歩きながら、毎日そう思っている。
酔っ払い、怒鳴るカップル、座り込む若者、やたら足の速いキャリーケース。
そしてその中に、自分も当然含まれている。
北松誉、二十八歳。営業職。
特技は謝罪の初動が早いこと。
趣味は特にない。強いて言えば、帰宅して靴下を脱いだ瞬間だけ生き返ること。
改札を抜けた時点で、もう今日という日は終わったも同然だった。
いや、本当は終わっていない。明日の資料が終わっていない。メールの返事も残っている。上司からの「ちょっといい?」も二件見ないふりをしている。
——逃げても、明日が来るだけだ。
その事実が一番嫌だった。
ホームに降りるエスカレーターの途中で、誉はガラスに映った自分を見た。
くたびれたネクタイ、寝不足でくぼんだ目元、何にも勝てなさそうな顔。
「……誉、ねえ」
自分で自分の名前を呟いて、嫌になる。
誉。ほまれ。
大層な字面だ。立派で、誇らしく、胸を張っている感じがする。
実態はどうだ。
客先に気を遣い、上司に気を遣い、後輩に気を遣い、コンビニ店員にまで「すみません」を言う男だ。
名前負けにも程がある。
ホームには、終電を待つ人間がまばらに立っていた。
誉は人の少ない端のベンチに座り、鞄を膝に置く。
肩が、鉛みたいに重かった。
その時だった。
数メートル先で、がしゃん、と大きな音がした。
反射的に顔を上げる。
誰かがケースのようなものを落としたらしい。黒い、長い。楽器ケースだろうか。
派手な金髪の若い男が、それを片手で持ち直しながら舌打ちしていた。
「うわ、最悪。マジでやった」
誉は一度視線を戻しかけて、でも、なんとなくまた見た。
男は細身で、黒いライダースに細いパンツ、耳にいくつもピアスを開けている。
あまり関わりたくない種類の人間だ、と誉は瞬時に判断した。
ところがその男は、ケースの留め具を確認したあと、こちらに気づいたのか眉を上げた。
「見た?」
「……え?」
「今の。落としたとこ」
「はあ……まあ」
「壊れてたらあんた証人ね」
「いや、証人って」
「見たんでしょ」
初手から面倒くさい。
誉は心の底からうんざりした。
「壊れてないといいですね」
なるべく関わらないよう、そうだけ言って視線を逸らす。
けれど男は、ずかずか近づいてきて、誉の隣にどかっと座った。
「冷た。普通、手伝うとかなくない?」
「知らない人に急に話しかけられて、そんな親切発揮できるほど元気じゃないんです」
「あー、社畜っぽい返し」
「……」
「しかも終電顔してる」
「終電顔ってなんですか」
「人生にギリ間に合ってる顔」
誉は思わずその男を見た。
男は悪びれもなく笑っている。
顔立ちは整っていた。むかつくくらい整っている。目元が鋭く、肌が白くて、口元だけがやたら子どもっぽい。
「ベーシスト?」と誉は、ケースを見て言った。
「お。分かんの?」
「いや……ギターより大きいから」
「雑」
男は笑った。
「シオン」
「……はい?」
「俺の名前。あんたは?」
「……北松」
「下の名前」
「言う必要あります?」
「ある。北松だけだと会社の人みたい」
会社の人みたい、は実際そうなのだが。
誉は数秒迷って、どうでもよくなって答えた。
「誉です」
「へえ。すげえ名前」
「……そうですか」
「そういう顔するってことは、気に入ってないんだ」
いきなり核心に触れられて、誉は口をつぐんだ。
シオンは何でもないふうに、ベースケースの端を軽く叩く。
「名前に負けてるとか思ってそう」
「初対面でずけずけ言いますね」
「当たってんじゃん」
「……」
「図星の黙り方だ」
誉は心底疲れていたので、反論する気力がなかった。
こういうタイプは、相手をすると長い。
黙ってやり過ごすに限る。
ちょうどその時、ホームに電車の風が流れ込んできた。
終電だ。
立ち上がろうとした誉の目に、ふと、ホームの柱の影が映る。
誰かがいた。
コート姿の男。帽子を深くかぶって、こちら——いや、シオンの方を見ていた気がした。
だが、電車が滑り込んできた瞬間、その姿は見えなくなった。
「行くの?」
シオンが聞いた。
「帰りますよ。普通に」
「ふーん」
「あなたは?」
「俺も。方向同じっぽいし」
「……なんで分かるんですか」
「くたびれたサラリーマンって、だいたいこっち方面」
「偏見がひどい」
二人は同じ車両に乗り込んだ。
空いている車内で、誉は扉横に立ち、シオンは優先席の前にベースケースを立てた。
電車が動く。
そこで誉は、奇妙なことに気づいた。
さっきホームの柱の影にいたコートの男が、別の扉から同じ車両に乗っていた。
