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るるくらげ
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#再会
私はその指輪を嵌めることはなく、思わず言ってはならない言葉を口にしてしまっていた。
「別れたい」
モラちゃんは一瞬、私がなにを言っているのかわからないという顔をした。ビールの缶を握った手が止まって、目が少しずつ大きく見開かれる。次の瞬間、顔を赤らめ右手を振り上げた。振りかぶった手は私の頬を叩き、パチン、という乾いた音が部屋に響いて、よろけた弾みで私は床に座り込んだ。
殴られた。
これまで言葉の暴力はあった。「おい」「おまえ」って呼ばれて、「俺がいなきゃ何も出来ねえくせに」って吐き捨てられて、壁に押し付けられて小言を浴びせられて、毎日のように心が削られてきた。
でも、手を上げたことは一度もなかった。
だから、この痛みは新鮮で、頰が熱くなって、ジンジン痺れて、涙が勝手に溢れてくる。でも、泣いてるんじゃない。ただ、頰が熱いだけ。
もう耐えられない。
「幹雄くん、別れよう」
私は床に座ったまま、指輪の箱をテーブルに置いて、静かにそう言った。声が震えてるけど、もう後戻りできない。モラちゃんは手を振り上げた姿勢のまま、息を荒げて私を見下ろしてる。顔が真っ赤で、目が血走ってて、でもどこかで、信じられないって表情が混じってる。
「おまえ……何言ってんだよ」
低い声で、でも震えてる。ビールの缶を握りしめた手が白くなって、缶が少し凹む音がする。
「別れるって……ふざけんな。今さら何だよ。俺がお前に指輪まで渡して、結婚しようって言ってるのに」
声がだんだん大きくなって、最後は怒鳴り声に近い。私は頰を押さえて、ゆっくり立ち上がる。足が少し震えてるけど、視線は逸らさない。
「もう、嫌なんだ。毎日『おまえ』って呼ばれて、店に来て監視されて、腕掴まれて、帰り道で悪態ついて、肉じゃが一つで『嫁に行くなら』って言われて、今日だって、指輪を渡すって言いながら、『ありがたく思えよ』って……」
言葉が、次から次へ溢れてくる。止まらない。今まで、心の奥に押し込んでたものが、全部、口からこぼれ落ちてる。
「私は高千穂弥生だよ。『弥生』って名前で呼んでほしいのに、ずっと『おまえ』で、私の夢を笑われて、私の居場所を奪われて、もう、息ができない」
モラちゃんは拳を握ったまま、一歩近づいてくる。でも、私は後ずさりしない。もう、怖くない。怖いのは、このまま続けてしまうことだけ。
「別れる。今日で終わり。荷物まとめて、出ていく」
彼の顔が、歪む。怒りか、悲しみか、それとも両方か。
「出てくって……どこへだよ。おまえ、俺がいなきゃ何も出来ねえだろ。金もない、仕事もない、ただのメイドだろ」
その言葉が、胸に刺さる。でも、私はもう、彼の言葉を聞いていない。頰の痛みが、逆に私を強くしてる。これは、始まりの痛みだ。
「ごめんね。もう、終わり」
寝室へ行く。スーツケースを引き出して、服を詰め始める。モラちゃんはリビングで、座り込んで、ビールを握ったまま動かない。怒鳴らない。殴らない。ただ、呆然としてる。私は荷物をまとめながら、心の中で呟く。
リビングのチェストの引き出しを開け、一枚の紙と擦り切れた通帳を取り出す。呆然とするモラちゃんの前に紙を広げる。こんな時のために不動産屋さんからもらっていたアパートの『解約届』だ。私のサインと不動産屋さんの印鑑が押されている。あとは提出するだけだ。
「幹雄くん、このアパート解約する」
「解約?もうここに戻らないつもりなのか?」
「二週間以内に退去して。ガスと水道、電気も止まるから」
私は『解約届』をバッグに入れ、スーツケース1つ持って、玄関へ向かった。足音が、いつもより重く響く。モラちゃんはリビングの床に座ったまま、呆然と私を見上げてる。顔はまだ赤くて、右手を握りしめたまま、でも、もう振り上げない。ただ、信じられないって目で、「おまえ……本気かよ」って、掠れた声で呟く。
「本気だよ」
私は振り返らずに答える。玄関のドアノブに手をかけて、最後に一度だけ、彼の方を見る。指輪の箱がテーブルに置かれたまま、ダイヤが蛍光灯の下で冷たく光ってる。カレーの残り香が、まだ部屋に漂ってる。家庭の味。でも、もう私の味じゃない。
「荷物は全部持ってく。残りは、後で引き取りに来るよ。鍵は、不動産屋さんに返却するから」
モラちゃんは立ち上がろうとして、膝がガクッと折れて、また座り込む。
「おい……待てよ。話せばわかるだろ。俺が悪かったって、謝るから……」
今さらの言葉。謝るって言葉が、これまで一度も出なかったくせに。頰の痛みが、ジンジンする。でも、もう涙は出ない。出るのは、静かな決意だけ。
「話すことなんて、もうないよ。幹雄くんは、私を『おまえ』って呼ぶのが好きだったんだね。でも、私は『弥生』でいいんだ。高千穂弥生で」
ドアを開ける。夜の冷たい空気が、廊下から吹き込んでくる。スーツケースの車輪が、床を転がる音が、やけに大きく響く。モラちゃんは最後に、「待てよ……弥生……」って、私の名前を呼んだ。
でも、遅すぎる。私はドアを閉めた。カチッ、という音が、これまでのすべてを終わらせる音みたいだった。外は暗くて、商店街の街灯が、ぼんやり光ってる。スーツケースを引いて、ゆっくり歩く。
明日の朝、『喫茶うさぎ』に行って、かずちゃんと宇佐美さんに、「お願いします」って言う。本物のコーヒーを、自分の手で淹れる朝が来るように、修行させてもらって、2階に住まわせてもらおう。通帳の数字は、もうすぐ400万円。あと少しで、居抜きの450万円に届く。
私は深呼吸して、空を見上げる。星は見えないけど、明日の朝は、きっと晴れる。コーヒーの香りが、私の新しい朝を待ってる。自由の味は、まだ少し苦い。でも、これから、甘くもできるんだ。
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