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小さな小川が飛び越えられずに、幼いカシューはグランドに弱音を吐いた。
「無理だよグランド。僕には無理だょ」
「カシューはいつも諦めるよね? 狩は諦めないで何日も親父《おじ》さんと獲物を追い掛けられるのに、何で直ぐに無理だと決め付けるんだい? こっちの道が近道なんだ、早く戻らないと父様達に見つかっちゃうよ? 一緒に怒られるのは嫌だろ? 」
「うん…… 」
グランドは僅かな村を束ねる小さな領主の息子だった。尤《もっと》も領主と云《い》うのは名ばかりで、村は農業に依存していた為、収入が限定的であり不安定で貧しく、農民達と概ね変わらぬ暮らしを領主自ら余儀なくされていた。領地を持つ貴族として住む館《やかた》に関しても、財政的な余裕も無く、城などは持たずに居館《きょかん》と呼ばれる質素な邸宅で、使用人もお手伝いと呼ばれる者が1人居るだけだった。
収益の低下は、領地そのモノの存続さえも危険に晒していた。兵士の雇用に十分な資金を投入出来無い貧しい領地は、戦争や紛争等により、戦場と化してしまうと、侵略や略奪の対象になってしまう。領民を守る事さえも敵わず、更に被害が拡大し、村自体が破壊される様な事になれば、復興にもまた負担が増え、経済的な苦境に立たされる事となる。資源に乏しい土地の領主は、戦争が長引けば長引く程、困窮して行く事となってしまっていた。
貧しい領地は出生率にも大きく影響を及ぼし、農業を継ぐ担《にな》い手不足にも拍車をかける事となった。そんな子供が少ない中で、グランドとカシューは、身分は違えど同い年と言う事もあり、お互い仲良く成るには時間はそう掛からなかった。
グランドは午前中の剣の稽古を終えると、カシューの家の近くの畑にコソコソと現れる。勿論、親には内緒で遊びに行く為だったが、そんな小さな浅知恵に、二人の親達が気が付かない訳が無い。全てを知った上で親達は、黙認していてくれていた。
「さぁ早くカシュー、怖くなんかないよ? 平気さ」
「だってぇ無理だよぉ」
「諦めたらその先に広がる景色が見れないよって、父様《とうさま》が行ってた」
「景色? 」
「うん、この世界はね、凄く広いんだって父様が教えてくれたんだ、色んな景色があるんだって」
「色んな景色…… 」
「そうだよ、見た事も無い景色が広がってるんだ。凄いと思わないかい? カシューだって見てみたいだろ? 」
「う~ん、グランドが一緒なら…… 」
「俺はカシューと、その先にある景色が見たいんだ。さぁ一緒に行こうよカシュー、だから諦めたらダメだ‼ ほらっ」
幼いグランドが手を伸ばした―――
―――互いに誓った遠き夢を叶える為に
折れかけた心に火が灯り、幼き頃の約束が蘇る。その先にある景色をグランドと肩を並べて見る為に、魂が情熱を伴《ともな》い息を吹き返す。後ろから首を絞める相手の足を思い切り踏み抜くと、諦めかけた想いが、足掻《あが》いてみろと心を奮い立たせる。立て続けに肘を脇腹に叩き込むと、小さな悲鳴の後に、僅《わず》かばかり相手の力が弱まった。一瞬怯《ひる》んだ所に、千載一遇とばかりに後頭部を相手の鼻先へと思い切り打ち込んでみせた―――
「がはっ――― 」
「まだだ、まだ終われない‼ まだだ、グランドぉ――― 」
カシューは勢いを殺す事無く、友の名を叫び其の儘後方へと全体重を掛け、手摺《てすり》に相手の身体ごと叩きつけた。火炎により既に脆くなっていた木製の手摺は強度を失い、バキンと悲しくもその役目を終えると、容赦無く縺《もつ》れ合う二人を矢蔵の天辺《てっぺん》から吐き出した―――
「カシューさんダメッ、嫌ぁ――― 」
矢蔵から無情にも落下する二つの影に、その状況を目の当たりにしていた少女は、悲痛な叫びを荒れ狂う大火《たいか》に投げ掛ける。容赦無く燃え盛る地獄の火炎は、容易く二人の影を飲み込むと更に勢いを増し、畝《うね》り舞う炎が、手招《てまね》きする悪魔の様に不気味に微笑んでいる様に見えた。
甲高い音色《ねいろ》が闇夜を切り裂き、奇襲を知らせる金管音《きんかんおん》が個々の鼓膜に突き刺さると、緊張の糸を一気に手繰《たぐ》り寄せた。状況を理解するよりも早く誰かが喉を潰すかの如く絶叫する―――
