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なにはともあれ、僕は1年間の長い病院生活を終え、今では市の職員から紹介された小さなアパートの1階で一人暮らしている。
部屋は狭い。
玄関を開けると、すぐに台所と寝室が目に入る。
壁紙は所々剥がれていて、窓の外から差し込む光は弱々しい。
けれど、それでいい。
明るすぎる部屋なんて、今の僕には似合わないから。
この部屋を紹介してくれた市の職員は、大家さんのことをこう説明していた。
「隣に住んでいる大家さんは元職員で、とても親切な方ですよ。」
実際、その言葉に嘘はなかった。
大家さんは毎朝味噌汁を作って持ってきてくれる。
塩分控えめで、具材はいつもわかめだけ。
貧乏臭いといえばそれまでだが、その味噌汁にはどこか懐かしい温かみがあった。
「ほら、今日も作ってきたよ。ちゃんと食べなきゃだめだよ。」
朝、ドアを開けると大家さんの笑顔が迎えてくれる。
その皺だらけの手には、湯気を立てる味噌汁の入った小さな鍋があった。
「いつもありがとうございます。」
僕はぎこちなく頭を下げる。
大家さんは笑いながら鍋を差し出し、僕の顔をじっと見つめた。
「昨晩はちゃんと眠れたかい?」
「何か気になることはないかい?」
そんな質問を毎日のように投げかけてくる。
その優しさが、時折鬱陶しいと感じることもあった。
だけど、誰も気にかけてくれない孤独よりは、ずっとマシだと思った。
ある日、僕は何気なく大家さんに問いかけた。
「どうして、こんなに親切にしてくれるんですか?」
大家さんは少し驚いたような顔をしてから、ゆっくりと答えた。
「あんたを見ているとね、昔世話した子を思い出すんだよ。」
「あの子も、何か大切なものを失ってね。それでも、どうにか前を向こうとしてた。」
大家さんの声が少し震えていることに気づく。
けれど、僕はそれ以上何も聞けなかった。
大家さんの背中が見えなくなるまで見送ると、そっと鍋の蓋を開けた。
わかめしか入っていない味噌汁から立ち上る湯気が、
どこか優しく僕を包み込む気がした。
僕の1日は、その味噌汁を食べることで始まり、
昼過ぎには空を見上げて君のことを思い出すことで終わる。
家具はほとんどない。
内見に訪れた空き部屋のように、殺風景な部屋だ。
テレビなんて必要ない。
君と一緒に見ることができないテレビなんて、つまらないだけだ。
スマホだって、あの日君と身を投げる前に解約してしまっている。
繋がる相手がいないスマホに何の意味がある?
味噌汁を食べ終えた後、僕は窓際に座り込む。
そこから見える空は、いつもどこかぼんやりとしている。
まるで君がいたあの頃のような鮮やかさが失われてしまったかのようだ。
記憶を辿る。
君と一緒に見た景色、君と交わした言葉、君の笑顔―――。
それらを頭の中で必死に繋ぎ合わせる。
それが、僕の日課だった。
ある時、大家さんが突然こう言った。
「あんた、ずっと空ばかり見ているけど、何を考えているんだい?」
僕は少し迷った後、正直に答えた。
「過去のことです。」
「もう手の届かない、大切な人のことを思い出しているんです。」
大家さんは少し目を細め、静かに頷いた。
「過去ばかり見ていたら、転んじまうよ。」
「でも、その過去を支えにするなら、それはきっとあんたの力になる。」
その言葉が、胸の奥でじんわりと響いた。
君のいない世界を生きる理由を、僕はまだ見つけられない。
だけど、大家さんの言葉には、どこか救いがあった―――。
夜は、僕が一番苦手な時間だ。
窓の外に広がる夜空。
そこにまた星が輝いているのを見るたびに、心がざわめき始める。
あの日、君と見た星空。
そして、その星空に向かって飛び込んだあの瞬間―――。
その記憶が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
全身が震え出し、呼吸が荒くなる。
目を閉じても、何も変わらない。
星空がまぶたの裏に焼きついて、逃げ場を失う。
震えが酷くなるときは、身体が自分のものではなくなる。
暴れ出し、叫び、涙が止まらなくなる。
頭がぐらぐらと揺れる感覚に襲われ、激しい目眩で意識を失うこともある。
そのとき、僕の身体がどうなっているのかなんて分からない。
気がつくと、大家さんが隣にいてくれることが多い。
ある夜、酷い発作を起こした後、気を失いかけながらも、
大家さんが僕の肩を支えているのを感じた。
「ほら、大丈夫だよ。もう怖くないよ。」
その声はどこか震えていた。
僕が無意識に大家さんの腕を掴んで、力任せに振り払ったせいだった。
その日、僕は大家さんを殺しかけた。
後日、恐る恐る大家さんに謝罪をした。
そのとき、彼女は静かに首を横に振り、こう言った。
「気にしないでおくれ。」
「あんたは毎日、よく頑張ってるよ。」
その言葉が、僕の胸を締め付けた。
どうしてだろう。僕は何一つ、頑張れてなんかいないのに。
「夜が怖いのは、あんただけじゃないよ。」
「暗い中で震える気持ちは、誰にだってあるんだから。」
その声には、経験から来る優しさが宿っていた。
夜空を見上げるたび、君の孤独が胸を刺す。
君がひとりで戦っていたその時間の長さと、深さを思い知る。
もし君がここにいてくれたら、僕は何と言っただろう?
手を差し伸べることができたのだろうか?
それとも、君の孤独に気づかないまま、君を失ってしまった僕のままだったのだろうか―――?
答えのない問いが、夜ごと僕を苦しめる。
星が視界に入るたび、僕の心は君の記憶の中へと引き込まれていく。
ある夜、大家さんがぽつりと呟いた言葉が、
そんな僕を少しだけ救った。
「あのね、星空を見るときは、星だけを見ちゃいけないんだよ。」
「暗い空があるから、星はあんなに綺麗なんだからさ。」
大家さんの言葉が、心の中に深く染み込んでいく。
でも、僕はまだその意味を完全に理解できない。
僕がこんな病気になるなんて、生涯で一度も想像したことはなかった。
でも、この病気を通して初めて知ったこともある。
精神病の辛さ、怖さ、苦しさ。
君は、こんなにも苦しい世界で、生き抜いてきたんだね―――。