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#ヒューマンドラマ
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第1話 梅の香る夜
勝ち戦の夜だった。
兵たちは笑い、灯は明るく、酒の匂いまでぬるい熱を帯びていた。
なのに楊戩の指先だけが、ずっと冷えている。
夜気に梅の香がまじっていた。
白い花が、月の下でかすかに揺れている。
静かな夜だ。
静かすぎて、胸の奥の軋みだけが妙に響いた。
中庭の向こうで、廉が笑っていた。
誰かに肩を叩かれ、誰かに杯を向けられ、自然に輪の中心にいる。
大げさに威張るでもなく、媚びるでもなく、ただそこに立っているだけで、人が寄っていく。
廉は昔からそうだった。
あれほど近くにいたはずなのに、と楊戩は思う。
戦場では背を預ける。
刃の届く距離で呼吸も読む。
それなのに、こういう時の廉は、ひどく遠い。
梅の枝越しにその横顔を見つめていると、胸の奥がじわりと熱を持った。
羨ましいのか。
焦っているのか。
それとも、もっと別の、口にした瞬間に形を変えてしまいそうなものか。
自分でも、まだ呼び名をつけきれない。
「……楊戩?」
名を呼ばれて顔を上げると、いつの間にか廉がすぐ前まで来ていた。
「こんなところにいたのか。探したぞ」
廉はそう言って、いつものように気軽に笑う。
戦の後だというのに、その目はまっすぐ澄んでいて、曇りがない。
「お前にも声がかかってる。来いよ」
「俺はいい」
「よくないだろ。今夜の働き、みんな見てた」
廉が手を伸ばす。
袖口がわずかに触れた。
たったそれだけで、楊戩の喉がひどく乾いた。
近い。
近いのに足りない。
もっとはっきり、自分だけを見る目がほしい。
その手が、自分だけを選ぶ形で伸びてくればいいのにと、ふいに思ってしまう。
その瞬間、自分の内側に生じた濁りに、楊戩は息を止めた。
廉は何も知らない。
知らないまま、無防備に笑う。
「あとで抜けるなよ」
「……善処する」
「何だそれ」
廉は短く笑った。
その笑みがひどくやさしくて、やさしいまま他の誰かにも向けられることが、たまらなく腹立たしい。
向こうから別の兵が廉を呼んだ。
廉は「ああ、今行く」と振り向く。
去り際、ほんの一瞬だけ、また楊戩を見る。
その視線はたしかに自分へ向いていたのに、次の瞬間にはもう輪の中へ戻っていく。
置いていかれる、と思った。
そんなはずはない。
同じ軍にいて、同じ戦場に立っている。
それでも、廉は遠ざかっていく気がした。
自分だけが、追いつけない。
楊戩はゆっくり息を吐いた。
吐いたはずなのに、胸のつかえは少しも軽くならない。
何に苛立っているのか、わからない。
廉か。
周りの兵か。
それとも、あんな笑顔一つで足を止める自分自身か。
情けない。
強くあろうと鍛えてきた。
誰より先に立ち、誰より冷静に刃を振るうと決めてきた。
それなのに、たった一人の男の笑みに、心がこれほど乱される。
白い花弁がひとひら、肩先に落ちた。
楊戩はそれを指で払う。
だが落ちた花弁は地に触れる前に風にさらわれ、闇へ消えた。
不意に、背後の気配に首筋が粟立つ。
誰もいないはずの暗がりだった。
宴の灯は届かず、梅の枝が黒く重なっている。
「そんな顔をするほど、欲しいか」
低い声だった。
近いようで遠い。
耳元で囁かれたようでいて、夜気そのものが言葉を含んだようにも聞こえる。
楊戩は振り返る。
闇の中に、人影はまだはっきりしない。
ただ、そこだけ月の光が浅く、何かが息を潜めている気配だけがあった。
「……誰だ」
問い返しても、すぐには答えがない。
代わりに、梅の香がふっと濃くなる。
冷えた甘さの奥へ、別の気配が差し込んだ。
やわらかくはない。
皮膚の下へ薄く刃を滑らせるような、ひどく静かな気配だった。
「届かぬものを、ただ見ているのはつらいだろう」
その一言が、胸のいちばん痛い場所へまっすぐ落ちた。
否定しようとした。
だが声にならない。
闇は責めるでもなく、笑うでもなく、ただ知っているように続ける。
「奪えとは言わぬ。ただ――」
「……黙れ」
ようやく絞り出した声は、自分で思っていたより低く、かすれていた。
それでも気配は去らない。
楊戩の沈黙ごと、値踏みするようにそこにある。
花弁が、またひとつ落ちた。
白いそれが足元へ触れるのを見ていたはずなのに、次に気づいた時、楊戩の視線は闇の奥へ向いていた。
ほんの一歩。
踏み出したわけではない。
だが、立ち去ることもできなかった。
梅の香が、冷えたまま肺の奥へ沈んでいく。
そして闇の中で、ようやくその声は、かすかに笑った。
「その痛み――使い道がある」
白い花弁だけが、月の下で静かに散っていた。
コメント
1件
梅の香の冷たさと、楊戩の胸の痛みがひしひしと伝わってくる1話でした。戦場では背を預け合うほど近くにいるのに、廉の笑顔が自分だけに向かないもどかしさ……「近いのに足りない」っていう表現がすごく刺さりました。最後に現れた闇の声も不気味で、「その痛みの使い道」が何なのか、続きが気になりすぎます!