「―――――敵襲だ‼ 」
同時に砦の主軸部の防壁の上部に配備されていた大型弩砲《バリスタ》と大砲が、轟音と共に何者かによって吹き飛ばされた。爆発は連鎖を起こすと、次々に防壁上部は大爆発を起こす。
―――なっ⁉ しまった……
恐れていた事態が現実となり、砦全体が爆音で地鳴りを起こすと、兵士達に動揺が広がった。急がねば取り返しのつかない事になる。併《しか》し、此処で対処を間違えれば、更に被害は拡大する。絶対的に情報量が少ない中でグランドは、最優先でこの重責《じゅうせき》を担う判断を迫られていた―――
―――どうする……
判断を間違えてはならぬと気負うグランドの背中から、ガチャリと義足がその神威《しんい》を示すと、煌《きら》びやかな甲冑を隠した長外套《マント》が風を纏い、夜空に舞った。絶対的な威厳を放つ三日月の紋章が主《あるじ》と伴《とも》に風に棚引《たなび》き現れると、言葉なくして兵達を黙れと跪《ひざまず》かせた。その直後、真っ直ぐな声が心を貫き回廊を渡る。
「この程度で誰が狼狽《うろた》えて良いと言った? 貴様等は六将軍の誰の部下達だ? 一体誰の軍旗を掲《かか》げる者達だ⁉ 敵乍《てきなが》ら見事な仕事では有るが所詮、夜襲でしか事を成し得ない雑魚などは容易く蹴散らして見せよ。蛮行には我らの手で鉄槌を下し、そして心から後悔を引き摺《ず》り出してやれ、良いな? 」
威風堂々たるや、その姿はまさしく戦場の女神。一瞬にして兵士達の不安を拭い鼓舞《こぶ》すると、迫り来る血の匂いに笑みを溢《こぼ》す。
「私が選んだ大隊長代理に間違いは無い! 指示に従い敵を討て。さぁ腹を鳴らせ、食事の時間だ」
「うおぉぉぉぉぉ―――――‼ 」
女将軍の大喝一声《だいかついっせい》により夜空に立ち昇る気焔万丈《きえんばんじょう》。猛《たけ》る兵達の士気は一気に跳ね上がった。
「私の役目は此処までだ、後は貴様に託すぞグランド。私を失望させるなよ」
「はい。必ずや閣下のご期待に添えるよう勇往邁進《ゆうおうまいしん》お約束致します」
「この非常時にシャマールの所在が不明なのは腑《ふ》に落ちんが、貴様を皆に認めさせる好機である事には変わりない。貴様自身の実力を遺憾無く発揮し、自分で居場所を奪ってみせろ」
「お心遣い感謝致します。閣下」
グランドはその覚悟を以《も》ってして将軍に片膝をついた。
「ヴェインもたもたするな早くしろ、もっと早く走れないのか? 」
「きいぃ化けモンのあんたと一緒にすんじゃねぇよ。こっちは心臓が口から飛び出ちまいそぅだってのによぉ」
両手を膝に突き立て腰を折り、肩で息をするヴェインに、暫《しばら》く肉は禁止だなと言い掛けた刹那、甲高い喇叭《らっぱ》の音《ね》が夜空を駆け巡る。
―――ナディラ……
(上手くやったみたいだな)
「畜生‼ やっぱり俺達を襲って来たのは、奴等《やつら》だけじゃねぇってかよ? 休んでる場合じゃねぇな畜生め」
「そんなに重いのなら、その肉の鎧を脱げばいいだろ? 」
「きいぃ化けモンの癖に人の言葉を上手く使いやがって、あー聞こえねぇ、なーんも聞こえねぇ、俺ぁさっき頑張ったの‼ だから疲れてんの‼ 筋肉は裏切らねぇの‼ 覚えてやがれ」
―――直後
砦の防壁《ぼうへき》上部にドガンと爆発音が響き渡ると、火柱が立ち昇《のぼ》り夜空を真っ赤に染め上げる。続け様に爆音が火の粉を巻き上げると信じられない光景が二人の前に広がった。
「なっ⁉ クソが、ヤリやがったな」
「やられたな。これは間違いなく用意周到に予め計画された襲撃だ、短時間で出来る事じゃない。急がないと被害が拡大するぞ」
「おいアンタ、今は肉の事は勘弁してやる。先に砦に向ってくれ」
いつの間にか笑みを失ったヴェインを黙って凝視《みつ》める。
「そんな顔も出来るんだなヴェイン…… 」
「ほっとけってんだ畜生め、頼む。グランドを頼む」
「分かった…… 先に行く」
激浪のわだつみは猛り狂い啼く。泡立ち騒ぐ大釜は、大火と身を写し、颶風《ぐふう》を纏い舵取りを惑わす。紅蓮に染まりゆく波濤《はとう》は、ゆっくりと全てを確実に飲み込んで行った。