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#復讐
草原草原(くさはらそうげん)

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木風
791
#サレ妻
都築七美
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二十四日の夜、ケーキは小さいのを一つ買った。駅前のパン屋で、千二百円。
結衣は、二階から持ってきた画用紙に、ろうそくの絵を描いて、ケーキの横に立てた。本物のろうそくは、箸立ての奥に二本しかなかったから、絵で足りるということにした。結衣の冬靴は、丸正食品の社長の商品券で、先週買った。箱のまま、ケーキの横に置いてある。
「お母さん。お願いごと、言っていい?」
「クリスマスのお願い?」
「うん」
真尋は、フォークを置いた。何でも言って、と言う前に、結衣が言った。
「お母さんが、泣かないこと」
真尋は、少しのあいだ、何も言えなかった。
雨の夜、台所で泣いたのは、結衣が寝たあとだった。声は出さなかった。二分で顔を洗った。それでも、結衣は知っていた。
「分かった。それにする」
「約束」
「約束」
結衣はケーキを食べて、八時半に寝た。
真尋は台所で皿を洗い、洗い終えて、流しの前に立つ。
結衣は、七歳で、父親が家にいなくなった最初のクリスマスに、プレゼントをお願いしなかった。
真尋は、約束した夜に、約束を一度だけ破る。声は出さない。顔を洗って、台所の灯りを消した。
二十六日、金曜。事務所の忘年会は、駅前の居酒屋の座敷だった。
神谷、誠一、大久保、坪井、真尋。五人で、座敷の端の卓を囲んだ。真尋は、飲まなかった。結衣は井口のところに、九時まで預けてある。
誠一が、最初に杯を上げた。
「今年は、うちに監査人が来た。真尋さんに」
真尋は、烏龍茶のグラスを持ったまま、誠一を見た。
「先生、私は」
「監査人だ。帳簿を読める人間を、俺はそう呼ぶ。真尋さんに」
大久保が「真尋さんに」と言い、坪井が「篠原さんに」と言う。神谷は、何も言わずに、グラスを少し上げた。
真尋さん、と誠一が呼んだのは、今日が初めてだった。真尋は、烏龍茶を一口飲んで、「ありがとうございます」と言う。それ以上の言葉は、見つからない。見つからなくていい席だった。
大久保が、二杯目のビールで言った。
「ねえ先生。真尋さんが来てから、所長の機嫌がいいのよ。年末調整、三十二件、一件も戻りがなかったの。去年は五件戻ったのに」
「業務だ」
神谷が言った。大久保が笑った。
「ほら。ああいうとこ」
坪井が、唐揚げを取りながら、小さく言った。
「僕の十二件も、戻りゼロでした」
「坪井くんは、真尋さんが見てくれたからでしょ」
坪井は、否定しなかった。
真尋は、鶏の煮物を食べながら、聞いていた。この卓で、自分のことが話されている。見下されていない形で。それが、今年の終わりにあった。
九時少し前に、お開きになった。
店の外で、誠一がタクシーを止め、大久保と坪井が駅に向かった。真尋が井口の家のほうへ歩き出すと、後ろから声がした。
「篠原さん。車で送る」
神谷だった。飲んでいない。
「結衣さんを迎えに行くのだろう。井口さんの家は、学校の裏だと聞いた。歩けば二十分だ。通り道だ」
「所長、通り道って」
「乗りなさい」
神谷の車は、事務所のビルの裏の駐車場にあった。白い、古い国産車。中には、何も置いていない。
真尋は助手席に座る。神谷は、何も言わずに車を出した。
井口の家で結衣を乗せる。結衣は、後ろの席で、すぐ眠った。
国道から住宅地に入ったところで、神谷が言った。
「あなたの数字の読み方は、親父に似ている」
「先生に、ですか」
「親父は、帳簿を読んで、相手の家で何が起きているか、全部分かる人だった。ただ、読んだことを、人に言わなかった。相手が自分で気づくまで待った。それで、何度か、間に合わなかった」
真尋は、前を見ていた。
「あなたも、言わない」
「言っても、読んでもらえなかったので」
恭平に言わなかった。敏子に言わなかった。博には、博が自分で読んだ。
神谷は、少しのあいだ、何も言わなかった。
「読ませるんじゃない。読み上げるんだ。親父が、よくそう言う。帳簿は、書いた人間が、声に出して読むものだ、と」
「読み上げる」
「数字だけでいい。感想は要らない。あなたの家計簿なら、読み上げれば、聞いた人間が自分で分かる」
真尋は、その言葉を、頭の中で一度繰り返した。読み上げる。恭平の前で、博の前で、自分の字を、自分の声で。やったことは、まだ一度もない。
後ろの席で、結衣が寝返りを打った。
車は、真尋の家の一本手前の角で止まった。家まで、あと五十メートル。
「ここでいい。近所の目がある」
真尋は、シートベルトを外した。
「所長。通り道じゃないですよね。事務所の上に住んでるのに」
神谷は、前を見たままだった。
「通り道だ」
「はい。ありがとうございました」
真尋は、後ろの席の結衣を起こして、降りた。角で振り返ると、神谷の車は、まだ止まっていた。
家の前に、人が立っていた。
街灯の下。コートを着て、紙の袋を持っている。
敏子だった。
真尋は、結衣の手を握り直した。
「お義母さん」
「遅いじゃない。こんな時間まで、子どもを連れて」
敏子は、持っていた袋を、真尋のほうに少し上げた。結衣の着替えの袋だった。敏子が同居していたときに使っていた、紙の袋。中に、結衣のパジャマと下着が見える。
「結衣は、正月、うちで預かります。二日から。恭平も来ます。あなたは、来なくていい」
真尋は、家の鍵を、手の中で握った。
結衣が、真尋の手を、両手で握った。
コメント
1件
うわ、第17話…すごく静かで、でもすごく重い話だったね。 結衣が「お母さんが泣かないこと」ってお願いしたところ、胸がぎゅっとなったよ。7歳でそこまで考えられるの、切なすぎる。神谷所長の「通り道」も、絶対ウソだと思うんだけど、そういう不器用な優しさが染みる…。 最後の敏子さんの登場で、また空気が変わった感じがした。恭平も来るって…真尋さんの立場、本当に辛いね。続き、すごく気になるよ…🥀