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教室の扉を開けたとき、ちょうど、日下部がノートを閉じるところだった。目が合った。一瞬だけ。
その瞳は何も責めなかった。
ただ、何かを言いたげに、そっと遥の顔を覗き込んでいた。
遥の足が、止まった。
心臓が痛むほど強く脈打った。
――汚れる、と思った。
この視線のまま近づけば、あいつの中に自分の“汚れ”が入り込む。
あのやわらかい優しさの奥まで、自分の内側の、黒く濁ったなにかが染み出していくような気がして。
震える指先を、袖の中に隠す。
呼吸ができなくなりそうだった。
ああ、またこの顔だ。
また、安心しそうになってる――。
「……見るなよ」
喉の奥から、砂を噛んだような声が出た。
日下部の目が揺れる。けれど、何も言わなかった。
遥は、無意識に一歩下がった。
この距離でも足りない。まだ近い。
この距離では、“あいつのやさしさ”に、自分が寄りかかってしまう。
それがなにより、怖かった。
「もう、話しかけんな」
その言葉は、剥がれかけた皮膚を無理やり剥ぐように、痛かった。
でも、吐かなきゃならなかった。
「俺、おまえのこと……汚す」
言った瞬間、口の中が苦くなった。
吐き出したのは、自分の中にだけ棲んでいたはずの“呪い”だった。
日下部は――目を逸らさなかった。
でも、それ以上近づきもしなかった。
それが、遥をいちばん追い詰めた。
その優しさすら、自分には届いてはいけないと、心が勝手に判断してしまう。
遥は、逃げるように教室を出た。
背中に残るのは、後悔でも怒りでもなく――「自分という存在の、濁ったにおい」だった。