帽子を深くかぶり、顔はよく見えない。
けれど視線だけが、やけにはっきりしていた。
シオンを見ている。
誉は迷った。
言うべきか。いや、気のせいかもしれない。
そもそも自分には関係ない。
関係ない。関係ないのだ。
だが次の瞬間、シオンが何の前触れもなく、ひょいと誉の方へ寄ってきた。
「あんた、気づいたでしょ」
「……何が」
「後ろ。帽子」
気づいていた。
しかも、おそらく最初から。
「知り合いですか」
「いや。たぶん違う」
「たぶん?」
「ライブハウス出たあたりから視界に入ってた。でも確信なかった」
「じゃあ、なんでそんな平然としてるんです」
「面白そうだから」
「面白……」
この男、正気か。
誉が本気で引いていると、シオンは小さく笑った。
「ねえ北松誉」
「フルネームで呼ばないでください」
「万が一なんかあったら助けてよ」
「嫌です」
「即答じゃん」
「当然でしょう。俺、あなたのこと今日会ったばっかりなんで」
「でもあんた、見て見ぬふりできないタイプ」
「それも初対面で決めつけないでください」
「もう見抜いた」
うるさい。
本当にうるさい。
次の停車駅で、帽子の男も降りた。
シオンも降りる。
誉は心の中で舌打ちした。行き先が同じ路線なのが最悪だ。
深夜の改札を抜ける。
シオンはわざとらしくあくびをしながら歩き、帽子の男は少し距離を取ってついてくる。
「警察呼びます?」
「証拠なくない?」
「じゃあ走って逃げれば」
「ベース重い」
「知りませんよ」
「冷たすぎ。氷河期?」
「あなたが勝手に絡んできたんでしょうが」
駅前はもう店じまいの時間で、人通りも少ない。
コンビニの明かりだけが妙に白かった。
その時、シオンが急に立ち止まった。
「……あ」
「なんですか」
「財布ない」
「は?」
「落としたかも」
「このタイミングで?」
「うん」
「最悪だ」
「北松、金貸して」
「嫌です」
「今千円でいい」
「嫌です」
「じゃあ一晩泊めて」
「もっと嫌です」
「でも財布ないし、追われてるし」
「知らないです」
「じゃああの帽子の人に相談する?」
「やめてください」
頭が痛くなってきた。
誉がこめかみを押さえた、その瞬間。
背後で、鈍い音がした。
振り返る。
帽子の男が、地面に倒れていた。
「……え?」
誉の喉がひゅ、と鳴る。
男はコンビニ横の細い路地の入口付近でうつ伏せになっていた。
滑ったのか、転んだのか。
だが、その倒れ方は妙だった。あまりにも、急だった。
シオンが真顔になる。
さっきまでの軽薄さが、すっと消えた。
「ちょっと待ってろ」
「待ってろって、いや、危ないかもしれないでしょう!」
「だから見るんだよ」
シオンはベースケースを下ろし、男に駆け寄った。
誉も逡巡の末、ついていく。
男の帽子が転がっている。
うつ伏せの体はぴくりとも動かない。
「……おい」
シオンが肩に触れ、男の体を少し横向きにする。
その瞬間、誉は息を呑んだ。
男のこめかみのあたりから、血がにじんでいた。
「さ、さわったらまずいんじゃ」
「分かってる。でも呼吸は——」
シオンが口元に手をかざす。
数秒。
「……ある」
誉は震える手でスマホを取り出した。
119。いや110か。いやまず救急か。
頭が真っ白になる。
「北松、通報」
「やってます……!」
指がうまく動かない。
その横で、シオンの視線がふと路地の奥へ向いた。
「……誰かいる」
「え」
誉も見た。
路地の暗がり、そのさらに奥。
一瞬だけ、人影が動いた気がした。
逃げたのか。
それともただの見間違いか。
通報を終えた誉は、息を切らしながらその場にしゃがみ込む。
膝が、馬鹿みたいに震えていた。
「なんで……なんでこんなことに」
絞り出すように言うと、シオンがこちらを見た。
さっきまでのふざけた顔じゃない。
けれど、目だけは妙に生き生きとしていた。
「たぶんだけど」
「たぶんじゃなくて、最悪なんですよ今」
「うん。最悪」
「俺、明日も仕事なんですけど」
「それは気の毒」
「他人事すぎるでしょう!」
誉が半泣きで怒鳴ると、シオンは少しだけ笑った。
「でもさ、北松」
「……何ですか」
「これ、転んだだけじゃない気がする」
救急車のサイレンが遠くで鳴り始める。
深夜の空気は冷たくて、やけに肺に刺さった。
誉はその時、まだ知らなかった。
この夜の“違和感”を見過ごせなかったせいで、
これから何度もこの男と関わるはめになることを。
そして、財布を落としたと言い張るこのベーシストが、
その二十分後には、当たり前みたいな顔で自分の部屋に上がり込んでくることも。