テラーノベル
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ペナルティマークにボールを置き直し、ボールを見つめながら、助走のために後ろへさがる。相手チームからの野次が激しくなっていた。ブーイングの雨を浴びているみたいだ。集中しているはずなのに、胸までざわざわしだす。
四歩目、五歩目、遠いか? いやここでいい、止まる。視線をあげた。前を向く。
水沼がじっとりとした目を俺に向けていた。
両腕を掲げるように広げた彼が舌を出した。唇を左から右へとゆっくり舐めていく。その場でぴょんぴょんと跳びだす。凄まじいほどの敏捷なバネを感じさせる膝だ。そうしながらも、水沼は俺の目の裏までを舐めまわすような視線をよこしてきた。
ペナルティキックは心理戦だ。
ゴールマウスの端に冷静にシュートをすれば、決めることができる。
だが、決めなくてはという自分からのプレッシャーや、外せという相手ゴールキーパーからの精神的なプレスに負けた時、キッカーがシュートするボールはゴールマウスから外れる、もしくはゴールキーパーにセービングされる。
ゴールキーパーから受けるプレスは圧倒的だった。
俺は長めに息を吐く。目を瞑った。
何度も何度も、深呼吸をする。目を開いた。
ゴールマウスが狭い。しかも、水沼が縦横に膨らんでいるみたいだ。
そんなありえない光景をイメージさせるほどの緊迫感で吐きそうだった。
失点率0.00。ふざけた数値。
それでも、そのスコアは彼に相応しかった。
水沼がさらに膨らむ。かろうじて息を吐く。きちんと蹴れるだろうか? 端に蹴れるだろうか? 外さないだろうか? ……吹き出す汗が額を伝い落ち、目に入る。目を瞬かせるとさらに視野が狭まっていた。
不意に俺は立てているのか? と思った。力が入っているのか脱力しているのかあやふやな気持ちだ。意識が遠くなる感覚。
呼吸が浅くなった。苦しい。背中でシャツが汗で貼りついていた。
ゴールマウスの端を狙うのではなく、真ん中を蹴ってみるか。
ふと、そう思った。
だいたいにおいてキッカーはゴールマウスの端を狙う。だから、ゴールキーパーも端に跳ぶ。
その裏をかく……いけるかも。
もう一歩さがって助走の距離をとる。
いける気がしてきた。乱れていた呼吸が平常に戻りだす。
水沼の思考の裏をかく。完璧じゃないか。真ん中に蹴る以外の選択肢が陳腐なものに思えてきた。
意識的にこちらからも水沼と目を合わせる。おまえと駆け引きしてやる。
水沼が「ん?」と目を細めた。
ゴールマウスの右端をちらっと見る。フェイクだ。右端を狙っていると思わせる。
なあ、瑞奈。これでいいんだろ。心の中で問いかける。当然ながら応答などあるはずもない。
が、ざわざわとした落ち着かない気分が俺をとりまいた。
え……!?
水沼が、にたあっ、と口をゆがめていた。
決断した考えがぐらつく。怖い。思わず視線をさまよわせた。
観客席に川南澪がいた。睨むように俺を見ている。その目が何かを言いたげだった。
『焦ってトリッキーな攻撃をしかけないこと。あのキーパーの裏をかこうとしても、絶対にすべて読まれるから』
川南からのアドバイスが浮かび上がる。裏をかこうとしても、読まれる……。
俺は遠く、川南の瞳を探るように凝視する。川南が微かに頷いた気がした。
ざわついていた心情にゆっくりとした変化が生まれていく。何かが見える予感。瞼を閉じた。
何が見える? 何がある?
瞑目したまま腕をあげ、指先を伸ばす。何かに触れようと、何かを掴み取ろうと、手指を広げ、その先に、瑞奈の顔があった。
頬に触れる。温かく柔らかい。まさにその時だった。意識の中で瑞奈が言明した。
――勝負するしかないんじゃない。
瞼を開けようとすると、それをさせないぐらいに早い話の接ぎ穂をもって、意識の中の瑞奈が言葉を続けてきた。
――晴翔くんの嘘はバレるよ。嘘つくとき右眉がぴくりと上がる。全部分かっちゃう、あ、嘘だって。だから、正々堂々、思い切り端っこにボール蹴って勝負したら。情熱をこめたシュートをがっつりと決めて欲しいな。だいたいさ、半年前に新宿で飲み会したって言ってたけど、あの時右の眉が上がっててさ、『あ、女だ』って……。
俺は慌てて目を開けた。ふつりと瑞奈の映像が途切れる。頬が熱くなっていた。
「バレてた……?」顔をぶんぶんと真横に振る。
「何をぶつぶつ言ってんだよ。審判、遅延行為だ」
水沼が審判に視線をやった。この時、水沼の集中が切れたような気がした。
審判が胸ポケットに指先をつっこみながら俺の方へ数歩進み、イエローカードを提示する。遅延行為によるカードだ。
「ったくよう」
水沼が再びゴールマウスの前で両腕を広げた。
水沼とゴールマウスとの間にある隙間が、先ほどよりも広がった気がする。
コールマウスが狭いとも、水沼が膨らんでいるとも、もう思わなかった。
直視してきた水沼を俺は睨み返す。
決めた。
勝負する。
逃げない、諦めない、絶対に負けない。瑞奈を決勝に連れていく。
ゆっくりと踵を上げ、助走する。
蹴るボールのコースが浮き上がっている気がした。助走するスピードを速める。殻を破れ。才能を出し尽くせ。
もうゴールマウスを見ない。水沼も見ない。ボールだけを見る。
芝を踏み込み、右足で大きく振りかぶった。勝負だ。情熱だ。
渾身の力でシュートを打つ――。
ボールが右端へと鋭い横回転で飛んでいく。水沼も右端に跳び、反応していた。
全てが一瞬のことだ。それなのに、その一瞬がとてつもなく長かった。
水沼の手が、身体が伸びる。
ボールも伸びた。スピードを増す。キーパーグローブを掠めたボールが、ちっ、と音を立てた。それでも、ボールの勢いが勝った――ゴールネットに突き刺さる。
山が動くようなどよめき、そして、大地を揺さぶる大歓声。
審判が笛を吹いた。試合終了のホイッスルだ。
俺は駆けだした。チームメイトのもとへ。ここにはいない瑞奈のもとへ。
瑞奈、瑞奈、瑞奈!
「晴翔、よくやったああああ!」「晴翔ぉ!」「でかした、晴翔!」
誰かに押し倒された。チームメイトが一斉に覆い被さってくる。重いって。でも、嬉しい。込み上がる喜悦の興奮のまま俺は倒れた姿勢で腕を突き上げる。
空の蒼さが、眩しいくらいに目に染みた。
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